〈高校一年 四月十八日 入部届提出日〉 柳が電車に乗っていると、珍しく柳生が乗ってきた。普段はバス通学であるはずの彼が電車を使うことはほとんどない。一つ隣のドアに背を預けてぼんやりと流れていく景色を見つめている。柳生が乗ってきた駅から三駅ほど進んだ、大きな駅で、乗り換えのために車内が一気に空いたのを見計らい、柳は近づいた。 「おはよう、電車を使うなんて珍しいな」 声をかけると、柳生は視線を上げた。柳がいることに驚いている。 「おはようございます。大きな下水道の工事があるとかで、バスが運休しているんですよ。柳くんこそ、朝練は?」 「春大前で、一年は全員無しになった」 そうでしたか、と微笑んで、柳生は再び視線を窓の外に向ける。 さてどうしたものか、と柳は思わず腕を組んだ。今日は一年生の入部届提出日で、テニス部は一度視聴覚室に集まることになっているのだけれど、彼を誘うべきなのかどうか、いまいちわからない。入学式から昨日まで一度も顔を出さなかったということは、つまりそういうことなのだろう。仁王辺りは、あまり干渉するつもりがないようだったけれど、幸村や真田、丸井などは、放っておけば柳生の家に突撃しかねない勢いだった。 この間、クラスの中でも優秀だと評判な女子生徒と、予備校の話をしているのを偶然耳に挟んだ柳は、きっと柳生は高校では勉強に一番力を入れるつもりなのだろう、と予想していた。将来は医者になるんだと、と仁王が冗談っぽく言っているのを聞いたことがあるが、どうやらあれは本当のことだったようだ。確かに、立海大付属のテニス部は、勉強との両立はかなり厳しいけれど、それでもできないほどのことではないはずである。 「教室でもそうですが、何も、お聞きにならないんですね」 柳が考えを巡らせていると、前触れもなく、柳生がそう呟いた。表情は変わらない。視線も、外に向けたまま。 「なら聞くが、」 柳がそう口にしても、まだ柳生は動かなかった。 「テニスは、もうやらないつもりなのか?」 「やらないつもりです」 「理由を聞いても?」 「勉強に、専念しようと思いまして」 そこでやっと、柳生は柳に振り向いた。眼鏡の奥に見える目に、迷いや躊躇いは無さそうで、ちょっとやそっとのことでは、その意思は覆りそうになかった。他でもない柳生自身の決めたことに口を出すわけにも行かないし、止める理由も思い浮かばない。 「他に誰かに言ったのか?」 電車が丁度、学校の最寄駅についたことを告げた。同じ制服に身を包んだ生徒たちがバラバラと降りた。どんよりとした曇り空は、今にも泣き出しそうで、どこか生徒たちの足取りは速くなっていく。 柳と柳生も、どちらからともなく、いつもよりも少しペースを上げて歩き出した。折り畳み傘はもちろん持っている彼らだけれど、降らないうちに校舎に辿り着くに越したことはない。青空が広がるときは開放的に感じる舗装された通学路も、今日はどこか陰鬱な空気だった。 「誰にも、言っていません」 唐突に、会話が再開された。先ほどの電車内での続きなのだろう、柳生はぽつりとそう言った。誰も聞いてきませんでしたので、というその理由は、何とも彼らしい。柳は持っていた鞄を背負い直すと、一度、足を止めた。 「・・・・どうか、されましたか?」 数歩進んだところで、柳生が怪訝そうに振り返る。歩道の真ん中で立ち止まった柳を迷惑そうな顔で何人かの生徒が避けながら追い抜いていった。 「何だろうな、やめて欲しくないのが本音だが」 まっすぐ、柳生を捉えて、柳は言う。柳がそういうことと言う男だとは思っていなかった柳生は、面を喰らって思わず目を見開いた。 「そんな一個人の感情で引きとめていいものなのかどうか悩んでいるところだ」 はい?と柳生が口にしたところで、柳は大股で柳生に近づくと、気にするな、と満足気に笑う。 「俺はどちらかと言えば精市や弦一郎といた時間が長いからな、あいつら寄りの考え方をする」 「どちらかと言えばも何もずっと三人で一緒だったでしょうに」 呆れた様子で柳生も柳の横に並ぶと、再び歩き出した。