―過去を清算するのは、忘れるためじゃなくて。―











 廊下で田中憂菜と目があった瞬間から、何となく不吉な予感がしていたけれど、それでもその頭の片隅で鳴り響く警報を無視したのは、自身だった。「おはよーございます先輩ちょっと良いですか?」と小首を傾げて見上げてきた後輩は、いつもとはどことなく違う雰囲気を纏っていて、それに気を取られているうちに、気がつけば後を追っていたのだ。
 最上階に備え付けられている小さいけれど雰囲気の良いカフェに足を踏み入れる。生徒会という組織で出会った以上、学生寮を除いて、この二人が生徒会室以外で話をするのは極めて珍しい。カフェテリアとと田中という今までにない組み合わせが少しだけ新鮮だった。

「先輩何か頼みます?」
「飲み物だけ。アイスレモンティー」
「あたし、今日昼ご飯食べ損ねちゃったんで、サンドウィッチ食べてもいいですか?」
「どうぞ」

 カウンターで、イケメンと噂の店員にそれぞれ注文をすると、飲み物だけが先に渡され、田中のトレーにはサンドウィッチの代わりに番号札が置かれていた。5時間目が終わった直後のこの時間は、部活動がない生徒や、そもそも所属していない生徒たちの団欒の場としてここのカフェは賑わいを見せる。
 比較的空いている奥の壁際に席を取って座ると、田中はすぐに携帯電話を取り出した。黄色いランプが点滅していてなかなか消えない、きっと着信が入っているのだろう。が手でどうぞと促すと、すみませんと謝りながら田中は通話ボタンを押した。

「はい、うん、あー、ごめんまた後でかけ直していいですか?え?そうそう大事な用事なんですよ」

 受け答えの様子からして間違いなく大事な用事というのは今まさにこの時のことのようで、はそっと小さくため息をついた。生徒会の立会演説の件は結局了承したし、今生徒会業務で話し合わなければならないことなど一つもない。それでも田中がこうして改まって話したいと言ってきたわけで。



 心当たりは一つしかなかった。



「亮の話?竜也の話?」



 ぱたんと携帯電話を閉じた田中に一言、それだけ言えば、ぱちぱちと何度も不思議そうに瞬きをした。何でわかったんですか、なんて聞いて来るけれど、少し考えればでなくたってわかるだろう。騒がしく放課後のおしゃべりに勤しむ少女たちの黄色い声を背景に、は力なくアイスティーを吸い込んだ。

「あー・・・まあ、どちらの話でもあるんですけど」
「なに?シゲに何か言われたの?」

 の義理の弟、水野竜也の数少ない友人の名をあげると、田中は先ほどよりも遥かに驚いた顔をして見せた。

 先日、彼女の携帯電話に佐藤成樹から着信があったことを偶然にも見てしまったは、てっきり佐藤の電話も自分たちの話に違いないと思っていたので、田中の反応に驚いた。何に驚いているのか、いまいちわからなかったからだ。

「・・・先輩、シゲとも知り合いなんですか?」
「こっちとしては憂菜がシゲを知ってることの方が驚きなんだけど。前に言ってた桜上水の知り合いって、竜也でしょう?どっちと先に知り合ったの?」
「シゲです。あいつが小学校の頃に全国をヒッチハイクで回ってたの知ってます?」

 知らないわ、とが答えると、田中は少し悩んでそれから「すみません、これはあたしの口から言えることではないので、もし聞きたかったら本人に聞いてください」とはっきり言った。
 普段はどちらかと言えばムードメーカー的存在で、おちゃらけていることが多いけれど、意外にもしっかりした芯を持っている子だった。それは彼女が自分の後輩として生徒会に入った当初から、同じ会計仲間として働いてが気づいたことだ。物の分別を弁えている。

「とにかく、そのヒッチハイク中に知り合ったんです」
「なるほど。それで中学に上がっても連絡を取り合ってたわけね。で?この間の電話は何だったの?わざわざこうして時間を取るくらいだから、そこで何か言われたのかしら」
「・・・やっぱり、バレてましたか」
「不可抗力よ。携帯電話を取ったら名前が表示されてたんだもの」

 ここのカフェで一番古株と言われている女性が、サンドウィッチを運んできた。愛想はあまり良い方ではないけれど、おまけをしてくれることもあったりして、武蔵森生は彼女に親しんでいる。田中が御礼を告げると、昼はきちんとした時間にお食べ、と相変わらずの無表情のまま去って行った。代わりに持って行った番号札が、窓からの日差しを受けてきらりと光る。

