I only wanted make you smile


   



ちゃん、タカにお弁当届けてくれる?」

自室で友人から借りた漫画に目を通していると、そんな母の声が聞こえてきた。漫画のストーリーがクライマックスを迎えたばかりだったこともあって、嫌だって言ったら?珍しくそんなことを言ってみると、「別にいいよ、タカが困るだけだから」と母は言った。が兄にべったりなのを知ってこその言動なのだろう、仕方なしには椅子から立ち上がる。壁に張りつけてある地図を見て西浦高校までの道順を確認すると、真っ赤な鈴の付いた自転車の鍵と兄のお弁当を母から受け取り、いってきますと家を出た。










初夏の青空に照らされた見慣れたアスファルトの坂を風を切って下っていく。
電車から見た景色みたいに真横を過ぎ去って行く風景を目の端に捉えながら、は自転車を扱ぐ速度をあげた。心なしか新緑の葉の匂いが強くなった気がするのだから、風を切る瞬間は不思議だ。
住宅街を抜け、の知らない番地へと進んでいく。小学校の時通っていた学区外に来たのだろう、おそらくはこの辺りを訪れたことは一度もない。この道を兄は毎日行き来しているのかと考えると、景色が一段と色鮮やかになったような気がした。兄も弟もなんでこんなにも愛しいのだろうと頭の隅で思ってみるのだけれど、どうせ答えなど出るわけがない。
自転車を軽快に扱ぐことさらに10分。学校の校舎らしき建物が見えてきては目を凝らしてみる。近づいてくるに連れて校門のところに「西浦高校」と書かれているのだということがはっきりわかった。一瞬、このまま校内に立ち入っていいものだろうかと迷ったが、西浦高校は埼玉県立にしてはめずらしく私服校であることを思い出し、バレはしないだろうとそのまま校門を通過した。
の通う私立の中学校よりも大分小さな施設や校舎を、何故か懐かしい気持ちになりながら見て歩いていく。の通う学校は東京でも有名なお金持ち学校だ。こうして県立高校に来てみると、特待生制度を利用して入学した彼女にとってまるで別世界だったあの学園に、すっかり馴染んでいるのだと気付く。校庭なんて半分くらいしかないのではないかと思うほどだった。でもいいなぁ、そんなことを思いながら校庭を眺めること1分。そういえば人影が見当たらないことに気付く。今日兄の隆也は部活に行くと言って出ていったから間違いなく野球部は活動しているはずなのだけれど見当たらない。さてどうしたものかとしばらく思考を巡らせていると人影がさっと通り過ぎた。慌てて呼び止める。

「すみません、野球部ってどこで活動しているんですか?」

呼び止めて、その少年が野球の練習着を着ていることに気付いた。

「あ!もしかして野球部の方ですか?」

よかった兄に渡して欲しいものがあるんです、が言うと少年は訝しげに目を細め、それから思い出したように手を叩いた。



「あー!思い出した!君、阿部の妹さんだよね?」



少年は栄口と名乗った。なかなかの好印象を持たせる少年で、は一度会えば忘れなさそうだと思ったけれど、どんなに記憶を探ってみても出てこない。「どこかでお会いしましたっけ?」、が尋ねると栄口は俺が一方的に知ってるだけだよとはにかんだように笑った。

「シニアの試合、よく来てたでしょ?俺、中学阿部と一緒でさ、さらにチームは違うんだけどシニアだったから君に見覚えあるんだよね」

なるほどとは納得した。兄の試合はほとんど戸田北メンバーに会いに行っていたようなものだったから、他のチームなど見ていなかったのだ。
グラウンドはここではないから連れていってくれると栄口は言ったが、はそれを丁重にお断わりした。いくら忘れ物を届けに行くためとはいえ、が練習に顔を出すことをあまり兄が好んでいないことくらいにもわかっている。加えて今はまだどうせ兄のことだからそこまで仲良くなっていなくて、そんなところを妹に見られるのを嫌に思うに違いない。これお願いできますか?、がお弁当を差し出すと、栄口はそれをにこやかに受け取った。

「兄、上手くやってます?」
「ん?んー、まぁ皆もまだ阿部のことわかってないからね」

苦笑した栄口にこの人は兄の性格をそれなりに理解しているのだとは悟った。「兄をよろしくお願いします」、ぺこりと頭を下げる。栄口はなぜか嬉しそうに笑い、どうやら外にあるらしいグラウンドへ駆けていった。から見えなくなる直前に誰かが合流して2人並んで消えていったのを見て、その後ろ姿が在りし日の兄と榛名を思い出し、少しだけ淋しい気持ちになってしまう。
しばらくぼんやりと彼らの消えていった方を見つめているとひょこりと人影が現れて、びくりと反応した。



「阿部がありがとうだって!」



現れたのは栄口で、そんなことを叫ぶ。

「あと、今度は練習見においでって!」

まさか兄の言葉ではないだろうと思いながら、「誰が!」と叫ぶと案の定「みんな!」と言う返事が返ってきた。その、みんな、には兄が含まれていないことは間違いない。

「気が向いたら!」

が手を振ると、栄口は今度こそ本当にいなくなった。誰かに言わされたのかなんなのか、心なしか照れているように見えたのは気のせいではないだろう。
ただそれだけのことでも、兄は良いチームに恵まれたのだと言うことが容易に想像できて、は大きく深呼吸をすると駐輪場へと歩き始めた。








聞き慣れた木のバッドで打つ音が聞こえた気がした。








 
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連続更新最終日はまさかのおお振り。自分もびっくり。

09年01月04日


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