三つ折りのみずいろ




 白い人が視界を横切った。
 もしや人ならざるものの類ではないか、と身体に緊張が走ったが、カラコロと耳に届いた下駄の音にほっとする。
 白い和服に身を包んだその人は、道の先に立つ北陸には気づかずに、さっとどこかへ消えてしまった。一瞬しかその姿を捉えることは出来なかったが、確かに白い和服姿だった。祭りの最中でもない、鬱蒼と木の生い茂る別荘地では、白い着物と下駄を履いた姿が、どこか浮いていた。濃い緑をした葉が風に吹かれて、まばらな光が絶えず揺れている。そんな風景の中に浮き出てきた人物は、果たして女だったのか、男だったのかもわからなかった。女ほど華奢ではなかったような気もするが、男だという確信もなかった。どちらであろうと、北陸にとって知らない人間ではあるけれど。
 白い人に目を奪われて、思わず止めてしまっていた足をゆっくりと前に出す。手の中でしわくちゃになってしまった手書きの地図の端に、さっと走り書きされた住所をちらりと見遣る。目の前の電柱に記されている住所見比べ、どうやらこの付近が目的地で間違いないようだと確信した。視界を少し上に上げれば、“目印は赤いやね”と地図の最後に思い付きのように書かれたそれもある。赤い屋根の洋館の前にたどり着くと、大きくひとつ深呼吸をした。重厚な鉄製の門の横にあるブザーを鳴らす。しばらくすると、自動で鉄の扉が開いた。迎えに出ては来ないのか、と思うが、そういうところもまた、あの人らしい。北陸はするりと門の内側へ身を滑り込ませた。

 遊びに来ないか、という便りを、遠い親戚から北陸が受け取ったのは、丁度長引いていた梅雨が明ける頃だった。初めての大学の試験に向けて日々図書室に引きこもっていたところ、そんな手紙が届いたのである。あら丁度良かったじゃない、と歌うように喜んだのは母親で、決して放任主義ではないけれど、異国で生まれた彼女は母親であっても自由人だった。一カ月くらい遊んでらっしゃいな、そう提案する彼女の手には、派手な色をした旅行会社のパンフレットが握られていた。どこかへ出かける心づもりらしい。北陸は曖昧に返事をしたと記憶しているのだが、試験に追われているうちに、あれよあれよと話が進み、いざ試験が終わってみれば、それじゃあお盆からいってらっしゃいね!と笑顔で告げられたのであった。
 特に夏休みの予定を決めていたわけでもない北陸は、田舎に引きこもるのも良いか、と深く考えずに了承し、最低限の着替えと本を数冊詰め込んで、電車に揺られて目的地へと向かった。初めて降り立ったその駅は、関東にある自宅の最寄り駅に比べて随分と涼しかった。来てよかった、と喜んだのも束の間、あまりに雑な地図が本当に役に立たず、この地図を適当に書いて寄こした本人が、抜群の土地感覚を持っていたことを思い出して絶望する羽目になるのだけれど。絶対的な土地勘だけで生きている人間が書いた地図は、実は当てにならないと知ったのはこの時だった。
 そうして道行く人に道を尋ねながらたどり着いた洋館は、門をくぐった後も随分と歩かされた。玄関へ近づいていくと、扉脇に人が立っていることに気づく。北陸をここへ誘った張本人だった。声を張らずとも聞こえる程度の距離まで北陸が近づいたところで、やあ、と右手を上げて歓迎する。「いらっしゃい」と出迎えたその男は、自分の書いた地図の雑さ故に北陸が無駄に歩き回る羽目になったことなど知るはずもなく、にこにこと嬉しそうに笑っていた。

「……お久しぶりです」
「どうした?疲れたのか?そもそもそんなに久しぶりでもないだろう、お前が大学に入学した時に会ったじゃないか。飯は?」
「食べてきました」
「なんだ、軽食を用意していたのに。まあ、後で小腹が空いた時にでも食べてくれ」

