幸村くんの病室へ向かおうと教室を一歩出たところで仁王に呼び止められた。

 部活動へと向かう生徒の波間で立ち止まったものだから、何人もの生徒と肩がぶつかり合って、ごめんと謝罪の言葉を連続して口にする。壁に寄りかかって手招きする仁王の方へ歩み寄ると、話がある、と言われた。返事をする間も与えられず、彼は先へと行ってしまう。テニス部の人は基本的に返事を待たない主義なんだろうか、とこの間の丸井くんを思い出してそう嘆いた。
 柳生は違うけど。

「仁王、仁王待って」
「なんじゃ」
「今日は幸村くんにお見舞い行くって言っちゃったからあんまり時間ないんだけど」
「心配せんでもすぐ終わる」

 直射日光が当たってきらきらひかる仁王の綺麗に色が抜かれた銀髪は、開け放たれた窓から入ってきた冷たい風に揺らめいている。見え隠れする双眼は相変わらず何を考えているのかわからない。ここじゃだめなのかと問うと「ダメ」と短く言われてしまった。





 階段を下って人気の無い特別教室が並ぶ静かな場所に出る。音楽室はすぐに吹奏楽部が来てしまうから、と理科準備室へと勝手に入った。きっと5時間目の授業で実験があったのだろう、特殊なにおいが充満している。コポコポという水槽のポンプの音と、水道にかけられた雑巾から落ちる雫のぽたぽたという音が、しんとしたこの部屋によく響く。
 仁王は側にあった丸椅子を手繰り寄せると、一つに腰掛けてもう一方を私に寄越してきた。行儀が悪いとわかりつつも片足でそれを寄せて仁王と少し離れたところに座る。

「で、話って?」

 わかってはいるけれどわざとそうとぼけたように仁王を見れば、切れ長の眼をさらに細めて、彼は胡散臭そうに私を見る。スカートの裾をにぎる手に、じわり、変な汗をかく。

「幸村」
「うん」

 顔は上げられない。仁王を見ることはできない。じっと、待つ。



は、幸村んこと、好きなんじゃろ」



 多分、本当は質問なんだと思う。けれど語尾は上がらずに、確定型。

「好きだよ」

 丸井くんの時のように答えられたかどうか若干不安だったけれど、きっと大丈夫。
 私たちの周りの空気はひどく無機質で、まとわりつく冷気がいつもよりも重い。仁王は私をじっと見つめるだけで、何も言わない。





「好きだよ」





 私はもう一度、だけどさっきよりも強く、言い放つ。



 いつだって沈黙に耐えられなくなるのは私だった。仁王がどう思っているのかはわからないけれど、最初に切り出すのはいつも私の役目で。息が詰まる、というよりも、息が止まるかと思った。

 詰まっているのはいつも。
 沈黙で、それが完全に止まる。



 仁王はひどく苛立ったような顔で私を見ていた。



 そんなの、私だって同じだ。










 私と仁王を死んだ双子みたいだと形容したのは幸村くんだった。

 茹だる様な暑い夏の日、ひんやりと冷たい階段にこんがり焼けた足を投げ出して座っていたときだった。

 その日、私は全国に向けて焦る気持ちを静めようと自主練に来ていて、だから側に友人はいなかった。なんとか警報(確か、こうかがくすもっぐ、とかそんな名前)のせいで走るのを中断しなければならなくて、仕方なしに校内に引き下がっていた。家で凍らせてきたスポーツ飲料水を飲み干して、ペットボトルの中で凍ったまま溶けない氷をがしゃがしゃと振っていると、ふいに影が落ちてきて、顔をあげるとそこにはクラスメイトの幸村くんがいた。
 真っ白なタオルを首からかけた幸村くんは、屋上へと続く階段から降りてきて、私の隣に腰を降ろした。

 仲が悪いわけではないけれど、特別仲が良いわけでもない。仁王を介してなんとなく話したことがある程度で、でもそれも本当に1回くらいだった。そもそも仁王とも教室ではあまり話していないから、やはりどんなに記憶を辿ってみても、幸村くんとの接触なんてほとんどない。

 こんにちは、と綺麗な笑顔で言われて、私は慌てて頭を下げた。ドキドキする。でも、これは恋とかそういうんじゃない。

 ただ、緊張。

 幸村くんは静かに窓の外を見上げて、暑いねと言った。そうだねとかそういう辺り障りない普通のことを返した私に、幸村くんはいつものふんわりした笑顔で笑った。
 時間の関係で太陽の光があたらない廊下は、ひんやりとした空気で気持ちがよかった。幸村くんも、同じように校内へ非難してきたばかりらしく、うっすらと汗をかいている。人間なんだから当たり前なのだけれど、それが何だかあまりにも似つかわしくないような気がして私は1人で驚いていた。全国2連覇の立海大付属テニス部部長というレッテルは、どうもピンとこない。隣のクラスの真田くんの方がよっぽど似合っている。

 しばらく涼んでいた私たちだったが、ふいに沈黙が破られた。



 仁王が現れたのである。



 幸村くんと同じく屋上へ続く階段が、コツコツ、と鳴り始め、振り返った先に現れたのは見慣れた銀髪だった。何しとん、と低い声で呟いた仁王に、答えたのは幸村くんで、校内デート、と言った。もちろん私はその答えにびっくりしたのだけれど、仁王があまり取り合っていなかったから、何となく否定する雰囲気ではなくて、結局そのままだった。仁王は私の横をすり抜けて、幸村くんにあと15分、と告げてそのまま降りて行ってしまった。幸村くんはその様子を目で追って、仁王に時間を注意される日が来るとは夢にも思わなかった、と可笑しそうに口の端を上げた。そして何の前触れもなく、くるりと私の方へ向き直り、一言、



