控えめなノック音で、午睡から目覚めた。勘違いだっただろうか、と少し耳を澄ましていると、もう一度響く。はい、と声を上げると、「ご友人と名乗る方が到着しました」と言う。ドアの向こう側で待機しているのは、この屋敷の手伝い人だという湖西だろう。北陸は一拍空けてから「はい!?」と勢いよくドアを開けた。
「なんて?」
「ご友人です」
北陸にとって、友人と言えるほど仲の良い人間は少ない。そして、北陸が友人と呼べるその数人には、ここの存在を明かしていなかった。夏休みはどうするのだと尋ねられて、ちょっと長期間旅行に行く、としか伝えていないのだ。友人がここを訪ねてくるはずもなかった。しばし思案し、まさか、とひとつの可能性に気づく。
北陸の様子が決して歓迎しているとは言えなかったからなのか、湖西はさらりとこんなことを言った。「追い返しますか?」この人のこういうところは、さすがあの敦賀に仕えているだけあるなと思う。
「とても素敵な提案なんですが…、追い返すと面倒な人たちな気がするので、…ひとつ確認なんですが、どういう容姿の方ですか?」
「長身と、長髪の男性二人組です」
予感は的中した。確実にあの二人だ、北陸は思わずため息をついた。
「…とりあえず外に出ます。あ、夕飯は、とりあえず作っておいてもらえますか?もしかすると、その友人とか名乗ってる人たちと出かけるかもしれませんが、とりあえず帰りますので」
「わかりました」
額に手を当てて考え込む北陸に、湖西はそれ以上追求はせず、静かに下がっていった。
薄手のカーディガンを羽織って外へ出る。照りつける日差しは強いけれど、関東のそれに比べれば幾分か柔らかい。さざめき合う木々の囀りさえ、早くと急かしているような気がした。一体何をしにこんなところまで来たのだろうか。自然と重くなる足取りは、よく晴れた夏の午後には不釣り合いだ。
門をそっと開けると、確かに長身の男二人組が佇んでいた。はあ、ともう一度ため息を吐く。「…おまたせしました」なるべく沈まないように声の調子を上げたつもりだったが、贔屓目に見ても歓迎ムードにはならなかった。
「ちょっと北陸!遅い!どうせこの扉だって自動で開くんでしょ?まずは中に入れてよね」
「やっほー、元気そうで何より〜」
「………、一応尋ねますが、先輩方は、一体ここで何をなさっているんですか…」
訪ねてきたのは北陸の大学の先輩だった。同じ研究室の院生で、学年は違うはずだが妙に仲の良い二人だった。中に入れろとごねているのが上越、呑気に挨拶をしてきたのが秋田という。授業や演習の際には助けてもらっているが、プライベートで会うほど親しくなった覚えがなかった北陸は、心底迷惑そうな顔をした。
「何ってひどいなあ、行くって言ったじゃん」
ねー、と秋田と上越は顔を見合わせている。確かにそんなことを言われたような気はするが、まさかそこまで親しくはない先輩が、本当に訪ねて来ようとは思ってもいなかったのだ。
夏休み中の研究はどうするかと話題になった際に、北陸は申し訳なさそうに夏の予定を共有した。学部一年である自分の役目はそこまで重要ではないものの、誰かと代わってもらわなければならなかったのだ。誰がいつどこにいるのかはわかるようにしておこう、と言った年長者の言葉に釣られて、つい滞在先を教えてきたのだが、今考えれば不要だったのではと首を傾げたくなる。
「暇だろうからと思って寄っちゃった」
「寄るような場所じゃないですよね!?実家新潟ですよね!?」
「上信越だから誤差の範囲だよ」
何を間違えても誤差の範囲ではないけれど、反論するのも面倒だった。
「…百歩譲って上越先輩は誤差の範囲として秋田先輩は誤差じゃないですけどどうしていらっしゃったんでしょう…」
「美味しいハムが食べられるって聞いたから、羽越に」
「…羽越さんがどなたかは存知上げませんが…それならその人のところに行ってくださいよ…僕は居候だって言いませんでしたっけ…」
上越も秋田もこの地と縁があるとは聞いたことがない。どう考えても冷やかしたかっただけだろうと推測できる。
