君恋ひてのち


   


 淀んだ曇り空は、今にも泣きだしそうだった。雨が降る。秋の長雨とはよく言ったもので、最近の空模様は曇天、または雨天続きだった。アルバイト先のカフェが入る雑居ビルの一階で、は空を振り仰ぐ。あいにく今日は折り畳み傘を持っていない。引き返して誰かと一緒に駅に向かおうか、一瞬だけ迷っていると、ぽつり、とアスファルトに染みが出来た。は意を決したように顎を引くと、小雨が降りだす外へ、ぱっと飛び出していく。駅までの道のりは大体500メートル。全力で駆けていけば、そこまで濡れることはないだろう。5時間の立ち仕事の後にはきついけれど、ずぶ濡れになるよりはマシだ。最寄駅まで着けば、母親が迎えに来てくれる。

「…スコールか!?」

 今頃はもう駅に辿り着いている予定だったは、結局信号を2つ渡ったところで近くの花屋に逃げ込む羽目になった。バケツをひっくり返したかのようにあっという間に雨脚は強くなったのである。逃げ込んだ先の花屋は、アルバイト先の店内に生ける花を何度も買いに来たことがある馴染みの店で、慌ただしく駆け込んできたを、店員は苦笑しながら受け入れてくれた。

「一気に来たねえ」
「ほんとだよ…、ごめんね、店内濡らしちゃった」
「いいよそれくらい。それより、はい、タオル。ちゃんと拭いておきな、風邪引くよ」

 差し出されたタオルを受け取りながら、は礼を述べる。休日の夕方、解散するには少し早めの時間帯。どちらかといえばオフィス街のこの辺りは、休日の方が客足は弱まる。店内にはの他に客の姿は見えなかった。それに甘えてレジ横にある丸椅子に腰かけて、髪や肩の雫を払い落とす。

「傘持って行きな。この暗さじゃ中々止まないだろうし」
「ほんと?とか言って、実はそれを期待してここに避難してきた」
「だと思った。御礼はコーヒー一杯でいいよ」
「了解、店長に言っとく」
「店長関係ないじゃん!」

 あははと笑いながらありがたくビニール傘を受け取った。
 この辺りには大学があるわけでも高校があるわけでもない。従って、ここらで働くアルバイトや店員は、よりも年上が多い。ここの花屋も例外ではなく、少し若いを、店員は皆可愛がってくれた。だからつい居心地がよくて長居してしまう。雨宿りのつもりで立ち寄って、ビニール傘まで用意してもらったというのに、結局その後30分は居座って、客がひとり現れたところで、ようやくは腰を上げた。明後日返しに来る、と告げて、入って来た客とすれ違うようにして店を出て行こうとする。何となくちらりと視線を客に向けたところで、はぎょっと立ち止まった。入って来た少年は、全身ずぶ濡れである。

「…すみません、ちょっと雨に降られてしまって」

 低く静かな声で少年は言った。店内の奥から顔を覗かせた花屋の店員は、わ!と驚きの声を発すると、すぐにまた奥へと消えていく。おそらくはタオルを取りにいったのだろう。
 がその場に立ち尽くしているのに気づいた少年は、ぺこりと頭を下げて端に寄った。店内を濡らさないためにと入り口付近から動いておらず、そのせいでが店から出られないと思ったのだろう。どうぞ、と促してみたものの、まったく動く気配を見せないに、少年は怪訝そうな表情を向けた。あの、と控えめの言葉を紡ぎかけて、を認めて目を見開く。

「…?」

 の名を、少年は躊躇いがちに呼ぶ。瞳が、戸惑うように揺れた。名を呼ばれた張本人は、少年をじっと見返して、久しぶり、とかろうじて返した。
 少年は、かつてのクラスメイト、郭英士。中学校の卒業式以来の再会だ。数年ぶりの再会なので、多少のぎこちなさは仕方のないことだけれど、両人の間には気まずい沈黙が降りている。バタバタと大量のタオルを両手に抱えて戻ってきた花屋の店員は、無言で向かい合う2人を見比べて、知り合いかどうか尋ねるのを躊躇ったほどだ。