肌寒い風が通り抜け、少しだけ季節が戻ったような錯覚に陥る。柳と言えば、幸村、真田に並ぶ三強と称される男で、この三人がセットでいることが多かったが、そういえば何度か柳とこうして二人で歩いたような記憶が柳生にはあった。人間を大きく二つに分類するならば、確実に同じ部類に入る者同士、なんとなく二人になる場面があったのである。 「元の考え方があいつら寄りというよりは、影響を受けてそうなったと言った方が正しい」 「・・・・全然、そのようには見えませんけれど」 「そうか?じゃあ違うのか」 「・・・・いえ、知りませんよ」 いつの間にか柳の機嫌は大層上昇したようで、今の天気には似つかわしくないほどに上機嫌だ。 「まとめると、柳生の気持ちもわからんでもないな、ということだ」 それはどうも、と柳生が言いかけて、後ろからクラスメートに声をかけられた。彼は高校になって初めて同じクラスになった人で、名前の順でたまたま柳生と柳の近くになり、それなりに仲良くやっているバレー部の少年だ。テニスという内輪の話はもちろんそこで中断される。 わかるわけないでしょう、と柳生が吐き捨てるように呟いた言葉は、柳には届かなかった。 春の大会前で忙しいということもあって、テニス部の入部希望者は、放課後視聴覚室に集められた。外部入学のない高等部では、全国制覇を掲げるほどのテニス部には、当然新規参入者はほとんどおらず、従って毎年人数は中等部のまま繰り上がるか、または減るかのどちらかだった。 人数の確認をしていた上級生が、ふと柳生がいないことに気づき、幸村の名を呼ぶ。何ですか?と爽やかな笑みを貼り付けた幸村に、柳生は?と問うたことが、間違いで。 「さあ、仁王くんが知ってるみたいですけど」 そう答えた様は、不機嫌だった。 知ってんの?と驚いたように小声で仁王に話しかけたのは隣に座っていた丸井で、その奥から桑原も身を乗り出す。知らんて!と口調を強めて仁王が答えたのを、上級生も聞いていたようで、そうか、と残念そうに言った。 涼しい顔をして前から仁王を見下ろす(教壇の上に立っていたので物理的に)幸村を、じっとりとした視線で仁王が睨み返すと、突然にこりと笑った。嫌な予感しかしない。 「先輩、今日は入部希望届を提出して、終わりなんですよね?用事があるのでもう退室してもよろしいですか?」 構わないよ、と若干の驚きを含んだ声で上級生から許可が降りたと同時に幸村は既に出口に向かっていた。立て付けの悪いと評判の扉を大きな音を立てながら無理矢理開け、「柳も行くだろ?」とそれだけ残して立ち去った。ぽかん、とした表情で、誰もが見送っている。 確かに部長をやっていた頃の幸村は、まさに独裁といった状態であり、自由気儘に振る舞っていたけれど、さすがは体育会系の鬼、決して先輩の前で無礼なことはしていなかった。今回のこれは、無礼とまでは言わないにしても、決して気持ちの良いものではない。 名前を呼ばれた柳が、上級生に一度謝罪を述べると、幸村の後を追って出て行った。 あっけに取られたその場の雰囲気を打破したのはそれまで指揮を執っていた上級生で、「お前らも解散していいよ」と苦笑混じりに言った。それを合図に動き始めた一年生は、口々に冗談っぽく、うちの部長がすみません、神の子がすみません、と言いながら立ち上がり教室を出て行った。仁王は一言、失礼します、とだけ告げて、足早に廊下に出た。後から真田、丸井、桑原と続く。 「仁王、ほんとにお前何も知らねえの?」 丸井がアップルガムを取り出しながら言う。どうやらさすがに先輩の前では我慢をしていたらしい。ちなみに自分が最高学年になると、会議だろうと何だろうといつでもガムを食している。当たり前のことだが、そういう小さな変化が、今までとはまた違うのだ、ということを自覚させた。 「聞いとらん」 「でもクラス一緒じゃん」 「話さんからの。どちらかと言えば参謀の方がよく柳生と話しちょる、まあ席も近いし」 興味が無さそうに、面倒臭いというオーラ全開で話す仁王に、真田が「しかしお前たち、ダブルスを組んでいた仲だろうに」と言った。 