good bye my dear


〈高校一年 四月十五日 仮入部最終日〉

 結局、入学式の日に柳生は部活動へ顔を出さなかった。とは言っても学校にはきちんと登校していたし、テニス部の面々と顔を合わせることも多々あったはずだが、どうやら、家がバタバタしてるんです、とか何とか言いながら上手くかわしてきていたらしい。同じクラスの仁王と柳が、あまり干渉して来なかったことも、大きかったのかもしれない。

 そうして一度もテニス部に顔を出さないまま仮入部最終日を迎えた。

「仁王、柳生」

 ジャージに着替え終え、テニスコートに顔を出したと同時に、突然それだけを仁王に告げてきたのは幸村だった。入部したばかりで一番下の立場であるにも関わらず、変わらない存在感だ。コート整備をしている姿が恐ろしいほど似合わない。
「柳生って・・・・仁王雅治と申します」
「うるさいな知ってるよ。柳生は?」
「なして俺に聞くん?知らん、柳の方が知っとるよ、席後ろじゃけん」
「あいつ、俺の口からは何とも言えないな、とか言いやがって教えてくれない」
「ならなおさら言えんよ、参謀の方が幸村寄りじゃろ。と、いうか俺は何も聞いてないから言うも何もないんけど」

 幸村は納得がいかない、とでも言うように仁王の前から動かなかった。
 しかしどんなに詰め寄られても、本当に仁王は柳生からは何も聞いておらず、憶測でしか判断ができなかった。同じクラスになったといっても、属するグループが違いすぎて、ほとんど口など利かない。
 大体中学でダブルスを組んでいたからと言って、仁王と柳生は、丸井たちとは違ってお互いあまり干渉しない付き合いを続けていた。他の部員に比べれば近い存在なのかもしれないけれど、わざわさ相談相手に選ぶような間柄ではない。
 ただ、相手の考え方くらい、わかるから、なんとなく、柳生がテニス部に顔を出さない理由を、仁王はわかっているつもりだった。

「聞いてなくたって想像くらいつくだろ」

 そして、それを、幸村も見越しているのだろう。

「・・・・それ、言ったら柳生に絶交されそうじゃ」
「大丈夫、あいつはお前のことそんな簡単に縁切らないよ、嫌いにはなるかもしれないけど」

 当たり前のようにさらりと恐ろしいことを言う幸村に、苦笑さえも出て来ない。

「で?何だって?」
「だから言わんて。自分で聞きんしゃい」
「意外にそういうところは頑固だなあ」

 集合!とタイミングよく部長の声がコートに響き渡って、そこで一旦お開きとなり、仁王は内心で安堵のため息をつく。「今日柳生の家押しかけようかなあ」と物騒なことを言い出す幸村に、仁王は口だけで止めておいた。










 本日の部活動も終わり、入部希望届を出したところで、なんとなくいつものメンバーで帰路についた。真田と柳が前の方で何か小難しい話をしていて、後ろでは丸井と桑原が相変わらず仲良さそうに並んでいる。必然的に、残った幸村と仁王が並ぶ形になり、二人は無言のままその場を歩く。幸村が不機嫌な理由なんてわかり切っていることで、部活が始まる前に話したことが原因なのだろう。さてどう言いくるめるか、と仁王は逡巡して、そういえば、と入学式のことを思い出した。

「そういえば幸村、お前さん、入学式の日に柳生に何言ったん?」
「・・・・あ?入学式?」

 不機嫌オーラ全開で振り向いた幸村は、誰が見ても恐ろしい形相をしていたけれど、怯まずに何食わぬ顔で「そうそう」と仁王が言ってやると、ふむ、となにやら考え始めた。
 入学式の柳生は傍目に見ても不機嫌だということがわかるくらいで、普段は紳士の皮を被っている彼にしては珍しいことだった。

 純粋な、好奇心。一体何を言ったのか。

「別に普通の会話してただけだよ、部活とか」
「部活?」
「そう、柳生はやっぱダブルスやんの?とか」
「あー」

 なるほど、と仁王は頷いた。
 多分、幸村や真田には絶対にわからないだろう感覚。けれど仁王には、幸村の言ったあれだけで十分に、あの日柳生が不機嫌になった理由がわかってしまった。憶測でしかなかった考えが、確信へと変わる。

