〈中学三年 三月二十一日 中等部卒業式〉 閉じた瞼の向こう側に、影が動く気配がする。眠気で溶けかけた思考回路を働かせる気にはならなくて、仁王はその影を無視することにきめた。ゆらゆらとしばらく蠢いたその影は、仁王が相手にしないでいると、すう、と消える。よかったと内心呟きながら重たい瞼を開けようとしたところで、仁王の身体は大きな衝撃を受けた。 「いっ・・・!」 「仁王、起きてるだろ」 急いで起き上がり目の前の人物の姿を捉えると、そこには予想通り、幸村が笑っていた。 「さすがに卒業式サボるのはまずいんじゃないの。ブン太が探してたよ」 「・・・別に式をサボるつもりはないぜよ・・・」 「嘘つけ」 幸村はごろりと仁王の隣に寝そべった。 「・・・サボる気満々」 「え?何?だって仁王サボる気ないんだろ、だったら式典始まるときにでも起こしてくれよ」 にやりと人の悪い笑みで笑う幸村に、降参の意を込めて仁王は両手をあげた。 「ちゃんと行きます」 「よろしい。晴れ舞台は皆揃ってなきゃ意味ないじゃん。入学式も来いよ?」 パタパタと、仁王の背中を叩く音がする。ブレザーに張り付いていた小さな芝生が、はらはらと落ちていく。そういえばよく柳に、芝生を払って来ないとサボっていたのが丸分かりだぞ、と言われたことを思い出した。 「皆お前のこと探してたよ」 ほらこれ、と幸村が手に持っているものは、いつの間に仁王のポケットから抜き出したのか、彼の携帯電話だった。着信を告げる緑と、メール受信を告げる青が交互に光っている。ノロノロとした動きで携帯電話を受け取ると、開いて確かめることはせずにそのままポケットに仕舞う。見ないの?と惰性で聞いてきた幸村に、仁王は一言だけ、見ない、と答えると立ち上がった。 「つまんない、ほんとにサボんないんだ」 「サボったらうるさい奴がいるからの」 「ふうん、面倒だね、そいつ」 「まったくじゃ」 背中に蹴りを喰らう前に仁王は芝生を駆け下りた。後ろから追ってくる声に、振り返ることはしない。体育館前に整列する卒業生が、遥か向こうに見えた。 卒業式当日は、驚くほどよく晴れた、春の日となった。寒さが懸念されていた体育館には春の気配が充満していて、どこか緩んだ空気である。少なくとも在校生の三分の一ほどは眠気と戦っているであろうことが予測されるが、体育館の端に一列に並ぶ教師陣も、おそらく生徒を気に掛けている場合ではないのだろう、特に怒られることもない。 送辞、答辞、とお決まりのメインイベントを聞いていてもあまり感動的な雰囲気にならないのは、立海大付属中が、エスカレーター式の学校だからなのだろう。生徒のほとんどがそのまま高等部に持ち上がるため、別れという淋しさはまったくと言っていいほど、無い。 最後の最後、校歌斉唱が終わっても、すすり泣く声は聞えなかった。 未来は、同じだと信じている。 「あー疲れたー」 そう言って部室の真ん中を陣取ってため息をつく幸村の姿は、引退前と少しも変わらず、彼の居場所はここであり、そして中心だったということを物語っていた。後輩たちから、形だけの送別会が開かれるということで、三年生には集合がかけられていた。どんちゃん騒ぎのわけがわからない送別会を終え、後輩たちが部活動へと向かった後、誰から言うわけでもなく、元レギュラー陣と呼ばれた彼らは何となく部室に集まり始めていた。 「幸村くんさ、やっぱ春休みは高等部の方に練習に行くの?」 「んー、多分。先輩にも呼ばれてるからね、俺ってば人気者。丸井は?」 「ジャッカル次第」 ジャッカル!と幸村が叫ぶと、えええええええ、と声をあげてから、それでも律儀に「俺も高等部かな」と彼は答える。 ぎい、と軋むような音がして、部室の扉が開く。顔を出したのは、柳と仁王だった。 「あれ、意外、仁王の制服にボタンがついてる」 「そりゃあ制服にボタンくらいついとるよ」 「絶対引きちぎられると思ってたのに」 卒業式と言えばお決まりの大好きな人から第二ボタンを奪う、だろ?と幸村は言って、自分の制服を指差す。そういうからには無くなっているのだろうかと思いきや、彼の制服には綺麗にボタンが並んでいた。 「奪うというのは間違いなんじゃないか、精市」 机の上にきちんと鞄を並べながら柳が言う。