〈高校一年 四月八日 高等部入学式〉 例年よりも冬が長引いたこともあって、珍しく入学式は桜が満開だった。淡い桃色に埋め尽くされた道を、どこか浮き足立った様子の生徒たちが歩いていく。ブレザーは中等部のものをそのまま引き続き使用するが、それ以外は全て新しくなった制服に身を包み、一ヶ月前とは別の校門を目指す。暑いと感じるほど暖かい春の日差しが、燦々と降り注いでいた。 校門を通り過ぎて校舎に入るまでの道もまた、桃色一色だった。高校の入学式と言えば、部活動の勧誘で慌しいというイメージがあるが、新入生のほとんどが、中等部からそのままあがってくるだけの立海大付属高校ではその光景は見られない。大体が、そのまま同じ部活動に所属するか、部活動自体やめてしまうかのどちらかであるため、勧誘する意味がほとんどない。 クラス発表の掲示板の前は、人がごった返していた。そのまま上がるのだから、卒業式にでも発表してくれればいいものを、とよく生徒が愚痴を零しているが、やはりそこは学校側としては譲れないのだろう、毎年入学式に発表される。 そんな歓喜や落胆の声が飛び交う中で、柳生比呂士は一歩下がったところから掲示板で自分の名前を探していた。ひしめき合う生徒たちの頭が見え隠れを繰り返すせいでなかなか見つけられない。仕方なしに群がる生徒の中に入ろうとしたところで、声をかけられた。 「やーぎゅー」 振り向くとそこには仁王が眠そうに立っていて、一つ、盛大な欠伸をする。 「同じクラス」 三本、右手の指を立てて見せる仁王に、ありがとうございますと告げた。それにしてもあの群集の中に仁王が突入したとはどうも考えられない。 「誰かに聞いたんですか」 「参謀。参謀も同じクラスぜよ」 一瞬、あからさまに顔をしかめた柳生に、仁王は持っていたハンカチを顔に押し付けた。反射でやってのけたので、本人にあまり意思はない。 「・・・・何するんですか、蹴りますよ」 「・・・・何しとんのじゃろ」 「聞いているのはこっちです、どけてください」 パシン、と小気味良い音がして、仁王の手が払いのけられた。ひらひらと、ハンカチが落ちる。ぐしゃりと音がして、仁王が視線を地面に向けると、舞い落ちたハンカチが踏まれていた。 「おや、失礼」 「いや、わざとじゃろ、それ。もーええわ、いらんそんなん」 「物は大切にしたまえ」 「一番大切にしてないのは誰じゃ」 誰でしょう、と柳生は首を傾げてみせる。 そのまま無言で掲示板の前を立ち去っていく柳生を、仁王は黙ったまま見つめていた。イライラしとんな、と誰に言うわけでもなく呟いてみるけれど、それはもちろん誰かに拾われることもなく霧散した。 進級して晴れて高校生になり、どちらかと言えば晴れやかな気分の者が多い入学式の中で、一人鬱蒼とした雰囲気を纏っていた柳生が目立つように見えてしまったのは、ただ単に仁王にとって見慣れた人物だからなのか、それとも本当に、珍しくマイナスのオーラを隠すことなく放っていたからなのか、見当がつかなかった。 「仁王!」 よく通る声で呼ばれ振り返ると丸井が立っていた。彼は隣に立っていた背の高い少年に何か告げるとスタスタと仁王に近づいてくる。 「お前何組?」 「三組。ブン太は?」 「離れてるな、六だよ」 テニス部一人もいねえ、と丸井が言った。中学三年の頃同じクラスだった二人だが、四六時中一緒にいたわけではなかった。どちらかと言えば一匹狼な仁王と、うるさい奴らとつるんでいることの多い丸井が、同じグループに属さなかったのは自然のことなのかもしれない。それでも同じ部活動に所属している者同士、やはり交流は多い方だった。連絡事項などはどちらかが受ければよかったし、それはそれでやりやすかったのである。