「関係ないじゃろ・・・・」 あまりにも当たり前のことであるかのようにさらりと言った真田に、どこの世界の常識だ、と仁王は額に手を当てた。お前らだってさすがにそう思わん?と仁王は丸井に投げかける。 「まあなーダブルス組んだからって、教室でも一緒にいるかっつったら話は別だよなー。俺、部活ではジャッカルと一緒だけど、クラス一緒になったらグループ違う気がする」 「いや、ブン太は間違いなくジャッカル依存症」 「やめろよ仁王、それ俺が嫌だ・・・・!」 「あ!?ジャッカルてめえハゲのくせに!」 「・・・・俺大人だから何も言い返さないでおいてやろう、っていうか、話逸れる」 逸れてくれて一向に問題のなかった仁王は、この時ばかりは正義の味方であるはずの桑原を恨んだ。思わず睨むと、何だよ?と桑原が焦ったような表情になる。 「にしても、何か心当たりはないのか?柳生がテニスをやめる理由が思い浮かばないが」 真田は難問にぶちあたったかのように、顔を歪めてみせる。それに賛同するように桑原も頷いた。 「家がバタバタしてるからっ、て聞いてたから何も聞かなかったけど、さすがに今日まで来ないとは思わなかったな。他の部活に入ってるわけでもなさそうだし、何かあったのか?」 「さあなー。でも比呂士のことだし、ただ単に勉強やりたくなったとかもありえそうだよなー俺だったら絶対そんなん考えられないけど」 「勉強は理由にはならないだろう?ならば部活動と両立すればいいだけの話だ」 三人の話を一歩下がって聞いていた仁王は、ああなんてわかりやすい人たちだろうと苦笑いをした。丸井は相変わらず変なところで鋭くて、桑原は相変わらず心配性で、真田はおそろしく自分の考えを貫く男だった。 他人、なのだ、所詮。 だから本人が決めた後で、他人である自分たちが入り込めるわけがない。 それでも、確かに、今柳生が選んだ選択肢が、満足できるものではない、と頭のどこかで何かが訴え続けている。この感情の名は、わからない。 「仁王は、比呂士いなくなって寂しくねえの?」 丸井からの突拍子もない質問に、仁王は思わず、はあああ?と本当に迷惑そうに声を出した。桑原が隣で呆れかえっている。寂しくないわけなかろう!と勝手に真田が代弁して、仁王が笑った。 「別に」 「こら仁王!たるんどるぞ!」 「意味わかんねえええ!真田ウケる!」 「丸井!貴様もだ!」 「何でだよ!?」 こういう、馬鹿なことをやる時間を手放すのは惜しいと、仁王は思うけれど、そしてその中にあきれ返りながらたまにズレたつっこみを入れる柳生がいないことを物足りないとは思うけれど。 果たしてそれが寂しいという感情と結びつくのかと言われると、正直よくわからなかった。 テニスをすることが当たり前ではない。 けれど、このメンバーで、学校生活を送ることは、少なくとも仁王を含めた多くが、当たり前だと思っていることだった。 それさえも、柳生の中には当たり前のこととして認識されていないのか、それとも無理矢理押し込めたのか。 仁王には、どうも後者のような気がしてならず、気づいたら廊下を駆け出していた。 「納得のいく説明をどうぞ」 柳生の部屋の入り口に立ったまま、幸村が言った。 連絡もなしに突然柳生家にやってきた幸村は、とりあえず柳生が部屋へ通すと、急ぎなんだけど、と前置きし、そして唐突にそう言った。後からついてきた柳は素知らぬ顔で勝手にベッドに腰掛けて事の行方を見守っている。 「説明、と言われましても、何のことですか」 「わかってるくせにそうやって言うところ、仁王にほんとそっくりだな」 明らかに嫌味と取れる発言をされても、柳生はそれを受け流した。幸村がいつもよりもイライラしているのはわかったし、こういう時の彼に反論しても勝ち目はほとんどない。 二人がやってきた理由など、わかっている。 「今日は何の日かわかってるね」 「・・・・入部届提出日、ですよね」 「そうだよ。で、何で来なかった?