〈高校一年 八月三日 夏合宿初日〉 「結局さー、柳生は何言われてもう一回テニスしようと思ったのさ」 炊事当番は一年の仕事で、午前練、午後練とへばるまで練習を続けて力の無い身体に鞭打ちながら皆でカレー作りに勤しんでいたときのこと。 ピーラーを使わなくてもじゃがいもの皮が剥ける人、というとんでもない理由で野菜班に回された柳生が、もくもくとじゃがいもを剥いていると、同じく野菜班で玉ねぎをざくざくと切っていた幸村に声をかけられた。思わず、柳生は手を滑らせてじゃがいもを大きく切り落としてしまう。 「あ、じゃがいも勿体無い」 「貴方が突然話しかけるからでしょう・・・・」 幸村は、ひょいと柳生が切り落としたひとかけらを拾い上げると、するすると残りの皮を剥き、水で豪快に洗って鍋へと放り込む。 「で?何で?結局こんな夏になってもまだやめる気配ないし、これは最後まで残る気だなーと思ってさー。今なら聞いてもいい気がした」 仁王に何言われたの?と幸村がにやりと人の悪い笑みを浮かべて小声になる。何でしょうね、と柳生はそれだけ言うと、再び野菜に視線を戻した。教えてくれないんだ?と幸村は言うけれど、その声はさして残念そうではなく、もともと答えが聞けるとは期待していなかったのだろう。 言い辛いことがあったわけではないはずなのに、何となく言うことは憚られて、結局誰にも言っていない。そもそも、もしそれを話すなら、やめようとしていた理由を理解してもらうところから始めなければならず、それは一苦労しそうだと思っていることも、言わない原因の一つである。視線を上げて窓際を見ると、コンロにかけた鍋をやる気がなさそうに仁王が見張っていた。 「はっとさせられる一言ってありますよね・・・・」 「え?何?」 まだ隣にいた幸村が、声を上げる。 「いーえ、何でもありません」 「えー、絶対さっきの続きだろーケチ」 幸村は今度こそ諦めたらしい、包丁を持ってそのまま持ち場に戻っていった。腹いせにターゲットを真田に変えたようで、何やら真田と言い合う声が聞えてくる。 無理矢理に蓋を閉じた感情を、探るわけでもなく言い当てられると、人は何故か、今までのもやもやが嘘のように無くなってしまうらしい。 浪人すればいいじゃん、などと容易く言えるものではないはずなのに、あっさりとそれを言ってのけ、さらに変に行動に移していた仁王に、背中を押されただとか励まされたというよりも、毒気を抜かれたというのが、実は本音だった。 最後まで一緒にコートに立てなかった悔しさにも見ぬ振りをして、テニスは自分の将来の道ではないからと、切り捨てることで、あの時に感じた自分ではないような、それほどまでに大きかった悔しさも、一緒に無かったことにしようとした。 あの舞台に上がれなかったことを一番気にしていたのは多分柳生自身で、それはきっとそこでテニスをやめるつもりだったからだ。誰もが少なくとも高校までテニスを続けるつもりだったから、あの時の悔しさはプラスに変えられた。それを、上手く消化できなかった柳生に、仁王は気づいていたけれど、細かいことには干渉しない、というのが暗黙の了解になっていたことが、大きな壁となった。 理想が、あったのだ、幼い頃からの。でも。 いつだって、何かあった時に殻を破るのは、仁王が先だ。 「ぎゃー!ちょ、柳生!柳生!なんか柳の鍋火ィ吹いてんだけどちょっと!ちょっと来て!」 「ばっ、ブン太お前自分の鍋もちゃんと見とけ落ちる落ちるあああああああああ!」 「うわっ――あっちいな!!ジャッカル鍋押さえとけよ!」 「無茶言うな―ってだから柳!鍋!仁王!水!」 「なん、かければええん?」 「違う!って幸村あああ!お前その水なんだ!」 「え、かけようと思って?」 「む!加勢するぞ幸村!」 「弦一郎、お前それはまずいんじゃないか?」 「やめ、ちょ、柳とりあえずお前火止めろ真田にアドバイスしてる場合じゃないから!ブン太お前そのまま幸村と真田止めろ!」 「はああああ!?何言ってんの無理に決まってんだろ比呂士早く!死ぬ!俺が!」 「丸井、お前今すぐ手離さないと五感奪うよ?」 未来の自分にとって、何が最重要なのか、まだわからない。 今のこの選択が、正しいのか間違っているのさえ、見当もつかないけれど。 今しかできないことに、一生懸命になってみるのも、そんなに悪いことではない気がして。 たまには、自分から駆け込んでみようと思った。 思い描いていた、自分に、一度さよならを。 寄り道しても、きっと辿り着けると信じて。 Goodbye my dear また会う日まで。 ← +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 2010年スパークで発行したコピー本でした。 2011年10月27日 HP再録 |