「余計なお世話だということは百も承知で言わせていただきますが」

 運ばれてきたサンドウィッチには一切手を付けずに、田中は背筋をピンと伸ばした。釣られても少しだけ改まってしまう。





「一度、気持ちを吐き出さないと、きっと膿んじゃいますよ」





 気持ちが膿む。

 なんと言う不快な表現だろうとは思った。その感情がマイナスだろうとプラスだろうと、きっと膿んでしまった想いは、綺麗な思い出としては残らない。不快だと思いながらも、それでも今の自分のこのぐちゃぐちゃになった内側を表すには最適な表現だとも思った。
 溜め続けて知らん顔をしていたら、いつの間にか追いつかなくなっていた自分の感情。

 今からでは、もう遅いように見える。

「切り捨てて先に向かうことは出来ても、溜めたまま向かうことはできないと思います」
「・・・関係ないことなのに、随分と気に掛けてくれるのね。シゲだってもちろん多少は竜也のことを気にしているとは思うけど、貴方が関わるほどのことじゃないでしょう」
「シゲのためじゃないです」

 隣空いてますかあ?と可愛らしい4人組がやってきて、なんとなく会話を中断されてしまった。田中の表情はやはりいつもより真剣で、は視線を下に落としてしまった。何だか最近はこういう風に真正面から躊躇いなく視線を向けられることが多い。田中の視線は、つい先日の笠井の眼とそっくりだった。

「先輩には、全部にきちんとケリをつけてから、戻って欲しいんです」

 どこに、と聞ける雰囲気ではなかった。田中の視線は、何か自身の罪でも射抜かれているようでひどく居心地が悪い。それでも彼女が言葉を紡ぐ度に、吸い寄せられるように視線を向けてしまうのだ。



「亮は、不器用だけど優しい人です」



 あきら、と他人の口から聞いたのは初めてだった。は今度こそ本当に目を見開いて驚きの表情を見せる。は彼女と三上が幼馴染だということを、まだ知らない。



「ねえ先輩、今、一番大切なのは、誰ですか」



 一番、大切な人。

 一番、必要な人。



 一番、手放せない人。



 ブーッ、との制服のポケットの中で携帯電話が振動する。どうせメールだろうと取り出さないでいたが、鳴り止むことはなかった。先ほどとは逆に、今度は田中がどうぞと促す。正直今はそれどころではないくらいにの内側はぐちゃぐちゃとしていたのだけれど、何となくこのまま出ないわけにもいかないような気がして仕方なしに携帯電話を開いた。



 見慣れた名前。

 着信履歴を占める、あの名前。



 チカチカと安っぽく光るランプの下に、「水野真理子」と表示されていた。










 桐原家の長女、即ち桐原総一郎の妹であったの母親は、水野真理子とはよく気が合った。結婚して性はと改められていたけれど、どこか気品のある雰囲気や曲がったことが大嫌いなその性格は、兄とよく似ていた。
 も母親が大好きだったし、母親もをよく可愛がってくれた。それは真理子たちも同じことで、子どもを愛していた彼女たちは、子育てには一つの理想があったようで、とにかくそのことについてよく話していた。基本的には聞き役が真理子で話し役がの母親だったけれど、それでもどちらかに主導権が握られていることもなく、仲睦まじい義姉妹だった。
 の両親が交通事故で亡くなったとき、一番ショックを受けていたのは、もしかしたら真理子だったのかもしれない。姉妹である孝子や百合子に聞いてみても、同じことを言うだろう。自分の夫の兄弟が亡くなったのだから、もちろん傷ついているのは夫の方で、励ます立場にあったわけだけれど、気丈に振る舞うその姿が、逆に痛々しかった。
 それくらい、彼女たちの間には絆があったのだ。

 残されたを引き取ろうと言い出したのも、真理子だった。
 の父方の祖父母も名乗り出ていて、どちらかと言えばそちらに預けることが自然だったはずなのに、きちんと家の人々を説得してを引き取ったのだから、きっと相当を手放したくなかったのだろう。
 ちゃんは貴方のご両親の宝なのよ、と真理子は何度も言った。

 真理子にとって、はどういう位置にいるのか、いまいちわからなかった。
 総一郎が娘として扱ってくれているのだということは伝わってきたけれど、どうも真理子にとってのは、いつまで経っても「家の娘」という認識だったように自身は感じていた。

 それが嫌だったわけではないけれど、何か物足りないと感じていたのもまた事実で。

 結局最終的にが水野家を出て桐原家の養子に正式になったのには、少なからずこのことも影響していたのである。
 水野竜也との間に出来てしまった溝もまた原因の一つではあるけれど、それだけが全てではない。




 田中に別れを告げてカフェを去り、人気のない静かな一角まで来ると、は着信履歴を表示した。先ほどの着信はとうに切れていて、今や携帯電話は無言である。
 一番上にカーソルを合わせて決定ボタンを押す。耳に当てた携帯電話からは無機質なコール音が響いてくる。数回のコールを経て、向こうの通話ボタンが押された。