と仁王は死んだ双子みたいだ」



 真顔だった。
 たった一言、それだけ、それだけ言われて、私は全身が、カッと熱くなるのを感じた。



 見抜かれている、その、羞恥心から。



 うろたえる私をどう思っていたのかはわからないけれど、さらに「そろそろ解放してあげたら」と続けた。きゅ、とTシャツの裾を掴む。ひんやりとした廊下とは対照的に私の体温は上がっていくばかりで、びっくりしたまま何も言えなかった。

 それじゃあねと幸村くんは立ち上がる。何事もなかったかのように去っていく。



 私は、はじけたように顔を上げて、叫んだ。



 振り返った幸村くんは、驚いたような、でもこうなることを予想してたかのような、そんな顔だった。










「わかんない、わかんないよ、何が言いたいの、どうして欲しいの、なんで今更そんなこと言うの!?卑怯だよ!いつもいつも沈黙を破るのはあたしにやらせるくせに、破ったら破ったで納得いかないみたいな顔してる!何が気に喰わないの、何がそんなに仁王を苛立たせるの!あたしだって、そういう顔して欲しいわけじゃないよ!」

 耐え切れなくなってそう叫んだ。叫んだというよりは絞り出したに近い。あふれ出そうになる涙を堪えて何とか仁王を睨もうとした瞬間、ふいに、ぎゅ、と腕を回されたらしくそれは叶わなかった。離れて座っていたはずなのに、いつの間にかこんなに近くまで来ていたらしい。ひゅ、飲み込んだ息が、変な音を立てて止まる。



 動けなかった。



 頭では今すぐにでもこいつを突き飛ばして幸村くんのところに行かなくちゃ、と思ったけれど、体がまるで他人のものであるかのように上手く動かせない。少し震える右腕で、なんとか仁王のブレザーの裾を掴む。離してください、と言った私の声は、ほとんど息だけだった。

 どくどくと波打つ心臓の音は、私のものか、それとも仁王なのか。

 背中で、ぎゅうと手が握り締められたのがわかった。



 強烈な、既視感。



 フラッシュバック。流れ込んでくる、少し前の仁王、私、校舎裏。



 気がつけば、どうしたの、と背中に手を回して問うていた。仁王どうしたの、繰り返し繰り返し問う。仁王は、何も言わない。しばらくそうしていて、そして唐突に、仁王が言った。

「なして、」

 感情の読み取れない、平淡な声だった。
 初めて、仁王から沈黙が破られたような気がする。





「なして、幸村を選んだ」





 ぷっつりと。
 ぷっつりと私たちを繋ぐ糸が切れた。

 正確には、切れたような気がした。
 何故だろう、何がいけなかったんだろう、わからないけれど、もう駄目だと思った。引きずってきた、仁王への想い、仁王との過去、全部がさらさらと崩れていく音がする。さっきまでの高まりが嘘みたいに静まって、ひどく冷静な自分がいる。目の前で揺れる仁王のネクタイを見つめながら、私は今度こそはっきりと仁王を引き離して幸村くんのところへ行こうと思った。仁王へ手を伸ばしたところで、逆に彼が離れていく。緩慢な、のろのろとした動きで仁王を見上げると、そこにはいつも通りの仁王がいた。
 多分、仁王も同じ気持ちなんだろう。

「・・・・幸村くんの、お見舞いに行かなくちゃ」

 呟いた私に、仁王はいってらっしゃいと言う。変な気分だ。ほんの数分前まであんなにも感情があふれ出しそうになっていたはずなのに、今はもうそんな気配は微塵もない。

「何がいけなかったんだろう」
「なんじゃろ、全部?」
「あー、うん、うん、そうだねそれは言えてるね」
「きっと、幸村がの手を引かんでも、俺たちは終わってたぜよ」
「はは、何それ、間違いだよ、始まらないもん」

 ぽかんとした表情で仁王が私を見る。何か間違ったことでも言ったかなと首をかしげていると、弾かれたように笑い出した。びく、と反応してしまう。珍しい。

「・・・あー、あー笑った、おかしー。確かに、始まらんな。でもそれでも、終わってたと俺は思う」
「そうかな」

 再び首をかしげる私に、仁王の目は一瞬だけ優しくなった。



「そうじゃ。始まらずに、溶けるように終わる」



 それを想像して、私も口を歪めて少し笑った。あまりにもそれが想像できて、ひどく滑稽だった。

 ばいばい、そう言った私に、仁王は、またな、と返してきた。多分、このやり取りは、初めてだった。



 ぱたんと準備室の扉を閉める。



 仁王と私の間に、閉められずに存在していた扉を閉める。






 吹奏楽部の友だちとすれ違って、とても長い時間だったように感じていたけれど、実はそうでもなかったことを知る。大分人気の少なくなった廊下を足早に歩いていき、下駄箱まで辿り着く。もう大分汚れてしまったローファーを取り出して乱暴に地面に叩きつけ、それを履くためにしゃがみ込んで、



 泣いた。



 ぽたりぽたりと作られる染みを見つめながら、私は泣いた。





かない小鳥






 
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仁王との過去を書くべきか書かないべきか。迷う。
そして次からやっと幸村さまのターン!頑張れ幸村!

10年04月17日


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