三つ折りのみずいろ




 今日の午後は客足も落ち着くだろう、と祖父から店の手伝いは不要だと告げられ、手渡されたハムやらソーセージやらを大量に抱え込んで、高崎が秘密基地と称しているツリーハウスを訪れたのは、間もなく午後2時になろうという時間だった。広くはない祖父の家の裏庭は、そのまま彼の持つ山へと続いていて、その中でもひと際大きな木に、高崎の父が学生の頃に作り上げたという立派なツリーハウスがある。大の大人が5人入っても寛げるくらいのスペースがあり、高崎はそこが気に入っていた。父親からそれを譲り受け、寛ぎやすいようにと好き勝手改良をし、夏に祖父の店を手伝っている間、暇を見つけては入り浸っている。
 さてこの大量の手土産をどうするか、と高崎はツリーハウスを見上げる。太い一本のロープを頼りに登らなければならないため、少々手荷物が多すぎた。何回かに分けるしかないだろうか、と見上げたまま考え込んでいると、ふいに視界の端ではらりと白い布が舞う。おや?と高崎は目を細めた。夏の天気が良い日は横板が外してあるツリーハウスから、ちらりと白布が見え隠れする。見覚えのある袂が風に揺れているようだった。先客がいるらしい。
 高崎は木の幹の反対側に回り込むと、持ってきた紙袋から紐を取り出して、持ち手に括りつける。途中でほどけてしまわないようにと固めに結び、何度か紐の途中を持って紙袋を上げ下げする。問題はなさそうだった。反対側の紐の端を、手ごろなサイズの石に括りつける。紐を括りつけた石とは別の小石を手に取ると、振りかぶってツリーハウスめがけてそれを投げた。コツン、と木の板にぶつかり音を立てる。中から反応はない。もう一度、今度は強めの力で石を投げつける。ゴン、と鈍い音が響いてから、少し間を空けて、ぬっと影が顔を出した。

「…何だよ」
「勝手に上がり込んでおきながら随分な態度だなオイ。…受け取れ、よっと」

 窓から不機嫌そうな顔で覗き込んでいる男に向かって、高崎は紐を括りつけた石を投げる。驚いた男は変な声を上げながらも、しっかりと投げつけられた石を掴み取った。

「…っぶねーな何すんだよ!」
「それ、そのまま引き上げといて。じーさんから貰ったやつ」
「…肉か」
「大体。あとチーズとか。俺は酒取って来る」
「最高だな」

 それだけで男は自分の為すべきことに納得したらしい。あっという間に紙袋をツリーハウスまで引き上げると、すぐに引っ込んで見えなくなる。高崎はアルコール類を取りに、祖父の家へと引き返した。

 カシュ、と軽快な音をたててビール缶を開けると、乾杯の音頭もそこそこに、高崎はぐびりとそれを喉に流し込んだ。労働後の一杯というのは何故こんなにも美味しく感じるのだろうか。
 向かい側で、自身が高崎へ渡した日本酒を、初っ端から豪快に空けていくのは信越である。幼馴染、と表現するのは何となくむず痒い気のする、所謂腐れ縁だ。高崎の祖父の家から数軒先の別荘に、毎年夏になると現れる。高崎自身も長期休暇になると祖父の店を手伝いにこの地域やってくるため、年が近いこともあってかすぐに仲良くなった。ツリーハウスを改良する時も手伝って貰っている。そのため、鎖をぐるりと巻き付けて管理されているここの南京錠の番号も知っていて、たまにこうして高崎がいなくとも入り込んでいるのだ。
 さて、そんな信越だが、どうにも機嫌がよろしくない。だからと言って高崎がご機嫌取りをしてやる義理もないので、しばらく彼を放置したまま、黙々と遅めの昼食を摂ることに集中していたが、持ってきた小さな個包装のチーズに手を伸ばし、あ、と理由に思い当たる。

「敦賀来ただろ」

 信越とどういう関係なのかは定かではないが、信越の家の別荘の向かい側にある、ひと際大きな別荘の持ち主だという男を思い浮かべ、高崎は言った。敦賀には信越と一緒に、あるいは自分の従兄弟に当たる男と一緒に何度か会ったことがあるが、高崎の祖父の店のファンだと言っていた。中でもお気に入りのチーズがあるとのことで、それがまさに今高崎が手にしているものなのであった。