柳のそんな様子をちらりと横目で見ながらも、仁王は床に向かって乱暴に鞄を投げた。 「そう?でも、片思いならそうでもしないとボタンなんてもらえなくない?俺だったら力づくで奪うけどなあ」 「じゃあ幸村くんは奪われてもいいわけ?」 アップルガムを口に放り込んだ丸井に向かって、幸村は「奪えるんならね」と笑った。 三年生が集まるのはとても久しぶりのことだった。数人で遊ぶことはあっても、全員が集合するということは滅多にない。仲が良く、必然的に同じ時間を共有していたレギュラー陣でさえも、最後に揃ったのはきっと年内のことだろう。部活動を引退する前はあんなにも一緒にいたというのに、終わってしまえばあっさりと離れていった。とは言え、受験もなく、ただ高校生になるのを待っているだけの身としては、暇を持て余すことも多く、部活に顔を出す者もいたのだけれど、間違っても全員で顔を出したりはしない。新人戦の応援に揃って向かったのが、最後だった。 先ほど終えた卒業式よりも、興奮気味の雰囲気なのは、きっとそのせいだ。久々に見る顔ぶれに、なんとなく気持ちが高まるのだろう。 「そういや久々じゃん、こんなに揃うの」 パチン、大きく膨らましたガムの風船を破裂させて、丸井はぐるりと見渡した。 「そういえばそうだな。この間焼肉行った時は仁王と柳生がいなかったな」 「・・・焼肉に行かない理由が思いつかんなり」 「いや、言われても俺たちの方がわかんねーよ。二人でどっか行ってんのかと思ってたけど」 丸井にそう指摘され、仁王はその日のことを思い出そうとしたが、なかなか思い出せない。しばらく首を捻ってみても、頭に浮かんでくるのは自分を誘いに来た桑原の姿だけだった。 「参謀」 「知らないぞ俺は。四六時中データ収集をしているわけじゃない。今持っている情報は、昨日の丸井家の夕食はエビフライということくらいだ」 「いや、お前なんでそんなこと知ってんの?」 食い付いた丸井に、企業秘密だ、と柳は言った。 バタン!と勢いよく扉が開いて、誰もが予想した通りそこには真田が立っていた。うるさいよ、と幸村が部誌を投げつけて、真田がそれを喰らう直前に受け止めたのは、どうやら真田の後ろにいたらしい柳生だった。扉を開けたままにしておくと、外気が流れ込んできて、肌寒くなる。外は暖かいと言えど、日光の当たらない部室は、風が吹き込めばあっという間に冬に逆戻りをしてしまう。寒い、と仁王が呟いて、真田はやっと扉を閉めた。 「柳生、それ返して」 「・・・返しても何も、そもそも投げる物ではないでしょう。破損したらどうするんですか」 「そしたらジャッカルが謝ってくれるよ」 「謝らねーよ!?」 「ってそうだ、まず真田!何か言うことは?」 「・・・む、すまん。気をつける」 「よろしい」 「幸村くんはともかく何気に比呂士もひでえ」 まあ俺だし相手真田だし、と幸村がけらけらと笑って、真田が何か複雑な顔をして、柳がしたり顔で頷いた。丸井が桑原に乗りかかりながら相変わらず幸村くん自由だなーと歯を見せて笑って、下敷きにされた桑原が抗議の声をあげる。仁王は部室の隅で我関せずと窓の外を見ていて、柳生は少し離れたところで呆れたようにため息をついた。 半年前まであった、当たり前の光景。 日常。 ひとしきり騒いで、それからふと沈黙が降りた隙に、幸村がそういえばと話を切り出す。ざわざわとした余韻を残して、部室には奇妙な空気が漂っていた。懐かしいような、慣れないような、不思議な感覚だった。ぴったりときつく閉められた窓と扉が産む閉塞感に流されるように、どことなく空気が下がっていく。 幸村が何かを言いかけたところで、ピリリ、と誰かの携帯電話が着信を告げた。悪い、と片手を挙げて携帯を耳に押し当てたのは丸井で、「あー今から向かう」と低い声でそれだけ言うとすぐに携帯電話を閉じる。「誰?」と幸村が聞いた。 「クラスの奴ら。うちのクラス打ち上げ早いんだよ。店取れなかったとかで、教室でやるらしくて。仁王、飲み物足りないから買って来いだってさ」 「・・・えー、嫌じゃ」 「俺だって嫌だっつの。で、悪い幸村くん、話中断した。何?」 さらりと目にかかってきた前髪を払いのけて、幸村は「まあいいや」と言う。 「また四月にでも言うよ」 当たり前のように彼はそう笑った。 → |