別に今日行かなくとも入部するつもりです、ってわけでもなさそうだし」 「では逆にお聞きしますが、行かなければいけない理由はどこにあるのでしょうか」 柳生のその物言いに、幸村は驚いたような表情をした。端で二人の様子を見ていた柳も、少しだけ反応して身を乗り出す。 物腰は柔らかく、顔は微笑んでいるけれど、何か文句ありますかとでも言い出しかねない威圧感だった。 無駄な物が一切置かれていない、シンプルで、どこか少し殺風景な部屋の雰囲気も合い重なって、殺伐とした空気が流れている。二人とも無言のまま動こうとしないので、柳が仕方なく間に入り、とりあえず座ったらどうだ、と提案した。 「・・・・大人気ないことを言いました。申し訳ありません。今、お茶を煎れてきますね」 最初に折れたのは柳生で、そういうところはいつもと変わらなかった。仁王相手に口喧嘩をし、変に頑固になるところは、柳も幸村も見たことがあるけれど、他の人相手には見たことはおろか、聞いたことさえない。だから、あの幸村も驚いて言葉を詰まらせたのだけれど。 「いや、いいよ、俺こそ悪かったね。ほんと、お構いなく。っていうかあれだ、連絡もなしに来てごめん。・・・・柳、これくらい?」 「とりあえずは。これから起こり得ることに対しても謝罪しておきたければそれも」 「うん、じゃあ先に言っておくけど、柳生、多分怒らせるから、ごめんね」 「・・・・聞いたことないですよ、謝罪の前払い」 階下に降りようと浮かせた腰を、柳生は再び沈めた。あはは確かに、と幸村が手を叩く。 「柳生、お前テニスやめる気なの?」 婉曲表現も何もなく、ズバリという幸村のそういうところが、柳生は嫌いではないけれど、今この場面では、苦笑しか出てこない。どう答えようかと柳生が考えていると、ちなみにこれは誰かに聞いたわけではなく俺個人の意見ね、と幸村は付け足した。 「・・・・そうですね、結果的に、そういうことになるんだと思います」 「遠まわしだな、結果的に、っていうのは?」 「選んだものが、テニスではなく、そちらを選ぶ以上、やめざるを得ないということです」 今度は、間髪を入れずに返答した。考える素振りさえ見せていない。つまり、その意思と考えは、既に柳生の中で固まっている、ということを如実に物語っていた。 「それは進路が関わってくるってこと?」 「そうです。勉強しなければならないんです」 柳生が医者になりたがっているという話は何となく有名だった。本人の口から公言されたわけではなかったけれど、あれだけ部活動優先の毎日を送っている中で、決して勉強に妥協を許さずに、努力している姿が、それを裏付けていた。と言っても、勉強している姿を人に見せるような男ではなかったため、それを知っているのはごく僅かで、あとはイメージだ。定期テスト毎に発表される上位者二十名にいつも名を連ねていたから、柳生が優秀であることは、明白な事実だった。 だが、つまりそういうことなのだ。中等部の時だって、勉強をやりながら部活をしていたはずだった。そして、それが両立できる男だった。 「けど、別に部活をやめるほどのことじゃないだろ、中学だってやって来れたんだし」 「中学とは、話が別です」 大学受験に向けて本当に勉強が必要なんです、と柳生は力強く言った。 「貴方が、テニスを続けることは自由ですが、どうしてそこに、他人を巻き込もうとするのです」 馬鹿、と柳が呟くのと、幸村が立ち上がるのは、ほぼ同時だった。柳生が下から見上げても、丁度蛍光灯と重なって逆光で、表情はよく見えない。 「他人、とか簡単に言うの、やめてくれる」 静かな、声だった。 ただし、怒気を含んだ、声だった。 「俺、夏の全国が終わった時に、柳生だけじゃない、皆に言ったよね?」 柳も立ち上がり、このまま座って聞く内容ではなさそうだ、と思った柳生も、静かに立ち上がる。 「今度こそ『俺たちで』優勝しよう、って」 その時にお前はそんなこと言う俺を笑ってみてたの?幸村の声が、どんどん低くなっていく。 あの時、青春学園の一年生に負けた直後なのに、悔しそうな顔もせず、ただ、真剣に、真顔で言っていた幸村を、柳生は今でも覚えている。