「それがどうかした?」
「いんや、別に」

 テニスをする、ということが、本当の意味で日常になってしまっている者など、ほんのごく一部なのだろう。そういう者にとって、テニスを選ぶということは当たり前のことであって、そうでないことなんて、考えつかないのかもしれない。

 王者立海大付属で、高みを目指すことを決めた者ならば、なおさら。

 けれど、それは万人に共通するものではない。
 最後の夏の大会全国決勝。惜しくも敗れた、対青春学園戦。戦い慣れたオーダーでもなく、勝利、という二文字にこだわった、戦い。
 立海大付属中学テニス部は、間違っても、和気藹々とした楽しい部活です!と言えるようなものではなくて、どちらかと言えば、一時期噂になった「軍隊」に近いものがあった。幸村が頂点に君臨してからその傾向には拍車がかかり、毎日立ち上がれなくなるまでの練習。量をこなしていても意味はない、という言葉を偶に聞くけれど、運動部にとって、やはり一番物を言うのは練習量だった。厳しい練習の成果はそれだけついてきた。勝つための、練習だった。
 それでは仲間意識などなかったのか、と言われれば答えはノーで。練習の厳しさ故にやめていった部員数も一桁ではなかったし、確かにつらい記憶ばかりのように思えるけれど、それでも最後までテニス部として残った者たちは、部活仲間だなんてそんな一言で表せるような間ではなくなった。運動部は練習を乗り越えるうちに絆が生まれるというけれど、それは自分の必死にもがく格好悪い姿を、お互いに見ているから、他ではなかなかできない絆が生まれるのだろう。
 立海大付属中テニス部も、例外ではなかった。やはりレギュラーを勝ち取るとなると、それなりの練習量が必要だったし、精神的苦痛も必要だった。だから必然的に、その中で仲が深まるのも当然で、そのメンバーに、こだわりが生まれる。

 昨年の夏、勝利という二文字に、幸村がこだわったのは、王者としての威厳と誇りだけでなく、あの時の、あのメンバーでの優勝に、意味があったからなのだ。

 それを、果たすことのできなかった彼が、まだ、執着しているとは、誰が予想できただろう。



「テニスやめようとか思ってる?」



 唐突にそう尋ねられ、別の考え事をしていた仁王は、咄嗟に言葉を呑み込むことができなかった。

「もっかい」
「だから、テニスやめようとか思ってる?」
「はあ?何、突然」
「ちなみに、お前じゃなくて柳生ね」

 予測のできない会話の運びに、もちろん仁王は混乱するしかなく、それまで余裕の笑みでかわし続けていたポーカーフェイスという防御が突き崩された。一瞬、本当にたった一瞬の出来事だったけれど、仁王の目に、確実に焦りの色が浮かんだのを、幸村は見逃さなかった。

「ええええええ」
「いや、それこっちの台詞なんじゃけど」
「まじで言ってんの、お前。ええええええ」
「いや、だから何も言っとらんし」

幸村が三回目の「ええええええ」と盛大に叫んだところで、さすがに前を歩いていた二人が怪訝そうな顔をして二人を振り返った。後ろからも丸井の「どうしたー」という声がかかる。

「びっくりしすぎて叫んじゃった。ゴメンネ」
「全っ然反省の色見えんよ」
「えっ、っていうか何?」
「びっくりしすぎて寿命縮まったから責任取ってもらうために、俺、今日仁王と二人マックしてから帰るわ。それじゃ皆また明日」

 ちょうどマクドナルドへと続く交差点へ出たと同時に、幸村はそう言うと仁王の腕を掴んでそのままずんずんと歩き出した。事態をまったく把握できず残された丸井たちは呆然としていたが、柳だけがまるでいつものことであるかのように「また朝練で」と手を振った。引きずられている仁王でさえもまだ頭がついて行かず、とにかく転ばないように歩調を合わせるのが精一杯だった。



 店内に入ると勝手に二人分のアイスコーヒーを頼んで、幸村は一番奥の席へと座った。帰りたいと思いつつも、このままばっくれたら明日からが恐ろしいことになりかねない、と判断した仁王は、仕方なしに大人しく向かいの席に座る。

