?と突然私の耳に届いた言葉で、はっと我に返った。
 我に返ってからも、それでも上手く現実に合わすことができなくて、どろどろに溶けてしまった頭でどうにか考える。考えるよりもまず先に声をかけてくれた人を見るべきだったのかもしれないけれど、とにかく今の私にはそんな簡単な当たり前のことさえもできなくて、ひたすらに俯いたまま現実を探していた。視界の端から入る光が橙を帯びていて、時刻は夕方なのだと知る。それから履かずに投げ出されている自分のローファーをゆっくりと認識して、下駄箱の下のほうが同時に見えて、そうしてやっと学校の放課後だということを思い出した。



 ハル、



 名前をうっかり呼びそうになって慌てて口を閉じる。そうだった、泣いていた。

「・・・・違う、」

 幸村くん、と続けようとして、また同じ声が降ってくる。

「何が違うんです?」

 そこでようやく私は顔を挙げて、自分の目の前にいる人物を捉えた。



 柳生だった。



 逆光になっていてよく見えないけれど、間違いなくそこにいたのは幼馴染の柳生比呂士で、少し屈んで私の様子を窺っている。

、ちょっと」

 柳生は前触れもなしに私の腕を掴むと、そのまま外へと向かう。突然すぎてローファーに履きかえることができずに上履きのままになってしまったけれど、咄嗟に自分の荷物だけは掴み取る。ずんずんと歩く背中に、制止の声をかけようと思うけれど、どうしてかそれはできなかった。



 辿り着いた先は、体育館の入り口付近にある小さな水道だった。ぴたりとそこで足を止めると、柳生は綺麗にたたまれているハンカチをポケットから取り出して、水を含ませると、私に座るように言った。意味がわからなかったけれど、とりあえず言われた通りに近くの階段に腰掛ける。

「目を瞑ってください」
「え?なに、」
「いいから」

 目の前を大きな手で遮られる。戸惑いながらも、私はその動きに誘われるようにして瞼を閉じた。深呼吸をする。冷たい空気を思いっきり吸い込む。

「ひゃっ」

 突然目の周りに冷たいものを当てられ、思わず変な声を出してしまった。驚いて手を挙げるけれど、それも叶わずに柳生によって遮られる。いいから、と強い口調で言われて、そこでやっと先ほど柳生がハンカチを濡らしていたのはこのためだったのかと気がついた。冬の冷気に塗れたハンカチはとても冷たかったけれど、熱を持っていた目の周辺が落ち着きを取り戻していくのがわかる。
 きっと私は泣きはらしたような目をしていたんだろう。
 心配してくれたのかもしれない。
 大丈夫だよ、と言いたいけれど、きっと信じてなんかくれないだろうなと思い、結局大人しくされるがままにすることに決めた。

「ヒロ」
「なんでしょう」
「・・・・うん、今日、部活は?」
「ありますよ。先生に頼まれていたことがあって、さっきまでそれをやっていたんです」
「そう、じゃあさらに遅れちゃうね。ごめんね」
「お気になさらず。は?」
「あるよ。40秒走って言ってたなーやだなあ」

 ぶつぶつと文句を言う私に、柳生はそうですかとだけ答えて、それからは何も言わなかった。

 多分、わかっている。

 私が、今からどこへ向かうのか。

「ヒロ」
「なんでしょう」
「ありがとう」

 言ったと同時に振り返ったから、ハンカチがべちゃりと可愛くない音を立てて地面に落ちた。日差しと同時に視界に入ってきた柳生の眉間には皺が寄っていて、「・・・・ごめん」と呟いたらこつんと頭を小突かれた。










「あなたーごはんですよー」

 幸村くんは嬉しそうににっこり笑って差し出されたお茶碗を受け取っている。今日のおかずは何ですか?なんてにこにこした顔で聞いていて、聞かれた可愛らしい女の子は「かれいのにつけよ。いなかのおばあちゃんがおくってくださったのよ」と、予想さえしていなかったことを言った。

「あらあなた、おきゃくさんですよ」
「うん?ああ本当だ。じゃあさっさとご飯を食べちゃおう」

 いや出迎えろよ!と思うけれど、そんなことを言うのさえ忘れて目の前の珍しい光景を凝視してしまう。幸村くんに妹がいることは聞いているけれど、確かこんなに小さな子ではなかったはずで、しかもあの子がパジャマを着ていることを考えると、きっと病院に入院している子なんだろうということくらい想像できる。それにしたって、彼がおままごとをしている姿はなんていうか違和感だらけで、でもこれはこれで絵になるな、と思ったら邪魔することはできなかった。

「ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」

 両手を胸の前で合わせてお辞儀をする二人。どうでもいいけど、あの子は一体どういう家で生活してるんだ、と思う。一昔前の良家のお嬢様か何かなんじゃないかと思ってしまうような言葉を使う。