その時に皆で大きく返事をして、そしてその中に、柳生もいた。あの時の気持ちに偽りはないし、確かに次こそは!と思ったのも間違いなかった。 ただ、少しずつ月日が流れ、進路について考える機会も増え、見えた道は、あの時に見えたものではなかったのだ。 「・・・・貴方たちとは、違います」 「何が」 「考え方も、先へ続く道も、全てです!」 柳生が、声を荒げたのを二人が見たのは、初めてだった。しん、と沈黙が降り、一瞬、反響したように部屋の中が静まり返る。 「ムキになるってことは、テニスをやめたくないってことなんじゃないの?ならやればいいだろ」 「幸村くんには、わからないのだと思います」 痺れを切らした幸村が、柳生に手を伸ばしたところで、バタン!と部屋の扉が乱暴に開けられた。驚いた三人の視線の先には、肩で息をした仁王が立っていたのである。 「・・・・ちょお、待ち」 ゆっくりと息を整えながら、仁王が幸村の手を掴む。中途半端に投げ出されていた幸村の右腕を、ゆっくりと下げさせると、今度は肩をぐい、と押して柳に向き直る。 「参謀、幸村、連れて帰れ」 「・・・・仁王、ちょっと、お前干渉しないんじゃなかったのか」 「・・・・その点についての小言は後で聞くよって。悪い、少し、外してもらえんかの」 しばらく無言で仁王を睨んでいた幸村は、結局スタバのコーヒーで手を打った。 「仁王、俺たちをこんな風に扱ったんだから、お前、わかってるよね?」 「・・・・無茶言いなさんな、努力はしちゃる」 「ちょっと!勝手に話を進めないでください!そもそも仁王くんは一体どうしてここにやってきたんですか!」 突然の仁王の登場に、我を忘れて呆然と立ち尽くしていた柳生は、そこでやっと事態を把握したらしく、仁王に詰め寄った。柳はというと、既に帰る支度も整え終え、一人廊下に佇んでいる。お役ごめんといったところだろうか。 「それじゃあ、仁王、間違えたら承知しないよ」 幸村はそれだけ言い残すと、先ほどまで柳生と言い争いをしていたことなど嘘のように、そのまま退散していった。柳が扉を閉め、直前に頭を下げて、その後を追う。 静寂が、再び訪れた。 「何も変わっとらんな、この部屋」 とりあえず腰を落ち着かせて、一回りぐるりと部屋を見渡した仁王は、どこか懐かしそうにそう呟く。勝手に側にあった茶色いクッションを取り寄せると、そこに顎を乗せるようにして、抱いた。 「・・・・特に変えるものもありませんし。ところで誰が貴方を招きいれたんです」 「母。あら仁王くん、お久しぶりね、今他のテニス部の子たちも来てるのよー」 柳生の母の声色を真似ていつもよりも高めの声を出す。似てません、と柳生はため息をついて、それからやっと自分も座った。フローリングの上に敷かれた簡易なカーペットには、染み一つ見当たらない。 「よう来とったな、この部屋。週一くらいでお邪魔してたんじゃなか?」 「そんなに来てましたか・・・・?ああ、春の大会前の話ですか」 仁王の家は、柳生の家よりもさらに学校から離れたところにある。そのため、何かと話し合うことがあれば、利用するのはいつでも柳生家だった。時には丸井桑原ペアも一緒にお邪魔することもあったが、基本的には、仁王だけだった。柳生は、他人を部屋に入れたがるタイプではない。 「そういえば幸村くんたち、何故この家を知っていたんでしょう」 「そんなん、住所でも見たんじゃろ」 珍しく頭が回っていないらしい柳生の様子から、相当混乱していたのだということを知る。基本的にはポーカーフェイスを保っているけれど、感情に乏しいわけではないのだ。 「やめるんか、テニス」 ゆっくりと、でもはっきりとした声だった。柳生はしばし俯き加減のまま動かず、沈黙していたが、意を決したように顔を上げると、肯定のために、頷いてみせた。 「なして?」 「ご存知かと思っていましたが」 「憶測でしかなかよ、聞いとらん」 「その、憶測通りだと思います」 別にお互い心を許しあった仲というわけではない。