 そう言うと出迎えた男―――敦賀は、建物の扉を開け、北陸に中に入るよう促した。お邪魔します、と遠慮がちに踏み入れた室内は、思ったよりも明るい。吹き抜けのようなロビーには、大きな窓がいくつもついているからだろう。
 敦賀の後に続いて階段を上っていくと、客室らしき部屋が並んでいた。一番手前の部屋の扉が開かれて、ここが寝泊まりする場所だと教えられる。7畳はありそうなその部屋は、ひと夏を過ごすには十分すぎる広さだった。扉を開けて向かい側には窓。壁際の奥には木製の棚と机が並んでいる。今は机の天板が出された状態だが、形から想像するに、仕舞うことも出来そうだった。机と棚と向かい合うように設置されているのは、小ぶりなベッドである。

「俺も使ってたから、たぶん高さはギリギリ足りると思うけど。小さかったら…、身体丸めて寝れば問題ないだろ。横向きで眠る癖、どうせ変わってないだろうし」
「…丸めてたら何か不都合でもあるんですか?」
「ん?ないけど」

 年下扱いをされることに慣れていない北陸は、敦賀に会うとどうしても居心地が悪くなってしまう。それは年長者としての彼からの扱いに、戸惑いを受けるからでもあった。
 遠い親戚だという自分と瓜二つの青年に、北陸が初めて出会ったのは、恐らく中学に上がった頃だった。その頃まさに敦賀は大学生くらいの年齢だったと記憶しているが、如何せん外見があまり変わらないこの男のせいで、年月が曖昧だった。敦賀がいつ社会人になったのか、はたまたまだ学生の身分なのかは知らないが、とにかく夏になると毎年この別荘に顔を出して、長期滞在しているのだという。敦賀の家の祖父が建てたという洋館を、まだ年若い敦賀が受け継いだことは風の噂で聞いていたが、よもや呼ばれるとは思っていなかったので、正直なところ北陸は未だに自分が何故ここにいるのかいまいち理解し切れていない。

「荷物置いて、もし汗かいてたらシャワーでも浴びてきたらいいんじゃないか。まあ、何をしてても構わないから、好きに過ごすと良い。ちなみに、俺は大抵書斎にいる。何かあれば呼んでくれ。夕飯は毎日18時。朝は大体7〜8時くらいの間で食べる感じかなあ。昼は自分で済ませることになってる。朝食べなければそれを食べるのもありだし。キッチンにあるもので済ませてもらっても、外に食べに行っても。食堂はさっき通ったところにあったの、わかっただろ?あ、一階の玄関向かって左手突き当りに、この夏の時期に毎年来てくれるお手伝いさんがいて、食事は彼が作ってくれてるんだ。要らない時は早めに言っておいてくれ。それから、もし何か入用だったら声かけてくれて構わない。お前が来ることは伝えてあるしね。とても気立ての良い青年だよ」

 はい、と渡された名刺には、どうやらそのお手伝いさんだという青年の名前が刻まれている。何故それを貴方から受け取るんですか、と問うだけ無駄なような気がして、北陸は大人しく受け取った。それじゃあ、と敦賀はさっさと部屋を出ていってしまう。
 さて、と改めて部屋を見渡してみるが、特に何もない。そう汗をかいているわけではなかったが、場所の確認がてら敦賀の言うとおりシャワーを浴びることにする。タオルが見当たらないが、きっと行けばあるのだろう。ギイ、と油切れのような音を立てる重厚な扉を開いて、北陸は部屋から出ると、脱衣所へと向かった。





 ざっとシャワーを浴びて小ざっぱりしたところで、乾いた喉を潤そうと、北陸がキッチンに向かうと、中から話し声が聞こえてきた。先ほど言っていた青年だろうか、と思いつつ、念のため客人だった場合に備えて、肩から下げていたバスタオルを丁寧に畳んで脇に抱える。キッチンに扉はないため、ノックをすることも出来ない。北陸はそろり、と顔を覗かせた。

「大体敦賀はほんといつも連絡寄こすの遅すぎ。厳密に日取りが決まってなくとも、大体この辺りに来るっていう目星はつけられるだろ」

 声の主は、どうやら少しばかり憤っているようだった。大きな冷蔵庫の影に隠れて、その人物の姿を捉えることは出来ない。敦賀は、ダイニングテーブルで頬杖をつきながらあまり反省している様子もなく笑っている。彼の様子から、喧嘩中というわけではなさそうだが、何となく入るのも気まずく、北陸は様子を伺っていた。