「仁王、お前誰かいる?」そう尋ねられたので、仁王はちらりと先ほど柳生が消えていった正面玄関に視線を遣りながら「参謀と、柳生」と答えた。 「うっわ、真面目コンビ。サボれねえじゃん」 「んー、さあ、どうかの」 「そういや珍しく比呂士と幸村くん一緒だった」 いつ、と仁王が疑問なのかそうでないのかわからないようなイントネーションで言う。隣の丸井は通りすがりの多くに声をかけられており、聞いているのかいないのか判然としなかったが、一通り挨拶をし終えてからようやく仁王に向き直った。 「いつって・・・・さっき?」 あれ仁王じゃん、とサボり仲間に声をかけられ、手だけで挨拶を返した仁王は、丸井とは対照的だ。 「通学路で。今日比呂士機嫌悪くねえ?」 丸井にもわかるのか、と仁王は驚いたが、いつも通りのポーカーフェイスで、「さあ」と短く答えると、さっさと校舎へ向かってしまった。後ろから追いかけてくる丸井の声に振り返ることもなく突き進む。 「・・・・幸村、ねえ」 ごった返す下駄箱で、仁王はため息をついた。 仁王が後ろの扉から教室に足を踏み入れると、既に半分ほど机が埋め尽くされていた。教室の端、廊下側の一番前で、背筋を伸ばして座っているのは柳生で、後ろに柳の姿はまだ見当たらない。仁王と会った後に真田を探すと言っていたから、まだ彼と共にいるのかもしれなかった。 機嫌が悪いことが明白な柳生にわざわざ挨拶をしに行くのも億劫で、そのまま声をかけることなく自分の席に着く。隣で鏡を見ていた女子が顔をあげ、「うっそ、あんた一緒なの?」と驚いた。誰じゃ、とはさすがに聞けなくて、どうにか頭の中の引き出しの開け閉めを繰り返して掘り出した記憶によると、夏によく一緒にプールをサボった女生徒だった。 「あー、久々。・・・・西川さん」 「・・・・平井なんだけど、ちょっと!あんだけ一緒にいたのに忘れるとかどうなってんのその頭」 「基本からっぽ」 茶色に綺麗に脱色された長い髪の端をくるくると指先に巻きつけながら、平井と名乗ったその生徒は大きな口で笑った。どちらかと言えば廊下寄りの二人の席には、窓から入り込んだ太陽光は届かない。それでも白い蛍光灯の光に照らされて、彼女の髪はきらきらと不自然に瞬きを繰り返した。 似てない。 と、思った次の瞬間には、仁王は彼女の髪に手を伸ばしていて、そんなことを今までに一度もされたことのなかった平井は、心底驚いてみせた。ことん、とベタに手鏡が彼女の手からすり抜ける。 「・・・・え、なに、頭沸いた?」 「・・・・もうちょっと、可愛いこと言えんの?」 うっさい、と言いながら仁王の手を振り払わない彼女に、逆に嫌気が差してすぐにその髪から手を遠ざける。 「・・・・ほんと、なに?」 「別に。似とらんな、と思って」 どこの女と比べたのよ?と軽蔑と呆れが入り混じった声で彼女は言い、それからまた手鏡に視線を戻してしまった。 人工的なそれと、生まれ持ったものとでは、あからさまな違いが出るものなのかと仁王は感心した。見慣れていたのは、生まれつき色素の薄い髪色をしていた相方のもので、それが普通と思い込んでいた。普通だと思い込むほどには、どうやら一緒にいたらしい。だから、綺麗に脱色されているとは言え、彼女の髪色が不自然に思えてしまったのだ。 ちらりと教室の端に視線を遣る。 相変わらず、すっと伸びた背筋が一際目立っていた。 形だけの式典を終え、ホームルームで明日の連絡を受けると、早々に解散となった。慌しく駆けるように出て行ったのは野球部を始めとする運動部で、入学式の今日から顔を出すようだ。中等部からの持ち上がりとは言え、まだクラスとしては馴染んでいない余所余所しい空気を纏ったままの教室は、新鮮だった。