居候、という北陸の言葉に上越が反応した。
「そうだっけ、それは聞いてない気がするけど。えー、じゃあ中に入れて貰えないの?一泊していく気満々だったのにー。さすがに僕もこの辺には別荘ないしなあ。秋田、この辺に別荘ある?」
「上越がないのに僕が持ってると思う?羽越に聞けばあるかも」
宿さえ確保していないらしい様子に呆れるが、会話から察するに当てくらいはあるらしい。どんな大学院生だ、と思うが、普段の金遣いや身に着けているものを思い返せば、少なくとも上越は良いところのお坊ちゃんなのだろうと窺い知れる。秋田についてはよくわからない。そもそも先ほどから当たり前のように会話に出てくる羽越という人間に、北陸は心当たりがなかった。聞いたところでどうせ関係はないのだろうが。
今後の予定も含めてとにかく一旦話しましょう、と北陸が近くの喫茶店へ二人を案内しようとしたところで、ふいに影がひとつ増えていることに気づく。
「部屋ならたくさん余ってるから泊まっていけば?」
いつの間にやってきたのか、するりと会話に入り込んできたのは敦賀だった。
「さっきの人って、北陸のお兄さん?」
急に現れた北陸の居候先の主は、外出の予定があったらしく、空いている部屋を北陸に伝えるとさっさといなくなってしまった。結構です、と北陸が断るよりも先に、上越と秋田が御礼を述べたせいで、そのまま二人とも屋敷の中へ案内する羽目になる。台所で夕飯の下ごしらえをしていたらしい湖西は、北陸が後ろに二人を引き連れているのを見ても、大して驚かなかった。「お二人の分も用意しますか?」というありがたい申し出には乗っかることにする。二人とも信じがたいほどの酒豪なので、外に出ようものならどうなるかわからない。
二人を通した部屋は、北陸が居座る部屋のすぐ向かいだった。北陸の部屋よりも少しだけ広い。大きな窓を開けると入り込んでくる風が気持ち良い。
ベッドに寝ころんで寛ぐ二人に、いつまでいるつもりなのだろう、と疑問が沸き起こるが、北陸が自ら問うことは出来なかった。そんな様子を素早く察知したのは秋田で、心配しなくても僕たちも用事があるから明日の午後には帰るよ、と言う。上越もそれには気づいていたのか、ちらりと北陸を見遣って、何とも言えない表情をした。そして、別のことを問うてくる。あれは兄なのか、と。
「いえ…、遠い親戚ではありますが、兄ではありません」
「えっそうなの?よく似てたけど」
「僕も…、初めて会った時は驚きました。でも、兄じゃありません」
「あの人いくつ?」
秋田の問いに、わからない、と北陸が答えると、上越が「はあ?」と呆れた。そんな風に言われても、わからないものはわからないのだ。正直なところ、敦賀については北陸自身もよくわかっていない。
「なんだ、北陸のこと一個知れたと思ったのに。ねえ上越」
「別に僕は北陸のことを知らなくてもいいんだけど」
「すーぐそういうこと言うんだから。…急に来てごめんね、君ともう少し仲良くなりたかっただけなんだよ」
にこりと秋田が微笑む。二人を部屋へ案内した後、お茶を淹れることを言い訳に、すぐ部屋から出て行こうとしていた北陸だったが、座ってと秋田に促されると、部屋を後にすることはできなかった。部屋の隅に置かれた、古いけれど重厚な作りの飾り椅子に腰かける。
北陸が所属する研究室は、全部で五名だ。大学院生は上越と秋田を入れて三名、その他学部三年生が一人と、あとは北陸だけ。正確には二年から研究室へ在籍することになるため、北陸はまだメンバーではないのだけれど、ここの研究室に入りたくてこの大学を志願し、入学式初日に顔を出したらそのまま研究に巻き込まれて現在に至る。単位にならないのによくやるねえ、と言ったのは確か上越だが、メンバーが増えたことは単純に嬉しかったようで、学食等で顔を合わせれば声をかけてくれるようになった。
「僕らが放課後研究に引っ張ってるせいもあるんだろうけどさ…、北陸って学校で見かけると大抵一人だから、気になったんだよねえ」
