歩道橋を見上げると、見知った顔が横切っていった。 歩車分離式のここの横断歩道はタイミングが悪いと待つ時間が長い。いつもより少し遅く家を出てしまったは、1分でも早くここを渡りたかった。だから歩道橋へ視線を移した。春風に髪を泳がせて、クラスメイトが通っていく。ぼんやりとその姿を見送っていたら、いつの間にか信号は変わっていた。 歩道橋を降りた少年が、横断歩道の向こう側で立ち尽くしているを認めた。 「おはよう。ちょっと急がないと遅刻なんじゃない?」 可笑しそうに笑う郭の言葉に、うん、とは頷いて、小走りに横断歩道を渡った。ここでまた渡りそびれてしまえば時間をさらにロスすることになる。 「珍しいね、郭がこの時間なんて」 「俺は学校に書類を提出しに行くだけだからね」 「その余裕はそういうことか」 が忌々しそうに低い声で呟く。郭は涼し気な声でそれを肯定した。どうやら明日の試合に備えて今日から移動をするらしい。言われてみれば制服を着ていない。 どこかのプロサッカーチームのユースに所属しているという郭は、こうしてたまに学校を休む。自分の好きなことを追う姿は、素直に格好良かった。はサッカーにはあまり詳しくないけれど、きっとすごいことなんだろう。 「あ、丁度いいや。、悪いんだけど、これ俺の机に入れておいてくれない?」 「…やだと言いたいところなんだけど確かに職員室と教室は離れていて面倒だろうしどうせ私は教室に行かなければならないので最早断る上手い理由が見当たらないからわかった」 「なにそれ」 郭から手渡されたのは、宛先も何も書かれていない茶封筒だった。誰かに渡さなくていいの、と問う。ゆるりと郭が首を振った。 「今日渡してもいいんだけど、期限までもう少しあるから」 何を指しているのか見当はつかない。ふうん、とはその茶封筒を眺めて、やがてそれを鞄へと仕舞い込む。ついでに目に入った腕時計の長針は、始業開始まであと数分。走らなければ遅刻は確実だった。ちらりと郭を見上げてみるが、急ぐ気配は感じられない。 はあ、とはため息をついた。一人だったら諦めていたけれど、郭に見つかってしまった手前、何となくこのまま遅刻扱いになってしまうのは癪だった。共に登校したところで、片や遅刻にはならず、だけが遅刻する。何となく釈然としない。 「…走るね」 「うん、頑張って」 「ずるいよなあ…」 「何が?今日はどうせ俺がいないから、机も広々使えるし良かったね」 「机が広く使えるから走るんですか?その理屈、つながらなくないですか?」 「この時間が命取りだよ、急いだら?」 このやろう、と思うけれど、言っていることは正しい。はもう一度これ見よがしにため息をついて、アスファルトを蹴った。 また来週、と背中越しに透きとおった声がかかる。 その声に背を押されるように、駆けていく。 ベルが鳴り終わると同時に駆け込んだ教室で、担任が笑っていた。珍しいな、と言いながら出席簿には丸をつけてくれる。すみません、と息を切らしながら一言告げて、は窓際の一番後ろの椅子に腰かけた。 隣は空席。この席の主は、今頃悠々と歩いてこの校舎へ向かっているけれど、ここに現れることはない。朝のホームルームが始まって保健委員が連絡事項を読み上げている間に、は鞄から受け取ったばかりの茶封筒を取り出すと、それを言われたとおり机の下へ滑り込ませる。 と、手を滑らせてはらりと封筒から紙切れが飛び出した。切り取り線で几帳面に切り出されたA4用紙の下三分の一には、「進路希望調査票」の文字が書かれている。 見てはいけないとわかってはいるものの、拾い上げる時に視界に入った見慣れない高校名。サッカーを中心に考えている郭の進学先が、きっと自分とは違うだろうということは予想出来ていたけれど、全然知らないその高校名に、一瞬だけ心臓の辺りがざわついた。 拾い上げた紙を丁寧に封筒に戻し、落ちないように差込口を折り曲げる。奥深くへそれを仕舞い込んだ。 碌に連絡事項を聞いていないうちに、ホームルームは終了した。寝坊?と振り返ったクラスメイトに、そんなとこ、と曖昧な返事をする。今日郭休みかー寂しいねー、の前に座る少女がそんな風に言った。愛らしい雰囲気のその少女は、この席順になったことを喜んでいた。隣になれなかったのはちょっと悔しいけど充分、そう言って席替えをした初日にこっそりとに打ち明けてきたのだ。郭っていいよね。はその時も曖昧に返事をした。あれは、明確な意思を持った牽制だった。 学校という狭い世界の中で、郭英士という少年は、ちょっとした有名人だった。学校の枠に囚われないところでスポーツの才能を花開かせているのだ。有名になるのはある意味自然なことだった。自分が知る世界の範囲が狭い中学生たちにとって、郭のような存在は羨望の的になるのだ。 性格が目立つことをあまり好まない本人の性格もあって、その熱はさざ波のように静かに広がり、押したり引いたりを繰り返している。あからさまに郭へすり寄ることは出来ず、皆チャンスを伺っているのだ。 が彼と同じクラスになったのは、2年に進級した時だった。あまり運動には興味のないは、あれが噂の郭くん、という程度の認識だったのだけれど。 不思議な魅力を持った少年だった。 触れると、引き寄せられていく。 視線を滑らせて、主のいない隣の席へ。 寂しいね、という言葉が脳内で反芻する。 寂しい、のだろうか。 |