結局あの日、幸村くんには会えなかった。

 帰りたくなくて、病院の暗い廊下の床に足がへばりついて動かない私を、どうにか引っ張り出してくれたのは柳生だった。あまり記憶には残っていないけど、きっと何か私を安心させる一言を言ってくれたんだと思う。
 二人揃って無言のままエレベーターで一階まで降りると、来たときとは逆で仁王が待ち構えていた。何遠慮してるんですかと柳生は呆れて、仁王が何か言う前に立ち去ってしまった。残された私は、何となく気まずい気持ちになって、とりあえず謝ってみる、「ごめんなさい」、もちろん顔を見ることなどできるわけもなく、自分のみすぼらしいローファーの爪先を見つめたまま、小さい声で言った。仁王は何も言わずにそのまま私の腕をつかんで、ずるずると病院の自動扉を潜り抜けた。その間仁王もまた無言で、病院を出て冷たい空気に当たるまで息がつまりそうだった。
 ひゅう、と冬の寒さを連れてきた風と同時に、「大丈夫かお前」、なんて普段聞きなれない声で言われてびっくりして顔をあげると、どうやら私を心配して待っていてくれたらしいテニス部レギュラー陣が勢ぞろいしていた。色々と言いたそうな人が多かったけれど、柳生に「バス、これ逃すと次30分後ですよ」と言われて慌てて飛び乗ったから、視線だけが追いかけてきた。真田くんが「お前幸村と、」まで言い掛けて背が高い人――確か柳くん――に制されていた。



 私と幸村くんが付き合っていることはあまり知られていない。



 あの様子からしてきっと柳くんとやらは知っているに違いなかったけれど、おそらく他のメンバーは知らないのだろう。
 仁王と柳生には、私から言ったから二人は知っているけれど、他の部員には言わなかったようだ。



 帰りのバスの中、携帯電話が何度か鳴った。



 一度も出なかった。










「ただいま」

 ぼうっとしたまま学校を終えて帰宅すると、すぐにリビングから母が顔を出した。何かおつかいでも頼まれるのではないかと思った私は、すぐさま階段へ向かう。「待ちなさい!」、鋭い声が飛んできて、仕方なく振り返ると、そこにはジュースとお菓子を載せた盆を手にした母が立っていた。

「え、何?おやつ?珍しい!やったー」
「馬鹿なこと言わないの、これ、比呂くんの分よ」
「はあ?」

 何で、と私が言うより早く、「あんたの部屋で待っててくれてるから手洗って早く行きなさい」と急かされる。



 学校は幸村くんの入院話で持ちきりだった。
 教室に入って席に着くなりミユちゃんがどこか興奮した様子で私のところへやってきて、「幸村くん入院するんだって!びっくりだよね、大丈夫かなあ。あ、病名はまだわからないみたいなんだけど。昨日救急車で学校から運ばれたらしいよ、ちゃん知ってた?」と一気に捲くし立てた。一拍おいて、ゆっくりと一度深呼吸をしてから、ああそう言えば聞いたかも、と答えると、「ちゃんってクールすぎると思う、仮にもクラスメイトが倒れたんだからもっと心配してあげようよ!」と怒られた。同じようで決定的に違う台詞を昨日も仁王だか柳生だかから聞いていた私はそれに適当に返事をして、すぐに教室を出て行った。



 幸村くんのいない教室は、どこかちぐはぐしていた。



「おかえりなさい」

 お盆で両手が塞がっていて、さてどうしようかと部屋の前で悩んでいると、すぐに扉が開いて中から柳生が顔を出す。

「よくわかったね」
「足音聞いていれば誰だってわかります」

 柳生は私からお盆をさり気なく手に取ると、くるりと部屋へ戻っていく。その後を追うような形で、私も自分の部屋へと入った。

「久しぶりなんじゃない?この部屋に来るの」
「部屋まで来たのは確かに久々ですね」

 ぐるりと彼は部屋を見渡して、それから、相変わらず何もない部屋ですね、と頬を緩ませた。あの顔が、私は好きだった。一瞬だけ、ふ、と笑う、あの仕草は小さい頃から変わらない。