「………好きで一人でいるだけです」
「上越と同じこと言ってる〜強がりだ〜」
「一緒にしないでくれる!?」
言い返せない北陸と、すぐに噛みついてきた上越を、秋田は二人まとめて笑い飛ばした。
「だからさ、まあほんと他意はないんで、今晩は語り明かそう!僕らの人生を!」
「やだよ何でだよ」
「同じくお断りします」
「いいじゃん、上越に似てるならきっと面白いところが出てくると思うよ。そうだ、じゃあ定番だけど好きな人とかいないの?恋人いる?」
「………」
今晩、と言ったのに既に質問をしてくるところとか、内容が突然無遠慮すぎるとか、言いたいことがたくさんあった北陸が、とにかくこの場を一刀両断しようと腰を浮かしたところで、半開きになっていた扉が開く。
「なあ、アンタ、敦賀知らねー…、……げ」
また人が増えた、とぼやいたのは、信越だった。つい先日北陸と遭遇した時と変わらず、何故か和服に身を包んでいる。
信越と顔を合わせたのは、三日ぶりで、言うなれば初対面で信越が敦賀に食ってかかり、部屋を飛び出して行って以来だった。近くの店で見かけることはあっても、何となく話しかけることは躊躇われて、あれから話していない。
向こうから話しかけてきたことに安堵しつつ、北陸が答えるより先に、上越が声を上げた。
「信越じゃん!」
は?と、信越への返事よりも先に、北陸が上越を振り返る。何してんの?と上越が目を見開いて驚いていた。
「うっそでしょ…むしろ何でここにいるんだよアンタら…」
「わー、本当に信越だ。ちょっと久しぶりだねえ、羽越元気?」
秋田も知っているらしい。しかも、先ほどから何度か登場した羽越という人も繋がっているようだ。北陸は、一人置いて行かれたように、ぽかんと口を開く。
「信越と北陸って知り合いだったの?」
「知り合いじゃねーよ、俺は毎年ここに来てるけど、この青年は今年突然やってきたんですー。っていうか、え?本当にここで何を?」
「北陸がお盆以降はここにいるっていうから遊びに来た」
「…もしかして?ついに入ったという、一年生の後輩?」
「そう!」
なるほどー!と信越と秋田がハイタッチを交わした。何がなるほどなのか、北陸にはさっぱりわからない。一言も発さずに黙って事を成り行きを見守る北陸に、秋田がひとつずつ教えてくれた。信越は北陸たちの所属する研究室が懇意にしているメーカーに勤めていること、研究室の存続を気にしてくれていたこと、上越とはどうやら同郷であるらしいこと。はあ、と適当に相槌を打ってしまったのは、聞いたところで何かが腑に落ちなかったからだ。
「何だよ、アンタもそれならそうと早く言ってくれれば良かったのに」
「初対面で学会でもないのに突然研究室名言うような輩、貴方信用します?」
「しませんねえ」
信越は可笑しそうに喉を鳴らして笑うと、ごゆっくり、と部屋を出ていった。当初の目的だった敦賀の居場所は良いのだろうか、と思ったけれど、追いかけるのは億劫で、北陸もそのまま見送った。
思わぬ出会いに驚いたらしい上越と秋田が、信越の話で花を咲かせている。北陸はそれに入ることは出来ずに、黙って二人の会話を聞いていた。
強烈だった印象は少しばかり薄れたけれど、それでも彼について知りたいという気持ちは変わらない。外側の話を聞いたところで、何に自分が惹かれたのか、その答えは導き出せそうになかった。
硬い飾り椅子に深く腰かける。全部の鍵は北陸によく似た男が握っているような気がするが、それをどうやって明け渡して貰えばいいのか、皆目見当がつかない。
あの男は、北陸が信越を気に入るはずだと言った。
秋田と上越から少しだけ手に入れた、彼の情報を飲み込んでみても、まだわからない。
確か敦賀は、今夜は戻らないと言っていた。よし、と北陸は頷くと、まだ盛り上がる二人を置いて部屋を出る。北陸は信越の連絡先を知らないが、湖西ならば滞在先くらいは知っているだろう。
せっかくならば彼も酒盛りに混ぜてみよう、北陸はさも名案が浮かんだかのように浮足立ち、キッチンへと急いだ。