「それじゃあせーいちさん、またあした!」
「はいはい、また明日ね、愛ちゃん」
「はいは、いっかい!」
「はーい」
「のばさない!」
「はい」

 愛ちゃんと呼ばれた女の子は、小さな手で一つ一つおままごと道具を鞄にしまうと、ゆっくりと幸村くんのベッドから降りて、ぺたぺたとスリッパの音を響かせながら私が佇んでいる扉に向かって歩いてくる。すれ違い様に「おねえさんはせーいちくんのかのじょですか?」と聞かれたので「そうです」と素直に答えると不機嫌な顔になってしまった。

「せーいちくんのばか!もうあそんであげないんだからっ」
「ええ?なんで?」

 ふーんだ!と言って愛ちゃんは廊下をぱたぱたと走っていく。二つのおさげが規則正しく揺れている。5歳くらいだろうか。

「なんだ突然。なんか言った?」
「お姉さんは精市くんの彼女ですかって聞かれたからそうですって素直に答えたら怒り出した」
「ははっ、そこ空気読んでくださいよお客さん」
「あらごめんなさい、次からは気をつけます」

 お土産に買ってきたお気に入りのチーズケーキを小さな台の上に置き、椅子を準備をしている間、幸村くんは愛ちゃんの話をしてくれた。愛ちゃんは来月に5歳の誕生日を迎えるらしい。病名は幸村くんも知らないとのこと。ただ、異常にやせているあの身体と、ちらりと見えた浅黒く変色した手首を思うと、簡単な病気ではないんだろうと勝手ながら予測した。

「この病院では俺より先輩。3つ上」
「随分小さい時から入院してるんだね」
「そうだね、でも良い子だよ。人懐っこくて。病院にたくさん友だちもいるみたいだし。あ、俺は友だちじゃなくて夫だから」
「なんで幸村くん?」
「さあ」

 かたん、と椅子に座って幸村くんを見る。幸村くんが入院してからまだ少ししか経っていないのに、もう随分前からこうしていたような気がしてしまう。

 どうして病院は白いんだろう。清潔感を表すなら青だって良い気もするけれど。真っ白な病室で真っ白な寝巻きに身を包んだ幸村くんは、信じられないくらい綺麗で、それでいて信じられないくらい嘘臭かった。学校で見る、あの存在感が確かにそこにあるのに、それでいてどこか一点を突いたら全部霧散してしまうのではないかと思う。ちなみに薄幸の美人とかそういうんじゃない。そんな、やわな存在じゃない。

 力強い、でも幻。

 普段は別段そんなこと思わないのに、ある時突然ふと恐ろしいまでの焦燥感を感じるのだ。それは多分。幸村くんが、自分1人で世界を完結させているみたいなところがあるから。この人は、きっと他人と世界を共有していない。







 呼ばれて我に返る。今日はなんだかトリップの多い日だ。何、と返事をすると、幸村くんが自分の右手を差し出してくる。わけがわからないまま、とりあえずその手を握ると、幸村くんは満足そうに笑った。

「この間俺が言ったこと覚えてる?」
「・・・・心当たりがありすぎてどれのことかちょっとわかんないんだけど」
「それどうなの?あれだよ」

 そう言って幸村くんは繋がれたままの手を挙げた。

「俺、の手が握れなくなることは怖くないって言っただろ」
「・・・・うん、言ったね」

 ちょっとだけ凹みました、とは言わない。ポケットの中で携帯電話が振動した。沈黙の中でその音はやけに響いて、マナーモードと言えども意外と音がするんだな、とそんなどうでも良いことを思った。

「どうでも良いわけじゃない」

ふいに、幸村くんの言葉が強くなる。

「テニスラケットは、俺が手放したらそれで終わるけど、」

 幸村くんが、突然掌を開いて、だから彼の手が落ちそうになる。
 私は反射的に、その手を強く握った。

「ほら、は、そうやってお前が掴んでくれるだろ」



 だから怖くないよ。



 私の視線の先で微笑む彼は、やっぱり綺麗だった。

「・・・・っ、幸村く、」


 びしりと言葉で言葉が制される。びくりと思わず背筋を伸ばした。まっすぐに私を見つめる彼の視線は、呪縛の魔法でも含んでいるかのように私をその場に縛り付けた。
 カチコチと時計の針が進む音がする。

 嫌だ、

 と叫びそうになる。わからないけれど、とにかく嫌だった。それ以上幸村くんに何かを言わせてはいけない。そう全身が告げているのに、私は動けない。



 また、タイミングを間違える。



 それだけは避けたくて、なのに。





「終わりにしようか」





 幸村くんが手を離した。



 今度は、握れなかった。





かない小鳥






 
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
あと2話。の、予定。

10年05月05日


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