君恋ひてのち


   


 自動改札を抜けてホームへ上がる。まるでタイミングを計ったかのように列車が滑り込んできた。雨に晒されていつもよりもはっきりとした色合いになった車体に、たちはするりと乗り込んだ。
 少し話そう、だなんて郭は言ったけれど、どこかカフェにでも入るわけではなく、帰り道別れるまでの間、ということだったらしい。は記憶を探って郭の最寄り駅を思い出す。大体ここから10分強。久しぶりにあった同級生と話すには物足りないけれど、たちには丁度良い塩梅の時間だと思った。一度、振って、振られた間柄なのだ。

「郭は…、まだサッカーを続けてるんだよね」
 
 無難な会話を、と思うと、どうしてもサッカーの話題になる。少し背が伸びて大人びた表情になった郭が、つり革に捕まる腕越しに、ちらりとへ視線を寄こした。
 
「うん。変わらず学校ではやってないけどね」
「そっか。あんまり詳しく知らないけど、きっと高校生の方が大変なんだよね?」
「まあ、年齢が上がるほどシビアな世界になるし、将来の夢としての現実味は帯びてくるから、大変と言えば大変なのかもね。でも、俺は今の方が楽しい」
「そうなの?」
「うん。なんていうか、昔の方が必死だったからね」

 およそ必死になる姿など想像出来ないような涼しい顔で郭が言う。学校という外側の世界で生きているからなのか、中学時代、校舎の中で見かける郭は、どこか一歩引いたところにいるように見えていた。それが、クールで格好良いだとか、ミステリアスだとか、少女たちが色めき立つ要因でもあったのだけれど。

「必死だったから、の告白には答えられなかったし」
 
 本題に入るの早すぎではありませんか?
 さすがに動揺を隠し切れず、は思わず喉を詰まらせた。何も口には含んでいなかったはずなのに、唾液を変な風に吸い込んだのか、思わず咽る。えっ、と郭が驚いて目を丸くしているが、からしてみれば、郭のせいなので責任を取ってほしいくらいだった。周囲の乗客も、突然咽たに驚いたようで、ちらちらと視線が突き刺さる。どうにか息を整えたところで、はまじまじと郭へ視線を遣った。一体全体いきなり何を、という疑念の気持ちは晴れていないが、変な冗談を言うような男でもないことくらいよくわかっている。からの視線を受け止めて、郭はごめんと呟いた。「その謝罪は何に対してなのでしょうか」間髪を入れずに尋ねると、「驚かせたっぽいこと」と正しい見解が返ってくる。
 
「…タブーかと思った」
 
 振ったということは、郭にとってからの告白はプラスにはならなかっただろうし、それを掘り返すことは何のメリットもないような気がしたのだ。が小さくそう吐き出すと、また郭は驚いたようだった。

「それを言うならの方こそ」
「………それがわかっているなら切り出します?」
「俺の誘いを断らなかった時点で踏み込んでいいものと判断したんだけど、違う?」

 にこりと郭が綺麗に微笑んだ。違わないからこそ言い返す言葉もなく、はたまらずに視線を逸らした。揶揄ったりするような男ではないとわかっているものの、この会話の行きつく先が想像できない。告白を受けたことは、実はとても迷惑でしたとでも言われるのだろうか。時間差でそんな風に真実を告げるくらいなら何も言わないでおいてほしい。勝手にが悪い方向へ考えを巡らせていると、郭が改まったように少しだけ緊張を含んだ声で名前を呼んだ。うん?とが顔を向ける。

「あの時、はどうしてあんなことを言ったの?」
「あんなこと?」

 は首を傾げて見せた。あの時、というのはきっと告白をした時のことを指すのだろう。

 春の陽気に背中を押されるように、あるいは新年度の浮ついた空気に惑わされるように、がクラスメイトであった郭へ思いを注げたのは、中学三年に上がったばかりの頃だった。さすがに最高学年ともなれば部活に進路に皆それぞれ将来を少しずつ意識し始めていて、それはも、そして郭も例外ではなかった。郭の進学先の希望をが知ってしまったのは偶然だけれど、それはずっと頭の片隅にこびりついて離れず、桜が散って新緑が美しい季節になっても消えることはなかった。
 同じ高校に行きたいだとか、そんな浅はかな考えはなかった。間違いなく彼はサッカーを優先に進路を決めているのだろうし、自身にも挑戦したい高校があった。一時の頼りなさ過ぎる感情に流されるほど子どもでもなかったし、彼の人生においてサッカー以外のものが優先されることなんてないのだということくらい、出会ってそう年月は長く経っていなかったけれどよくわかっていた。
 それでも、卒業を待たずして告白に踏み切ったのは。

 郭の視線は相変わらずへ落とされていて、返事を待っているようだった。うーん、とは口元に手を当てて考え込む。「あんなことっていうのは、どういう意味で言ってる?」答える前に、と質問の意図を確認すれば、郭が一瞬言い淀んだ。

「…あの時、は振られたがってるように見えた」

 もしも。
 もしも仮に、がそれを肯定したら、郭はあの時の返事を撤回でもするのだろうか。
 もしも仮に、がそれを否定したら、郭はもう一度あの返事を繰り返すのだろうか。
 どちらを選んだとしても着地点には救いがない気がして、今度はが黙り込む番だった。だからと言って、適当に嘘で塗り固めたところで、聡いこの男には通用しないのだろう。どうして今更こんなことを確かめようとするのか、質問の奥にある真意を読み取ろうとするが、さっぱりわからない。言葉を上手く選べる自信もなかったが、きっと郭が拾い上げてくれるだろうと判断して、は諦めたように口を開く。

「…さすがに、振られたいと思って告白はしてないよ」
「でも、予防線が張りたくて言った言葉じゃないよね」
「それは…、振られても仕方がないって言い訳を並べようとしたかってこと?…まあ、それは、…確かに違うけど」

 記憶を掘り起こしてあの時の大事にしていた気持ちを救い上げようとしてみるけれど、上手くいかない。名前さえ曖昧な、けれど明確な意思で牽制をしてきた少女を思い浮かべる。彼女のことを幼稚だと思ったけれど、今考えてみれば、とて大して変わらない。

 引き寄せられるように追いかけた存在が手に入らないことは想像に難くなかったけれど。

「受け入れられないのは…、別に良かったし、そうだろうなって思ってた。…けど、」

 途中で言葉を呑み込んだ。これをこのまま口に出してしまったら、蓋をしていた余計な感情まで現れてしまう。郭が、怪訝そうな顔をした。
 ガタンと一度大きく揺れて、列車が減速し始める。間もなく、の最寄り駅に到着するようだった。10分程度という時間は、実に丁度良い。幸いなことに、答えづらい質問を置き去りにすることが出来そうだ。社内に響き渡った放送に気を取られたことにして、続きはまだ吐き出さない。僅かな沈黙を耐え抜くと、あっという間に駅に到着し、扉が空いて人がホームへ押し出されていく。その流れに乗るように、は掴んでいたつり革から手を離すと、ちらりと僅かに視線を上げた。え、と郭がまた驚いて呟く。の最寄り駅を正確には把握していなかったのだろう。ここで降りるのか、と目が訴えている。その視線を振り切るように身体を扉に向けた。肩越しに振り返り、言葉を探す。

「…誰かのものになってしまうのも嫌だったんだよ」

 選んだ言葉を置き去りにしてドアを通り過ぎる。郭が何かを言ったような気がしたけれど、振り返らない。
 返答として正解なのか、にもわからなかった。







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