「連絡って言ってもね、俺は毎年この時期になったら来るんだから、それでいいじゃないか。来た初日に会えなくたって困らないだろ?何となくここの前を通って、人がいそうだったら来たんだなって思ってくれればそれでいいし」
「…そうだけど」

 敦賀の話し相手は不満そうに押し黙る。

「あれ、どうした?」

 目線をふと上げた敦賀が、目ざとく北陸の姿を認めた。おいで、と手招きをされ、北陸がそれに甘えてキッチンへ姿を現すと、冷蔵庫の物陰にいた青年が顔を出した。「なんだ?湖西か?」そう言いながら北陸を振り返り、ぎょっ、とした表情で動きを止めた。ああ、顔に驚いてるのか、と北陸は相手の反応に慣れている。あまりにも敦賀と似ているため、敦賀の知人に会えば大体同じような反応をされるのだった。

「あの子は北陸。お前より2つか3つくらい下かな?仲良くしてやって」
「な、かよく、って、…はあ!?誰だよ!?アンタ兄弟いないって言ってなかった!?」
「いないよ。あの子は遠い親戚。でもまあ、弟みたいなもんだと思ってもらって構わない」
「いや構うだろ!」

 なんで?と敦賀は首を傾げている。色素は敦賀より大分薄いものの、それ以外は実によく似ているのだから、戸惑うのも無理はなかった。

「こっちは信越。ここからちょっと先に彼の家の別荘があるんだ。夏は毎年ここで会うようになって、もう随分経つかなあ。来年以降、何か困ったことがあれば信越を頼るといい」
「来年以降、って、何の話?」

 信越と呼ばれた青年が、敦賀の言葉を捉えて不思議そうに言った。物陰から出てきた彼の姿に、北陸は、あっ、と声を上げる。何だよ、と信越に睨まれるが、言い訳をすることも忘れて彼を見つめる。
 信越は白い和服を着ていた。よく見れば生成りの涼しげな生地だ。濃い藍染の帯を結んでいる。北陸がこの屋敷に到着する前に見かけた、あの白い人物だ。あまり日に焼けていない不健康そうな白い肌と同化しているように見えて、やはり妙に全体が浮き出ているように見える。

 強烈な印象だった。
 目を見張るほどの美人ではないのに、存在が際立って美しく見えた。
 
 白い和服のせいで補正されているのかもしれないが、睨むような強い視線と浮世離れした格好の青年に、北陸の視線は釘付けになったままである。
 そんな北陸と、何故か不貞腐れている信越を交互に見比べ、敦賀は大きくひとつ頷いた。

「俺、来年からここにはしばらく来ない予定だから、代わりにあの子に来てもらおうと思ってて」

 はあ!?と言ったのは、果たして北陸なのか信越なのか。何勝手なこと言ってんですか!という北陸の突っ込みよりも早く、信越が敦賀に詰めよっていく。

「来なくなるとか代わりとか何勝手なこと言ってんだよアンタは!」
「いや、だって本当のことだし。多分来られなくなるから、お前が寂しくないように、あの子を呼んだんだよ」

 掴みかかるのではないかというほど勢いのあった信越が、北陸が見てもわかるほどに明らかに動揺していた。見開かれた瞳が揺れている。あ、これは兄の間違いだな。北陸は直観で察するも、二人の間に入るわけにもいかない。
 何か言いたそうに口を何度も開いては閉じを繰り返し、結局何も言わずに信越はバタバタとキッチンを出ていってしまった。追いかければ良いのか、放っておくべきなのかわからずに、北陸が二の足を踏んでいると、敦賀から待ったの声がかかる。

「お前は気にしなくていいよ」
「…いや気にしますよ。大体何ですか、僕は今年だけのお誘いだと思ってここに来たのに来年以降はとか何とか」
「来年以降も来るよ」
「だからっ、人の話を、」
「お前は、きっと信越を気に入るから」

 遮るように断言され、北陸は続けようとしていた言葉を呑み込む羽目になる。にこりと微笑むと、敦賀も信越の後を追うようにキッチンから出ていった。

 しん、と静かになった初めて訪れた洋館のキッチンで。
 北陸は茫然と出ていった2人を見送りながら、平穏に過ごそうと考えていた夏休み計画が崩れていくことだけはわかっていた。



 これは、二度と訪れることのない、たったひと夏の物語。




   





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