「で?」
「・・・・で、と言われても」
「仁王が柳生の家に押しかけるのはやめろっていうから、なら身代わりになれ、ってこと」
「横暴すぎる・・・・」

 幸村から差し出されたアイスコーヒーを一気に啜る。昔は苦手だったマクドナルドのアイスコーヒーも、大分おいしくなった。わざわざコーヒーショップに行かなくてもよくなったのは嬉しいよね、と言っていたのは、今、仁王の前に座っている幸村だったはずだ。コーヒー飲んでると落ち着く、とも言っていたから、きっとこれでも抑えている方なのかもしれない。

「・・・・だから、さっきも言った通り、何も聞いてない。答えられることはないぜよ」
「うん、聞いたな。でも、わかってるだろ。そうじゃなきゃさっき焦らないし、どうせあの質問だって関係あるんじゃないの?」

 大有りです、と答えるわけにはいかなくて、仁王は肩を竦めた。店内にはちらほらと立海生が見当たるだけで、他にはほとんど客が見当たらない。あまり人に聞かれたくない類の話をするにはもってこいだった。

「柳生もテニス好きだと思ってたけど」

 不満そうにそう言う幸村の表情は曇っていて、本気で懸念しているのだということがわかる。しかし口を付いて出てきたのは軽いノリの愚痴のようなもので、実際どの程度、何を思っているのかよくわからない。伝わってくるのはアイスコーヒーを啜る音だけだった。

「・・・・別に嫌いになったわけじゃなかと思う」

 なら何で、とそこで初めて幸村が困惑を表情に浮かべてみせた。困惑、というよりも、理解不能、という言葉の方がしっくり来るかもしれない。



 眩しいですよね、とあの日確かに柳生はそう言った。夏の全国大会前、幸村が病気から復活し、コートに立ち始めてから一週間が過ぎた頃だった。眩しいって幸村が?と仁王が木陰に寝そべりながら聞くと、柳生はゆっくりと頷いた。あんなに大変な病気を患って、柳生は一旦そこで言葉を区切り、コートに立つ幸村に視線を投げた。それから息を一つ吐き出して、「普通だったらやめてしまうでしょう」と力強く言った。それはつまり柳生だったらやめるということだろうか、と仁王は暑さで溶けそうになっている思考回路で考えた。そしてそれを口に出すつもりはなかったけれど、だらけきった頭が上手く回転しなかったせいで、いつの間にやら口に出していたらしい。柳生が、そういうつもりで言ったのではないですけれど、と呟いた。木陰の下でさらさらと柳生の色素の薄い髪が流れていくのを、仁王は半分ほどしか開いていない目で見ていた。しばらくその様を愉しんで見ていたら、ふいに柳生が振り向いた。「彼と同じ道ならば、やめないと思いますよ」じっと、仁王の目を見ていた。



 あの時は柳生が最後に言った言葉の意味なんて深く考えなかったけれど、よく考えてみれば、つまり自分には同じ道が続いているわけではない、と言いたかったのだろう、とそう判断できた。医者を目指す、という話は大分前から聞いていたが、まさかこんなにも早く自分たちと分離をするのだとは思わなくて、仁王もどこまで聞いていいのかわからなかった。そもそも、本当に進路の問題で柳生が今、テニスとは縁を切ろうとしているのかどうか、わからない。
 けれど、確信だった。
 多分、それが、理由だろう。
 だから幸村に部活の話題を当たり前のように振られて、機嫌を損ねたに違いない。柳生らしくないと思うけれど、それはおそらく彼が、それなりにテニスを大切にしていた証なのだろう。



 続く道は、必ずしも同じではない。



「幸村のは、テニスに続いとるわけか・・・・そりゃ理解不能にもなるわな」
「は?なに?」
「幸村と柳生と、それから俺とでは、考え方が根本的に違うって話」

 明日直接聞いてみるとええよ、と仁王が言うと、幸村は「だめって言ったり、良いって言ったりどっちだよ」と不満そうに言った。ついでに言っとくと参謀でも連れて行きんしゃい、とアドバイスをする。きっとまた幸村は、当たり前のように柳生を怒らせてしまうだろうから、仲介役として柳辺りが必要だろう、と思ったのである。
 残念ながら、仁王にはその役はできない。

 今のところ道は幸村と同じで、でも根本的に近いのは柳生だから。

 どちらの立場で考えてみても、賛成も共感もできなかった。



 


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