「でも何だろ、雰囲気変わった?髪切ってたし茶髪だった、」
「それはあいつじゃねえよ」

 今朝見かけた人物を思い浮かべながら高崎が言えば、一瞬の間もなく否定された。

「えー?他人の空似とは言えないくらい似てたけど」
「だからっ、それは敦賀じゃねえの!」

 ドン、と信越がローテーブルに拳を叩きつける。ガタガタと揺れる酒瓶やグラスを慌てて抑えながら、高崎は「はあ…」と歯切れの悪い返事をすることしかできない。
 既に相当な量のアルコールを摂取しているはずの信越は、しかし顔を赤らめることもなく、ぱっと見には正気のように見える。静かに、怒っているようだった。

「…でもその様子だと、その、敦賀そっくりさんに、お前も会ったんだろ?」
「…」
「誰だよ、親戚だろ?それにしたってよく似てたけどなあ」
「遠い親戚だって言ってた。多分まだ学生だろ」
「えっ学生かよ!?うわー…敦賀の年齢不詳具合にドン引く」
「…そこかよ」
「そこだろ。で、何に怒ってんの?その敦賀のそっくりさんをお前にこれまで内緒にされてたことを怒ってんのか?」
「…高崎には関係ない」

 信越は拗ねた子どものように少しだけ唇を尖らせた。確かに、この世にはそっくりな人間が3人くらいはいると聞いたことがあるし、敦賀のそっくりさんが存在していようがいまいが高崎にはさほど関係がないが、そのそっくりさんの出現により、ここの滞在期間中にしょっちゅう顔を合わせる信越が不機嫌であることは大いに関係がある。せっかく美味いと評判の高崎の祖父のチーズやソーセージが少しだけ不味くなる。

「まあ関係ないっちゃないけど。それならそれで、ここに来るときはそれについて綺麗さっぱり忘れてきてくんねーと。俺はお前を慰められるほど器用じゃねーぞ」
「慰めてほしいわけじゃ…、でも、悪い。それはそうだな」

 案外素直に引き下がった信越に、高崎は酒を注いでやる。信越はチーズを頬張りながら、グラスに手を伸ばした。すぐに飲むわけでもなく、指先で薄いガラスの縁をなぞっている。

「…宇都宮ってお前の何だっけ」

 何かを考え込んでいる風だった信越が、次にぽつりと呟いた言葉は、およそ敦賀は関係のなさそうな男の話だった。「はっ?」と高崎が条件反射のように聞き返してしまったのは、質問の意図もわかりかねたからだ。

「え?何ってなに?」
「いや、だから、関係性」
「関係?従兄弟だけど」
「…従兄弟」
「え?最初に紹介しただろ?っていうか今更なに?」
「……従兄弟かああ」

 信越は悔しそうに頭を垂れて、低く唸る。え?なに?高崎が困惑していると、顔を上げたと思った信越が、勢いよく絨毯の上に寝そべった。ずるい、と眉根を寄せて呟く様は、やはり変わらず怒っているようだった。
 高崎の従兄弟にあたる宇都宮は、何度か顔を合わせてはいるものの、高崎ほど信越と親しい間柄ではない。祖父の店を手伝いに来る高崎とは違い、宇都宮はあまりこの地域を訪れないのだ。宇都宮の父親―――つまり高崎の叔父と祖父はあまり仲が良くないとは聞いているが、詳しくはよく知らなかった。年に一度くらいは祖母の墓参りに宇都宮だけやってくるが、必ずしも信越のいる時期に来るとは限らないため、毎度顔を合わせるわけでもなかった。
 その宇都宮と高崎の関係を、ずるいと言う。
 もしや、と高崎は思い付いた。

「お前、敦賀と従兄弟になりたいの?」
「ちげーよなんでだよ。……いや…、まあ従兄弟でもいいけど。…俺、敦賀とはここでしか会わないんだけどさ」
「うん?俺とお前もそうじゃん」
「最後まで聞けよ。俺と高崎は違いの家も職場も知ってるけど、敦賀の家と仕事っつーか本業?は知らない」
「えっまじで!?」
「別に、聞く必要もなかったし。…毎年、夏になれば会えたから」

 信越が知らないことを、もちろん高崎は知らない。信越にしろ敦賀にしろ、避暑地に立派な別荘を持つくらいだから、それなりに格の高い家の出身なのだろうとは思っているが、所詮高崎の人生には関係がないからと、特に詳しく聞いたことはない。信越の家も職場も知っているのは、祖父の家のソーセージを定期的に送っているからで、訪ねてみたことはなかった。信越は何故自分の家を知っているのだっけ、と思考を巡らすも、明確には記憶に残っていなかった。どうせ、いつか飲んだ時に話したりでもしたのだろう。別に自分には守らなければならない秘密もない。この一等地に祖父が店を構える程度には資産のある家柄だが、だから何だと思っている。
 しかし信越が、敦賀について知らないのは意外だった。確かにどこか謎めいた男で、年齢不詳の彼が自ら個人情報を語るとも思えないが、てっきり家同士の付き合いがあるのだと思っていたのだ。