仁王にしてみれば、どちらかと言えば丸井や幸村の方が気が合うし、柳生にしてみても、柳や桑原の方がタイプが近い。少なくとも表面上の彼らは誰よりも正反対の位置にいるのだけれど、深層では、同じだった。 人との距離の取り方が、似ている。 人との付き合い方が、似ている。 だから、そういう、他人の関わることで、考えがわからないことは、ほとんどない。 「お前さん、案外器用なタイプではないからの」 「余計なお世話です」 こうしてまともに時間を取って二人で話すのは久しぶりだった。最後にダブルスを組んだのが、昨年の夏の関東で、それ以降は何となく疎遠になってしまった。ダブルスを組んでいなければ話さないというわけではないけれど、圧倒的に時間が減る。中学三年の頃はクラスが違うのだから当たり前か、とも思っていたが、高校に入ってクラスが一緒になっても結局その距離はほとんど変わらなかった。 「まあ、テニスに続くわけじゃあ、ないからの」 「そういうことです。ああ、楽ですね、そうして皆わかってくだされば、とても楽なのに」 「何意味わからんことぼやいとん?」 そのままですよと柳生はカーペットに寝転がる。 幸村にも、柳にも、進路のためにテニスを諦めるのかと言われた。それは、間違いではなくて、確かに自分の進路のために、テニスをやめようと決心した。 別に高校卒業までくらい良いじゃないかと二人は言う。おそらく、真田にしても、同じことを言うだろう。丸井と桑原は、そうは言わなくとも、きっと「柳生の決めたことだし口は出さないけど」という意味で、無理矢理認めるに違いない。 そうでは、なかった。 先に続く道が、テニスではないから、その前の段階で、断ち切ろうと思ったのだ。 比較的日本でも盛んな野球でさえ、甲子園に出たからと言ってプロになれるわけではない。天皇杯に出たからと言って、Jリーグ入りできるわけではない。ましてやテニスなど、それを仕事に出来る人は、本当に一握りだ。一般的なサラリーマンになるのならば、もちろん大学を出るまで好きなことに打ち込んでいても問題ないだろう。 しかし、どうしても、目指す先が、人命救助を謳う「医者」となれば話は別だった。 もちろん医者志望の者が高校三年間を勉強漬けにしなければならないだなんて決まりはないし、部活動を必死にやったからと言って、なれないわけじゃない。けれど、立海大付属高校テニス部という、言わば頂点に近いところに位置する部に所属し、かつ、大学も有る程度名の知れた、できればトップクラスを狙うとなると、どう考えても両立は厳しかった。 将来を誰もから有望視されるような、先天的な天才的頭脳を持っているならばまだしも、そういうわけではない。もちろん柳生とて、常人に比べれば遥かに賢い部類に入るかもしれないが、その上でテニスでも頂点を目指すなど、到底無理な話だった。 少なくとも、柳生は、そう思っていた。 テニスが嫌いなわけでも、つまらないと思ったわけでもないけれど、絶対的な優先順位の問題として、選ぶことはできないのである。 「なー柳生」 寝転がる柳生のすぐ頭上で、仁王は低く唸る。返事をする代わりに右手を持ち上げた柳生を見て、仁王は微かに頷いた。ぱたり、すぐに戻された右手は、上手く落ちずに、仁王の左手に当たった。 「医者目指すって決めてた柳生が、離れるんはわかっとったけど、」 右ひざを立てて頬杖をつき、ぼうっとした表情で、仁王は扉の辺りを見つめている。自分の部屋なのだから何もないことはわかっているけれど、なんとなく柳生も目で追ってしまった。 「別にそんな難しく考えずに、あいつらともう少し一緒にいる気にはならんの」 ねえ、と仁王は柳生を見下ろす。左腕で目の辺りを覆い隠すようにしていた柳生は、その合間から見える仁王と目が合い、反射的に瞼を閉じた。 「・・・・それだけで考えたらそうなりますけどね、そうも言ってられないでしょう。全国制覇を目指す部活ですよ、簡単に入るわけにはいきません」 「適当にできない程度には負けず嫌いだしの」 「・・・・・・・・うるさいですよ」 ガッ、と、柳生はいきなり仁王に腕をつかまれ、そのまま勢いよく無理矢理起こされた。