「さすが俺の彼女だよね」

 病室に入るなりいきなり幸村くんにそう言われた。言っている意味がわからなくて、とりあえず無言で病室の扉を閉める。
 三日ぶりに見る幸村くんは、パジャマであることを除けばいつも通りで、病気だというのが嘘みたいだった。

 凛とした存在感が、確かにある。

「聞いたよ、武勇伝」
「武勇伝?」
「仁王がおかしそうに笑いながら話してくれて、柳生が呆れてて、柳が満足そうに頷いて、他の皆が驚愕してた」

 ああ、と私は曖昧に返事をする。仁王と柳生の反応はともかく、柳くんとやらに満足される意味が正直よくわからない。
 側にあったパイプ椅子を引き寄せるとガタンと乱暴に座った。

「幸村くんはあたしの彼氏ですが何か?だっけ、いやあ、正直がそういうこと言うとは思わなかったけど」

 ふふっ、と可笑しそうに幸村くんは笑う。

 綺麗だな、と思った。










 どこが出所なのかはわからないけれどおそらくテニス部の誰かが発信源であろう「と幸村精市は付き合っているらしい」という噂はあっという間に広がった。
 ただしそんな気配を今まで微塵も感じさせなかっただけあって、噂は真偽が定かではないまま広がり、誰もが戸惑っているようだった。
 チラチラと向けられる視線とか、ボソボソと呟かれる声とか、とにかく一日中そんなものに追いかけ回されてイライラしたまま放課後を迎えた。
 最初に、私への沈黙を破ったのは案の定というかなんというかミユちゃんだった。

ちゃん、幸村くんと付き合ってるってほんと?」

 遠慮も何もあったものではないストレートな質問。ちなみに、そこがミユちゃんの良いところであり、私がミユちゃんを尊敬するところだ。

「ストレートな割に随分時間かけたね。朝から気になってたんじゃないの?」
「うーん、あまりにびっくりしたからちょっと様子見ようと思ったんだけどね、様子見てたからってわかるとも思えなかったから聞いてみることにした」

 クラス中の意識が私のところに集中している。こういう注目のされ方は好きじゃない。
 しかも待ってましたとばかりに矢継ぎ早に色んな人から質問が飛んできて、ミユちゃんと話すどころではない。偶然教室の前を通りかかった人まで教室に入ってきて、まるで熱愛が発覚した芸能人みたいな扱いだった。

 似たようなものだけど、幸村くんが。

「俺もそれ聞いたんだけど、マジなん?まったく考えもしなかったんだけど」
「っていうかってそういう話しないから恋とか興味ないのかと思ってた!」
「え、いつからいつから?」
「っつかホント?信じられないんだけど」

 ざわり、教室全体が突然熱を帯びたように感じられた。私の周りにできた人だかりの奥でヒソヒソと囁かれている内容は聞こえないけれど、ただあまり良い感じにはどう贔屓目に見ても受け取れない。
 私はただの平凡などこにでもいる中学生で、だから多分あんなスーパースターみたいな幸村くんと付き合っているだなんて、信じられないんだろう。



 もっと言えば許せないんだと思う。



 あからさまな言葉が降り懸かってこないのは、きっと皆これが事実だった場合の幸村くんの反応に怯えているからなんだろう。

 視界の端に、仁王が映る。
 いつもみたいに薄く笑って、ひらりと手を挙げてきた。



 何かが、私の中ではじけた。



「幸村くんはあたしの彼氏ですが何か?」

 はっきりと、遠くにいる仁王にも聞こえるように張った声は想像以上に大きくて、廊下を歩いていた人たちまでもが足を止めていた。
 しん、と静まり返る教室をわざと大きな音を立てて出ていくまで、誰一人話しかけて来なかった。










「だって、幸村くんはあたしの彼氏でしょ」
「まあ、そうだね」
「例え何もしてなくても、あたしの彼氏でしょ」

 本当に、私たちは恋人らしいことなんて何もしていない。手を繋いだ記憶もデートの記憶もほんの少ししかないのだから、ましてやその先は言うまでもなくて。

「そうだね、間違いなく」

 幸村くんはさらりとそう言った。

 冬の曇り空の夕方の病院はいつも以上に薄暗くて嫌な気分になる。
 下を向いて、膝の上で握られた自分の両手を見つめていたら、ふいにそれに幸村くんの手が重なった。

 びく、と身体が緊張する。

 幸村くんは滅多に手なんか繋いでくれない。
 どうしたんだろう、さすがの幸村くんでも弱ってるのかな、そんなことを考えるけれどすぐに一蹴した。弱ったって、私には絶対それを分けてくれない。私も、分けたりなんかしない。



 そういう、関係だ。



 弱々しく握られる手を、私はしばらく黙って見つめていた。夜に星が瞬くみたいに、微かなざわめきがあるけれど、それを正確に読み取ることはできない。
 彼の真意を図りかねていると、「ねえ、」と幸村くんが沈黙を破った。
 返事の代わりに顔をあげる。

