幸村くんが倒れた。



 そう連絡が入ったのは、彼が倒れてから数時間後のことだった。
 部活動中に倒れたらしい幸村くんはそのまま救急車で運ばれていき、レギュラー陣がその後を追ったらしい。救急車に同席したのは柳くんと顧問だったようで、他の皆はバスを乗り継いで大学病院に向かったのだそうだ。



 外周をしていた私たち長距離組は、救急車がきたことは知っていたけれど、野次馬みたいに群がることはなんだか気が引けて、意識はそちらに向けつつも、何も興味がないふりをしてそのまま走り続けていた。それから1時間程して外周を終え、校庭に戻ると、短距離班と跳躍班、それに投擲班の皆がなにやら興奮した顔つきで話し込んでいた。話題はもちろん救急車のこと。
 興味があると言えばあるのだけれど、どうせ明日には学校の話題に上るだろうと思っていた私は、そのまま練習を続け、結局「テニス部の誰かが運ばれた」ということを耳にしたのは部活を終えた後だった。
 部活の中で一番仲が良いミケ(言っておくけど猫じゃない)が、「ってテニス部に知り合い多くなかったっけ?誰か運ばれてたよ」と教えてくれたのだ。知り合いが多いと言ってもレギュラー陣に数人いるだけで、あれだけの大所帯であることを考えれば、別段多い方でもない。だからこの時私は、きっとレギュラーじゃない誰かが、あの幸村くんの鬼のようなメニューにより倒れたんじゃないだろうか、とかそんな呑気なことしか考えていなかった。

 部室で着替えを終えて、先輩を見送って数人で学校を出る。
 まさにその時だった。



 着信を告げる携帯電話。



 表示は「柳生比呂士」。



 面倒くさくて数分放置しておいたのだけれどそれは鳴り止まず。仕方なく通話ボタンを押したら、怒鳴られた。





『何でもっと早く出ないんですかっ!今すぐ付属病院に来てください、幸村くんが倒れました』





 周りで、携帯から漏れる声を聞いていたらしい友だちが目を見開いていた。










 自動ドアを開けると、鼻をつくような病院独特の匂いが体に染み渡る。面会時間終了間際のロビーは少し賑わっていた。煌々とした灯りに照らされた受付に駈け寄ろうとすると、横から腕を力強く引かれてバランスを崩す。なんとか足で踏ん張って顔をあげると、そこには仁王がいた。



「遅い」



 一言そう言う彼の機嫌が良いのか悪いのかは判別がつかない。

「・・・そんなこと言われても。だって知らなかったし」
「見とけ、って忠告しといたのに台無しじゃ」
「部活中は無理だよ、仁王が見ておけばよかったじゃん」
「見とったよ、見とったけど、どうしようもなかった」

 淡々という様は悔やんでいるようにはまったく見えないけれど、内心きっと自分を責めているに違いない。仁王とはそういう男だ。

「倒れた、ってなに?幸村くん病気なの?」
「まだ何とも言えん、ただ症状はギランバレーに似とるけ、覚悟はしといた方がよか」

 ギランバレー症候群。

 運動神経が麻痺して、運動能力が低下する病気だった気がする。詳しくは知らないけれど、確かそんな病気だったはずだ。少し前にテレビのワイドショーで芸能人の誰かがそれにかかったとか何とか報道されていた。



 運動ができなくなる。





 テニスしか愛せない男からテニスを奪おうというのだろうか。





 神様は、なんて残酷。





「冷静すぎ」

 ガコン、と古びた音がしてエレベーターが開く。見舞い客やら医師やらが数人、その大きな鉄の箱から降りてきた。私の横を小さな少年がすり抜けていく。
 仁王を物珍しそうに振り返り、すぐに母親らしき女性の後を追って行った。

「仮にも自分の恋人が倒れたんじゃろが」
「うーん、正直、実感が湧かないんだよね。幸村くんが倒れたとか言われても」
「誰なら実感湧くん?」
「真田くん」
「阿呆、あいつこそ倒れんっつの」

 チン、と五階到着を告げる音が鳴った。
 エレベーターの扉が開くと、目の前には見知った顔。思わず反射的に扉を閉めようとしてしまった。近すぎる。というか、乗っているのが私たちではなかったらどうするつもりだったんだろう。



「遅いです」



 電話をしてから30分も経っています、と柳生が眼鏡をくいとあげながら私を見下ろしている。仁王は隣で笑いを噛み殺していて、何がそんなに面白いんだとイライラした。

「・・・仁王にも言われた。そんなこと言われたって部活だったし」
「恋人が倒れたんですよ!」
「・・・いや、うん、わかってるけど、だってあたしと幸村くんはテレパシーで繋がってるわけじゃないしさ」
「第六感を働かせてください」

 無理だ。

「っつかだったらヒロがすぐに電話してくれればよかったじゃん」
「貴方に構っていられるほど余裕はありませんでしたから」

 そういうと柳生はやっと目の前から退いてくれた。

 ぐるりと見渡すと、そこは小さなロビーみたいになっていて、半円形のソファーに立海の制服に見を包んだ生徒が数人腰掛けていた。きっとテニス部のレギュラーの人たちだ。皆無言で、険しい表情をしている。ちらりと私を一瞥したのは確か丸井くんだ。後輩にファンがいるので、何となく覚えてしまった。

 幸村くんは、と呟くと仁王が廊下の奥を指差した。

 薄暗い廊下に点滅する、集中治療室の文字。



 やっと、ただ事ではないんだということを実感した。



「・・・何じゃ」
「え?」

 見上げた仁王は珍しく困惑した色を含んだ目をしていて、私は目をぱちくりとさせる。私の返事にさらに困ったらしい仁王は、少し目を泳がせて、それから、手、と言った。

 言われて自分の右腕を辿ると、指先は仁王のブレザーの裾を掴んでいる。
 自分でもびっくりして、何で?と仁王に問うと当然だけど、知らんと返された。

 ブレザーを掴む手は震えている。





 何故?



 怖いから?



 何が?



 幸村くんが、いなくなる?





 私と幸村くんは、お世辞にもラブラブカップルとは言えないくらいさっぱりした付き合い方で、一緒に帰ったのなんて片手で足りるくらいしかない。デートなんて付き合ってから半年経つというのに一回しか行ったことがなかった。



 何で付き合い始めたのかって言われると、告白したら承諾してくれたからで。



 だから幸村くんが、私を好きかどうかなんてわからない。好きです付き合ってください、なんていう定番すぎる言葉を述べた私に、いいよ、の一言。



 今はどうか知らないけれど、あの時幸村くんが私を好きだったとは思えなかった。





 私も、幸村くんを、好きではなかった。





「・・・幸村くんに会いたい」

 呟く。





「幸村くんに会いたい幸村くんに会いたい幸村くんに会いたい」





 今度は仁王がびっくりしたみたいだった。ついでに言うとソファーに腰掛けるレギュラー陣も皆揃って私を振り返っている。



「幸村くんに、会いたい」



 仁王の手が、私の頭をくしゃりと撫でた。





かない小鳥







 
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わあ続き書いちゃった。

10年03月05日


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