ガチャン!



 と音がした。
 理科の実験中、炭酸水素ナトリウムの分解。退屈な座学が終わって始まった実験に、理科室はお世辞にも静かとは言えないくらいざわついていた。私の班も先生の説明をまったく聞いていなかった仁王が、寝ぼけたまま手順を間違えそうになって、皆で必死に止めようとしているところだった。



 一瞬、しん、と教室が静まり返る。



 教室の真ん中で皆の視線を一身に浴びていたのは幸村くんだった。



「幸村!それ何割ったの!?」
「すみません先生、大丈夫です、ただの水が入ったビーカーですので」

 慌てたような先生の声に幸村くんは原形を留めていない元ビーカーの底を持ち上げて言った。驚かすなよー!とサッカー部の佐藤が言って、幸村くんはごめんごめんと笑った。それを合図にまた教室が騒がしくなる。

「・・・びっくりしたあ、幸村くんでも物割ったりするんだね、手が滑ったんかな」

 私が間抜け面して目を瞬かせると、ビーカーの割れた音に反応して、結果、手を止めていた仁王が、微かに眉を動かして、「あの馬鹿」と呟いた。
 乱暴にフラスコを机にたたき付けると、ツカツカと幸村くんの元へ行ってしまう。「仁王!」班員の言葉になんか目もくれない。
 半ば呆然として仁王を目で追っていると、彼は幸村くんの左手を掴んでそれから「先生」と、決して大きくはないけれどよく通る声で言った。



 再び、教室に沈黙が降りる。



「こいつ、腕怪我してるんで、保健室連れてっていいですか」

 その言葉に皆驚いたようだったけれど、誰よりも驚いていたのは幸村くんだった。普段あまり驚いたりしない幸村くんが、目を見開いて仁王を凝視している。
 先生が許可を出すより先に仁王は幸村くんを引っ張って教室を出て行こうとした。クラスメイトがあんぐりと口を開けて見送る中、幸村くんだけがいつの間にかいつも通り悠然と微笑んでいて、「あ、気にしないでください、さっき切っただけなんで」と告げた。それに反応して先生が、気をつけて、と何とも微妙な返事をする。また、ざわりと教室が鳴った。

「仁王って、よくわかんないね」

 隣でミユちゃんが長い睫毛とくっきりとした二重で大きく見える目をぱちぱちとさせながら首を傾げる。私は仁王たちの出て行った扉をもう一度見つめて、曖昧に返事をした。
 とにかくさっさと実験をやろうとガスバーナーに手を伸ばしたところで「保健委員、一応ついていってあげて」と先生からのご指名が下る。しばらく動かないでいたけれど、相方が動く気配を見せなかったので、私はため息をつきながら立ち上がった。










 授業中の廊下は不気味なほど静かで、篭ったような教師の声だけがやんわりと響く。なるべく音を立てないように私は足早に教室の前を走り抜けて一番端の階段にたどり着くと、ゆっくりと下った。

 我が立海大付属の校則は何だかよくわからないけどやたらと細かくて、例えば授業中の保健室利用は保健委員が同行することが義務付けられている。多分、さぼり防止。
 さっきは突然のことで先生はうっかり仁王も行かせてしまったけど、本当は禁止。だからこそ、こうして私が向かう羽目になってるんだけど。

 五段くらい降りたところで、上から話し声が聞こえることに気づいた。理科室を含めた特別教室が並ぶこの階は最上階で、従って上には屋上しかない。その屋上へ向かう途中の踊り場で、誰かが話しているみたいだった。

 耳を澄ます。
 どうやら男の子らしい。
 まさか、と思い私はこっそりと階段を昇った。



 声の主はやっぱり仁王と幸村くんだった。何を話しているのかはわからないけれど、仁王の声がいつもより低い。手摺りの下に身を縮こまらせながらそっと階段を昇っていく。別に隠れる必要なんてないけれど、なんとなくそうするべきなような気がして私は結局姿を隠したまま彼らのすぐ近くまで来てしまった。