「俺の病気のことは知ってるっけ?」

 言葉にされても、やっぱり真意はわからなかった。少しだけ、というと、微かに微笑んだ気がした。

「まあ、運動能力に問題があるものなんだけど。わかるだろ、これ、俺の今の握力」
「・・・・え、これ、全力なの?」
「そう。笑っちゃうだろ。右腕が一番ひどいんだ」

 笑えなかった。

 またしばらく無言が続いて、幸村くんが、手を離す。前に仁王と幸村くんが言い争っていたのは、このことだったんだなとそんなことを思い出した。
 窓の外の景色に目を向ける幸村くんはいつも通りだった。いつも通り、何を考えているのかわからない。無表情だとか言っている意味がわからないだとかそういうんじゃない、当たり障りの無い笑顔の下には、どんな表情が潜んでいるんだろうとよく思う。比較的仲の良い人たちにはどちらかと言えばはっきりと感情を示す方だけれど、その一握りの人たちを覗けば皆平等。平等に、笑顔を振りまく。

 私は、その間。
 というより、イレギュラー。多分、幸村くんのあの接し方は、「対」。

「最初に、」

 病室の前を飛んでいく鳥を目線だけで追いながら幸村くんが言った。

「最初に違和感を覚えたのは当然だけどテニスをやってる最中だった」

 一瞬、なんのことだろうと考えてしまって、多分不思議そうな顔をしたんだと思う、幸村くんが「この右手ね」と付け足した。

「それで、愕然としたよ。全部を理解してたわけじゃない、何もわからない、ただ、ああ何か恐ろしいことが起こる、って思った」
「・・・・うん」
「一緒にラリー打ってた柳に気づかれて適当にあしらっていたらそこを仁王に見られたわけなんだけど」

 仁王、という単語を強調するように幸村くんは言う。意図的だということくらい私にもわかって、思わず眉を顰めた。

「理科の実験の後、追ってきてただろ?話聞いてたんじゃないの?」
「・・・・聞いてました」
「そういうこと。で、とにかく毎日嫌な気分で、それからひどく恐ろしくなった」
「テニスができなくなることが?」
「そういう漠然としたことより、ラケットが握れないことが、かな」

 ひらひらと手招きをされて、少しだけ離れて椅子に腰掛けていた私は、ゆっくりと幸村くんの側に歩み寄る。近くまで行くと、幸村くんが、また私の手を握った。



 弱い力。



 じっ、と私を見つめてくる。何も言わないけれど、だんだんと幸村くんの言いたいことがわかってきてしまった。聞きたくない、とまでは思わないけれど、聞きたいとも思えない。

「でも、別にの手が握れなくなることは怖くない」

 人の葛藤なんて綺麗に無視して、幸村くんはそう言い放った。言ってからまた、じっ、と私を見つめてきて、その目はまるで「お前にもわかるだろ」と言っているようだった。

 幸村くんが、私をどう思っているのかなんてわからない。あからさまな嫌悪を向けられたことはないけれど、好意を寄せてくれているとも思わなかった。

 仕方がない。



 だって私は、テニスに結びついていない。



「丸井たちが素っ頓狂な声で、えー幸村くんてほんとにあの女と付き合ってんの、とか言うからうっかり笑っちゃったんだよね」
「・・・・気持ちはわからなくもないけど、でもひどくない?」

 ふふっ、とまた幸村くんが笑う。
 やっぱり、綺麗だと思った。

 綺麗だ、そう思うけれど、残念ながら私には彼に対する感情は、これしかない。



「だってさ、俺たちはどっちかっていうと『共犯者』だろ」



 薄い唇の端が、歪んでいるみたいに上がって、幸村くんのあの綺麗な目が細められた。この目と口が、私は苦手だ。異常に強い束縛感を感じてしまう。特に何かされたわけでもないのに、ただ、思い知らされる。



 お互い利用しているだけ。

 柳生にはああ言ったけれど、私が幸村くんとの関係をあまり公にしてこなかったのは、ただただ最悪感があったからだ。幸村くんに対しても、柳生に対しても、仁王に対しても、全部。



 本当はあの幸村くんが倒れた日、私の関心は全部それに向いていた。
 走りながら救急車のサイレンを聞いたとき、表面上は興味が無い風を装っていたけれど、内心ひどく焦っていたのを覚えている。救急車の停車位置がテニスコートの付近だったこともしっかり確認して、それからさらに胸がぎゅうと締め付けられた。

 柳生から電話が来て、それを取ることさえもが恐ろしくて。

 だけど知らないのはもっと嫌だと思って、携帯電話を耳に当てて、怒鳴られて、倒れたのは幸村くんだと知って。





「よかったね、仁王じゃなくて」





 幸村くんが、微笑んだ。
 私は、長く冷たい息を吐き出して、小さく頷いた。





かない小鳥






 
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幸村夢です。(※あくまで主張)

10年03月20日


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