「…えーと、とりあえずタオル持ってきたけど…」

 沈黙を割いたのは店員で、も郭もはっと我に返って彼女を振り返る。2人からの視線を受けて、ようやく「知り合い?」と確認した。

「…中学の、同級生」
ちゃんの?へえ、珍しいこともあるもんだねえ。自宅から少し離れてるでしょ?」

 あまり知り合いのいないところでバイトしたい、という希望があって、はあえて通学路からも外れたこの地でアルバイト先を探した。加えて、高校生が立ち寄るようなゲームセンターやショッピングセンターもないオフィス街だ。今まで近しい者に会ったこともない。それが、まさか地元の同級生に遭遇しようとは。びっくりした、とが呟くと、郭もひとつ頷いた。同意の意味らしい。

「でも、知り合いなら丁度良いや。ごめんね、貴方にも傘を貸せたらいいんだけど、あいにくちゃんに貸した一本しかなくて。ちゃん、あとちょっと待っててよ」

 傘の共有、つまりは相合傘で駅まで向かえということなのだろう。え、とあからさまに戸惑いを見せたに、店員はにやりと人の悪い笑みを浮かべる。

「おー?珍しいな恥ずかしいの?大丈夫、どうせ誰も見てないし、それにこの後この少年がさらにずぶ濡れになって駅まで向かわなくちゃならないと思えば罪悪感があるでしょ?ちゃん、何だかんだとお人よしだから、ここで断ったらきっと引きずるよ」

 好き勝手に店員が尤もらしいことを言った。危険地帯に置き去りにするわけではないのだから、罪悪感など生まれるわけもないのだが、否定するのも妙な気がして、は反論出来なかった。
 すると、タオルでびしょ濡れになった身体を拭いていた郭が、おもむろに大丈夫ですと告げる。は、ゆっくりと郭を見上げた。

「さっき、雨が弱まった気がして外に出てしまったんです。そうしたらまた強くなって。もう少しすれば、止むことはなくても弱まるでしょうから、その隙に駅に向かいます。、気にしないで行っていいよ」
「いやいや、君、弱まるったって多分たかが知れてるよ。そのビニール傘、割と大きいし、大人しく2人で帰んなさい」
「いえ、本当に大丈夫です」

 頑なな様子の郭に、店員も気圧されたようだった。をちらりと見遣って視線でどうすると問いかける。は苦笑せざるを得なかった。これはこちらが折れるほかないのだろう。別にいいよ、と郭に向かって声をかける。それでもなお躊躇いを見せたが、店員の目もあって気になったのか、郭は観念したように小さく息を吐く。

「…が、いいなら」
「いいよ。さっきは、急なことにびっくりしただけ」

 2人の様子を見守っていた店員は、の言葉に満足そうに頷くと、肩を叩いて見送った。
 外に出ると、降り始めのスコールのような勢いはなくなっていた。けれども、傘なしで外を歩くのはさすがに出来ない程度には勢力を維持している。が傘を広げて掲げると、すかさずその柄を郭が奪う。持つよ、と控えめに落ちて来る声は、記憶の中よりも幾分か大人びていた。少しばかり無言で歩いてから、どうしてこんなところに、とが尋ねた声は、ビニール傘に叩きつけられる雨音でかき消され、郭まで届かなかったらしい。なに?と郭が聞き返したけれど、その声もパラパラという音に邪魔をされる。は諦めて首を横に振った。郭も状況を察したのだろう、それ以上追求はしてこない。
 結局駅までの道のりをほとんど無言で進んでしまった。駅前ロータリーのアーケードに潜り込んで傘を折りたたむと、大量の水が伝って落ちていく。

「…災難だったね」
「うん、まあ、雨なのに外に出た俺も悪いんだけど」
「郭は、…」

 どうしてこんなところに、と先ほどの問いを続けようとして、は口を噤んだ。踏み込んでいいものかどうか、判断に迷ったのだ。そのの心の機微を正確に汲み取って、郭も一瞬躊躇いを見せる。花屋で再会をしてから、お互い躊躇ってばかりだ。

「…、引っ越してないよね?」
「え、…うん、まあ」
「じゃあ、帰る方向一緒でしょ。せっかくだから少し話そう」

 ぴたり、と歩みを止めたに、郭も数歩進んで立ち止まる。そうして振り返ると、真っすぐにを捉えた。

が、いいなら」

 花屋で言った台詞を、もう一度繰り返す。ずるい男だ、とは思った。ずるいけれど、逃げる選択肢を残してくれていることから、優しさから出た発言なのかもしれなかった。けれど、にはそこからくるりと逃げ出してしまうことなど出来るはずもない。郭の言葉は、まるで魔法の呪文のようにを雁字搦めにするのだ。

「…いいよ」



 中学三年の春、一度郭に振られている。







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