「で、どうしたの?」
「どうしたのも何も。今日、朝練から私と仁王くんは質問攻めだったわけですが、貴方たちの関係は一体いつまで秘密にしておくつもりなんですか?」

 永遠、と言ったら怒られそうで、私はしばらく考えこむことにした。



 そもそも秘密にしようと言い出したのは幸村くんの方で私から言い出したことじゃない。だけど確かに、立海大付属中1・2を争うモテ男の幸村くんと付き合っていることがバレようものなら、ファンクラブ(本当にあるかどうかは定かではないけれど、その類の団体があることは確かだ)の人たちから攻撃を受けそうだと思って承知した。ちなみにこの話を幸村くんは鼻で笑ったんだけど。



 そういうわけで私は、幸村くんからその提案を受ける前に話してしまった仁王と柳生を除いて、一番仲の良い女友達にだって彼と付き合っていることは言っていない。幸いなのかどうなのかはわからないけれど、私は恋する女の子に特徴的な、あの花を飛ばすという業を見につけていないので、誰一人感づくことなく月日は過ぎていた。
 だから、柳くんには、驚いた。



「そうだ!柳くん!あの人なんで知ってるの?ヒロ、言った?」
「言ってません。彼は参謀ですから、あらゆる情報を網羅しています。それくらい知っていても当然なのでは?ところで、私の質問の答えを考えていたわけではなかったのですね」

 色々と反論したかったけれど眼鏡の奥の目が細められたのを見て諦めた。

「そもそも秘密にしようって言い出したのは幸村くんだし、あたしの一存じゃ決められないよ」
「だとしても、です。我がテニス部が感づいたのは、紛れも無く貴方の軽薄な態度のせいなんですから、責任持ってどうにかしてください。私も仁王くんもはぐらかすのには限界があります」
「ヒロはともかくハルは問題ないと思うけど」
「問題大有りです」

 そう言って柳生が取り出したのは携帯電話で、その画面には一通のメールが映し出されている。



 02/04 06:52
 To:仁王雅治
 Title:(non title)
 ――――――
 ぶかつやすむ めんどい

 -END-



 なるほど。

「あたしが悪いとしても、それでもやっぱりあたしの一存じゃ決められない。ヒロだって、わかってるでしょ、相手はあの幸村くんだよ?」

 ベッドへと転がり込む。枕に顔を埋めて柳生の次の言葉を待ってみるけれど、聞えてくるのは時計の針が進むカチカチという音と、階下で母が何か野菜を刻む音だけだった。



 ゆっくり、ゆっくり、それでも確実に時間は進む。



 ぎし、とベッドの軋む音がした。

 どれくらい時間が過ぎたのか、正確にはわからないけれど、おそらく20分くらい経っていると思う。音がして、体が少し傾いて、柳生が動いたことはわかっていたけれど、それでも顔は上げなかった。


 さら、と頭を撫でられる。



 1分。

 インターバルをおいて、もう一度。

 1分。



 今度は何度も撫でられた。



 驚いたような想定内だったようななんともいえない感情が襲ってきて、結局まだ顔はあげられない。枕に顔をぎゅうぎゅうと押し付けたまま。

が、幸村君と付き合うことに私は反対していませんが、」

 例え貴方が彼を好きだろうとなかろうと、そう続いた言葉だけは、心なしか少し小さかったような気がする。溶けるように染み込む言葉を、私はぼんやりとした意識の中で聞いていた。





「仁王くんは、よく思っていないと思いますよ」





 私は何も言い返さなかった。





かない小鳥






 
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どろ沼にハマった。終わらない。ヒイ!

10年03月16日


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