挨拶を交わし、一人、また一人と教室から人が減っていくのを、ぼんやりと後ろから見ていた仁王の視界に、突然やってきたのは赤い髪をした元クラスメイト兼元部活仲間だった。 「よっす」 「・・・・何しとんの」 「何って・・・・迎え?購買行っていたからついでに寄った。部活行くだろぃ?」 「えー・・・・面倒・・・・」 「おいこら。柳と比呂士に怒られっぞ。あ、ほら、柳!仁王が部活行かねえとか言ってんだけど!」 しっかりとラケットバックを肩に背負い、準備を整え、今まさに教室を出ようとしていた柳は、丸井に呼びかけられて動きを止めた。 「まあ、強制というわけでもないからな」 おそらくは小言を言ってくれるだろうと期待して丸井は柳に話を振ったのだろうが、彼の予想に反して返ってきたものはシンプルだった。 「いいのかよ!あーもう、お前いっそ真田と同じクラスの方がよかったんじゃねえの?」 「絶対嫌じゃ、無理、三日も耐えられん」 とにかく行くぞと丸井に急かされ、結局仁王は立ち上がった。気分はいつだって乗らないのだから、それはさして行かない理由にはならない。行かなかったところで、どうせ我等が幸村から連絡が来るだろうし、迎えに来るのは真田だろうし、とそこまで考えて、行かない方が面倒そうだ、と判断したのである。後ろのロッカーからラケットバックを取り寄せて、のろのろと背負った。 「っていうか、あれ?比呂士は?」 きょろきょろと教室を見渡して、丸井は柳生がいないことに気づいたらしい。柳の一つ前の机は既に空っぽだった。 「さあ、早々に教室を出て行ったが。先に行ったんじゃないか?仁王、何か聞いてるか?」 「まさか。そもそもあいつと話しとったのは参謀じゃろう、俺、教室であいつと会話しとらん」 いつの間にやらぴっちりと閉められていた教室の扉をガラリと開けて廊下に出る。人数が幾分か減った廊下は、今日一番の静けさだった。クリーム色のタイルの上を、ぺたぺたと踵を踏み潰した上履きで進んでいく仁王に、丸井と柳が足早に続く。廊下から見下ろせる中庭で、何人かの生徒が談笑しているのが見えた。笑い声が上まで上がってきて、廊下に反響する。中等部の校舎には中庭なんてなかったから、不思議な感覚だった。 「おい、仁王、ストップ!・・・・比呂士?」 ブレザーの裾を引っ張られ、丸井の視線の先に仁王も目を向けると、中庭に柳生がいるのが見えた。一瞬、先ほどの笑い声の中に混ざっているのかと驚いたが、そういうわけではなく、端のベンチでぼんやりと座っているだけだった。 「柳生!」 廊下の窓を力任せに開けて思いっきり叫んだ仁王に、丸井と柳が後ろで目を見開いていた。呼ばれた張本人の柳生はさらにびっくりしたようで、反射的に上を見上げ、それから仁王を認識すると、みるみるうちに顔を歪める。が、すぐにまたいつものほとんど無表情に近い表情に戻した。仁王の隣から、丸井と柳が顔を出したからなのだろう。 「比呂士何してんの?部活始まるぞ!」 丸井の声が中庭に響き渡る。ちらちらと他の生徒からも見上げられているが、丸井は気にならないようだった。中庭を囲む桜の木から舞い上がる淡いピンクの花びらが、するりと廊下に入り込んできた。なんとなくそれを拾おうと仁王がしゃがみこんだとほぼ同時に、柳生が何かを言ったらしい。上手く聞き取れなかった仁王が立ち上がってもう一度中庭を見下ろした頃には、柳生の姿は消えていた。何?と仁王が丸井に問う。 「また後で、とか何とか?」 「正確には、また、だな」 何だっていいだろ細けーなあ、丸井はがしがしと乱暴に頭を掻くと、ほら俺らも行くぞ!と階段に向かって歩き始めた。 仁王は立ち止まったまま、もう一度だけ中庭を見る。 何度見ても、やはり、もう見慣れた茶髪は見当たらなかった。 ← → |