抗議の声を挙げる暇もなく、ずい、と人差し指が目の前に差し出される。 「ちょ、いきなり何す、」 思わず、少し後ずさった。 「それこそ、幸村じゃないけど、」 一度、仁王は空気を大きく吸い込んだ。 「あいつらと、いられるんは、最後じゃ」 わかっとんの、と真剣な表情をした仁王に、柳生は思わず息を止めた。ひゅ、と変な音がして、一瞬だけ呼吸が止まる。 柳生とて、わかっては、いるつもりだった。わかってはいたけれど、それを考え出したらキリがなく、だからこそ無理矢理蓋をした。比べるにはあまりにも比較対照が異なりすぎて、どことどこを比べれば決着が付くのか、まったくわからなかったのである。 「俺もお前も、他人に興味はあまりないけどな、あそこは、別じゃないんか」 仁王は指を引っ込めると、にやりと笑う。コート上でよく見せる、笑みだった。 「それにどうしても上の大学行きたければ浪人でもすればええじゃろ、大学なんて要は入れれば同じじゃけん」 「・・・・簡単に言ってくれますけど、浪人は、」 「大丈夫、さっき母に聞いたら、あら全然構わないわよーって。あの子最近テニスやってないと思ったらそんなことだったのね!あとで言っておかなくちゃ!だと」 さっきとは、おそらくここに上がって来る前のことだろう。あまりの予想外な仁王の行動に、柳生は絶句するより他なかった。 良いことをした、とても言いたげな仁王の視線に、柳生は思わず首のあたりを引っ叩いた。 「いっ・・・・!ちょ、何するん!」 「こっちの台詞です!何勝手に人の母に聞いてるんですか!」 信じられません!と立ち上がると、柳生は部屋から出て行こうとした。どこ行くん、お茶取りに行ってきます!というやり取りをし終え、扉を開けて階下へと向かった。怒っているらしいのにドアの開閉も廊下を歩く時も音がほとんどしなかったことが可笑しくて、仁王は一人、部屋の中で笑いを噛み殺した。 柳生が階下へ降りると母親が既にお茶を用意して待っており、声を荒げるなんて珍しい、と笑った。聞いてたんですか、という柳生の言葉に、もちろん、とお茶と和菓子の乗った盆を手渡した。 「とても、有り触れた言葉を使うけれど、良い友達を持ったのね」 柳生が肯定の返事を返すことはなかったけれど、きっと伝わったのだろう、彼女は、よかったね、と去っていく柳生の背中に声をかけた。 柳生が2階の自室に戻ると、さすがは勝手知ったる相方の部屋と言ったところだろうか、仁王が小さな折り畳み式のテーブルを出して待っていた。御礼を言いながらお盆をテーブルの上に乗せると、和菓子の甘い香とお茶の良い香が部屋に充満する。 「入部届は今日までじゃけえ、はよ学校行け」 「・・・・承諾したつもりはないんですけどね」 「この後に及んでまだ言うんか」 小さくて可愛らしい練り切りを一つ、摘みあげると、仁王は丸々それを放り込んだ。 「これでも、相当悩んで出した答えなんですよ」 「その割にあっさり引きよったな」 「相手が相手でしたから」 誤魔化すように、それでも確実に確信犯の笑みを湛えながら湯のみに手を伸ばした柳生に、その笑い方誰かに似とるなあ、と仁王は唸った。 「貴方でしょう」 「・・・・冗談はやめるなり、不快じゃ」 本当に、きちんと考え抜いて出した結論だった。 考え抜いて出した結論だったけれど、自分だけが離脱しなければならないことが、少し悔しかったことも事実で。しかし、随分と前から決めていたこと故、自分からもう一度選択を変えることは無理だった。引きとめてもらえるだろうか、ということが不安でもあり期待だった。そして、その役割を担うのは、仁王でなければ意味がない。 中学三年、最後の大会、全国決勝。外されたオーダー、あの時の、幸村の声。 遣り残した、こと。 「最後まで、やらんとなあ、テニス」 ダブルス好きじゃけん、と無表情で言う仁王に、そうですね、と答えた柳生の口元は少しだけ笑っていた。 ← → |