「じゃけん、一度診てもらった方がよか」



 仁王の、そんな声がする。みてもらう?傷がそんなにひどいのだろうか。

「だから気にするなって前にも言っただろ。余計なお世話だ。いちいち言われなくったってまずいと思ったらちゃんと行くよ」

 幸村くんの声もいつもとは違って少し尖っている。口調もテニス部の皆限定に使われる、ちょっとだけいつもより男らしいものだ。

「今、既にまずいじゃろ」

 握力無いよな?と仁王が続けた。わけがわからず息を詰めていると幸村くんの盛大なため息が聞こえてくる。

「別に、いつも通りだよ」
「じゃあなしてさっきビーカー割ったん」
「手が滑った」
「嘘つけ」
「ああもう、この間聞いたことは忘れろってば!」

 あからさまにイライラとした口調で幸村くんが声を荒げ、私は思わず一歩下がった。



 幸村くんはクラスではあまり目立って騒ぐ方ではない。目立つが目立たないかと言われればそれはもちろん目立つ部類に入るのだけど(というかテニス部はそれだけで目立つ。パワーアンクルとかしてるし)、それとこれとは話が別だ。大体幸村くんはぺったりと笑顔を貼付けていて、誰に対しても同じように振る舞う。魔王だとか傍若無人だとかキングだとかそれこそ色々言われているけれど、あまり深く関わらない大勢の人にとっては得に怖いだとかそんな感情はない。その人たちから見ればこの幸村くんはきっと天変地異の前触れくらいに思うかもしれない。



「とにかく仁王には関係ないから。ダブルスのことだけ考えてればいい」

 だん!と壁を叩くような音がして、足音が一つ遠ざかり、錆びた扉の不協和音の向こう側に消えた。



 まずい、一人降りてくるかもしれない。
 私はそっと右足を踏み出した。





「バレバレじゃけど、





 名指しされた。

 恐る恐る振り返ると仁王はもうすぐ後ろの踊り場まで来ていた。元々細い目をさらに細めて私を見下ろしている。色素の薄い前髪から覗く双眼は、それでもまだ優しかった。

「何立ち聞きしとんの」
「立ち聞・・・!ちが、」
「違うん?」
「・・・わない」
「阿呆、そこは否定しときんしゃい」
「したらハル怒るじゃん!・・・あ、」
「・・・ええよ別に。誰もおらんし」

 ハル、とつい昔の癖で呼んでしまった。教室でこんなことをしようものなら金輪際口をきいてくれないに違いない。屋上階段でほんとによかった。

「自分の彼氏の体調くらい、見張っとれば?」

 無機質な感情の無い声で仁王が言う。私はうんと答えつつ首を傾げて、でも幸村くんだし、と思う。

「幸村くん、体調悪いの?」
「本人曰くそんなことない、俺から見れば最悪」
「最悪って、なら仁王が止めればいいじゃん、あたしに幸村くんのことなんてわかんないよ」
「俺のことならわかるのに?」

 意地悪く、仁王が笑った。上履きを投げつける、避けられた。

 幸村くんの上がって行った先を見る。屋上の扉はぴっちりと閉まっていて、開く気配なんて微塵も感じられない。むしろ近づくなとさえ言っているような気がする。



 幸村くんは基本的に人に頼らない。
 頼らないどころか、本気で関わらない。それは冷たいとか他人に興味がないとかそういうことではなくて、ただ単にテニスが一番にあるだけなんだと思う。



 それだけ。



 それだけで、あんなにも他に無関心になる。



「なあ

 当たり前のように名前で呼ばれて、私は「何、ハル」と答えた。



「あいつは、テニスが一番じゃ。それは絶対に覆らん」



 知ってるよ、と吐き捨てる。今更仁王に指摘されなくてもそれくらいわかっている。

「幸村くんにとってテニスをやらないあたしなんか価値なんてほとんどないよ、だからあたしに幸村くんを理解しろだとかそんな高度すぎること求められても困る」

 仁王はきょとんとした顔をして、それから大きな声で笑った。今が授業中だと言うことを完全に忘れているんじゃないかと思う。
 ひとしきり可笑しそうに笑ってから、お前なんで幸村と付き合っとんの、と涙を拭いながら言った。



 そんなの、私が聞きたい。



「でも、幸村んコトほんと、良く見といた方がええよ。そんで止めろ」

 どうせ幸村くんは聞いても笑って大丈夫としか言わないから、私は仁王の言葉を聞き流した。





 三日後、幸村くんが倒れた。





かない小鳥








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なにこれ全然ときめかないなこの夢!でも続き書きたい。

10年02月16日


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