「家族ぐるみの付き合いがあるのかと思ってたけど」
「なんで?」
「えー、わかんねーけど…なんかほら…、ホームパーティーとか?この期間にしてるのかと思ってた」
「しねえよ。大体、敦賀はいつも一人でここに来るし、俺の家も、行き帰りは親父がついて来ることが多いけど、滞在してる間は基本的に俺一人だし」

 言われてみれば確かに、高崎が信越の寝泊まりする別荘を訪れると、いつも出迎えてくれるのは執事のような初老の男性だけで、他の人間を見たことがなかった。敦賀の別荘にも、一人お手伝いの青年がいるのは知っているが、親らしき人物は見かけたこともない。
 敦賀のことのみならず、信越のこともよく知らねえなあ、と高崎は今更気づくが、特段興味もないので掘り下げる気にもなれなかった。

「で、何でずるいと思ったんだよ」
「…絶縁状態になれば別だけど、そうじゃない限り連絡くらいはつくだろ」
「敦賀、連絡取れなくなるのか?」
「とは言ってないけど、…来年から来ないとか言うから。…俺は、あいつの、連絡先知らないし」
「なるほどなあ。…ん?」
「ん?」
「あのそっくりさん、まさか敦賀の代わりか!なるほど!よく信越のことわかってんじゃん!」
「…はあ!?」

 敦賀と信越の関係性について、高崎はよく知らない。よく知りはしないが、信越という男についてはそれなりに知っているつもりで、彼にとって敦賀が、ただの別荘地で会う青年くらいの存在ではなく、その関係性の名前は知らないけれども、少なくとも特異な、特別な存在であることくらい、見ていればわかる。それをこの男に言ったところで素直に認めるとも思えないが。
 第三者である高崎から見ていたってわかるのだ。敦賀という男が、それに気づいていないとも思えなかった。敦賀にとって信越がどういう存在なのかはやはり知る由もないが、少なくとも自分の代わりを残しておこうと思える程度には、信越にとっての自分の存在価値を認識しているということだろう。
とは言え、代わりを用意するあたりが、性質が悪いように思えなくもない。

「っていうか、別に今年は敦賀もしばらくはここにいるんだろ?連絡先くらい聞いておけばいいじゃん」
「…今更?来年から会えなくなるなら連絡先教えろって?聞いてどうすんだよ、会いに行くのか?俺が?行かないだろ、絶対」
「いやそれは知らないけど。会いに行かないなら別に連絡取れなくなってもいいってことじゃん」

 高崎が思ったことをそのまま口にすれば、信越が押し黙ってしまった。
 まあゆっくり考えたら、そう言いながら、高崎は自分のグラスにも日本酒を注ぎ、口をつける。
 と、想像以上の辛さに喉が驚いて、思わず吹き出してしまった。

「…っ、げほっ、ごほ、なに、これ辛っ!!!!」
「おっまえ、もったいないことすんなよ!」
「けほ、…いやだって、こんな!こほっ、…辛いと思わねえじゃん!」

 そんなに辛いか?と信越は絨毯へ横たえていた上半身を起こすと、先ほど高崎がなみなみと同じ日本酒を注いだグラスへ手を伸ばし、それをぐびりと飲み込んだ。特に表情ひとつ変えない。

「美味いじゃん」
「…知ってたけど、お前本当に日本酒好きだよなあ」
「酒なら全般好きだけど、まあ確かに日本酒は好きかもな」

 あっという間に、高崎が咽るほどに辛さの効いた日本酒を飲み干す。

「親父さんが飲むんだっけ?」
「いや、親父と酒を飲んだことはないと思う。日本酒飲むようになったのは、」

 そこで信越は言葉を区切り、続けることはなかった。不自然に切れた会話に、おそらくは「敦賀が」とでも続く予定だったのだろう、と簡単に想像できる。
 高崎はため息をつくと、さらに信越のグラスに日本酒を注いだ。

「もう答え出てんじゃん」

 呆れ声で言う高崎に、信越は何も言わない。代わりに注がれたグラスを掴むと、また一気に飲み干した。
 考えたくないことも、一緒に呑み込んでいるようだった。
 今年は若干面倒事に巻き込まれそうだなあ、と高崎は懸念するが、口に出すとただでさえ不機嫌な目の前の男の機嫌が、さらに下降するだろう。
 生成りの和服に身を包んだ信越が、何だか知らない男のように見えて、その妙な違和感を振り払うように、高崎はもう一本缶ビールを開けた。

 空気が少し緊張していたからだろうか。一本目を開けた時よりも、音が大きく響いた気がした。




   


 


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