 相手は無言である。

 いつもそうだった。
 出ないことの方が多いだったが、それでも数回真理子からの着信を取ったことがある。ひゅ、と微かに息を呑むような音が聞えてきて、それから少しの静寂が訪れる。間を空けずに大体どちらかが切ってしまうので、電話越しに話したことはない。

 けれど、今日のは、少しだけ違っていた。



 膿んでしまった気持ちに、整理をつけようと、思っていたから。



「・・・真理ちゃん」



 そっと、小さくそう呼びかける。
 息を詰めて、返事を待つ。

『・・・ちゃん、ごめんね』

 意外にも、すぐに返事は返ってきた。名前の後に続けられたごめんねの意味がわからずに、咄嗟に言葉を返すことができない。は自分自身を落ち着かせるために大きく一つ深呼吸をした。吸い込んだ空気は廊下のひんやりとした冷気を含んでいて、すうっと気持ちが落ち着いていく。

「・・・ごめんね、の意味がよくわからないんだけど」
『うん?そうかな、ちゃんは、わかってると思うんだけど』

 電話の向こうで真理子が少しだけ苦笑したのだろう、耳に届いた音が揺れる。
 窓ガラスに背を預けるようにして廊下に佇むの側には誰もいない。放課後の学校特有の静けさと、それから昼間の熱気の余韻が混ざり合っていて不思議な心地がする。履いている上履きで、掃除されたばかりのタイル張りの床を擦ると、きゅっと鳴った。



ちゃんは、竜也のことが好きなのかと思ってた』



 鈴の鳴るような高めのよく通る声が凛と響く。
 今度はが苦笑する番だった。

「真理ちゃん、そんなこと思ってたんだ」
『孝ちゃんたちも、ね』
「バレバレだったわけね」
『そりゃあね。でも、ほら、戸籍上は姉弟だったわけでしょう、どうするべきかしらなんてよく話してたの。まあ、一方の竜也がまったくそういう気配を見せなかったから、これは見守るしかないなっていう結論に毎回辿り着くんだけど』
「楽しんでるでしょ」

 真理子が笑った。

ちゃん』
「・・・何?」
『今から、少しだけ、黙って私の話を聞いて欲しいの』

 電話越しなのだからもちろん表情など窺えない。それでも、真理子が今、真剣な顔で自分と向き合っているのだとは確信する。声にも芯があって、動かない。

 ずるずると壁を下がって廊下に直接腰を降ろす。自分の足を抱えるように縮こまって、は一つ返事をした。
 しん、と静まり返った廊下の奥から少しだけ笑い声が聞える。遠く離れた世界から届く声のようで、上手く耳には届かない。携帯電話を握りなおして、は目を閉じた。

『貴方のお母さんはね、私の理想だった。色んな話をしてくれてね、特にちゃんに関する話なんかは、すごく情熱的で。ああきっとちゃんも大きくなったらこんな風になるんだろうな、なんて思ってたの。・・・だからご両親が亡くなったとき、ショックだった。それからちゃんは絶対に手放せないと思った。貴方に、貴方のお母さんの面影を、求めていたのかもしれないわね』

 知ってたよ、とはさすがに言えなかった。
 呼吸さえも小さく細くしながら、は真理子の話に耳を傾ける。

『貴方のお母さんの理想をいつも聞いていたから、ちゃんがそうやって育っていってくれるか心配していたんだけど、そんな私の心配を他所に、ちゃんはまさにその通りに育っていった。でもね、だから不安だったの、私たちが、離婚するときにちゃんに何か影響しちゃうんじゃないかって』

 離婚の直接の理由をは知らないけれど、少なからず水野竜也が絡んでいることは確かだった。どちらも自分たちの息子を大切にしていることは明らかだったけれど、問題はその表現の仕方が食い違っていたことだったのだろう。自分が疎外されているとは思ったことがないし、義理の弟を羨ましいと思ったこともなかった。それでも、実の両親の記憶を持ったまま桐原家に引き取られたは、いつもどこか離れた場所から自分たち家族を見ているような気分だった。

 だからこそ、自分をも客観的に、判断するようになってしまった。

『私たちの離婚が決定したとき、ちゃんは迷わず私の方に残ると言ってくれたでしょう。でも、その後に総一郎さんのところに行った。これは、私と竜也のことを考えての決断よね?』

 疑問を投げかけられても、は答えなかった。



『・・・ごめんなさいね、そんな決断させて』



 真理子の声は、何度もの中に響いた。

 確かに、あの時々の自分の決断は、自身の気持ちというよりも、今自分がどこにいれば一番ベストな状態なのかを考えてのことだった。離婚当時に水野家に入ったのは、間違いなく真理子のためで、そこは真理子の言う通りで弁解するつもりはない。
 しかし、その後桐原家に移ったのは、確かに義弟のためでもあったけれど、どちらかと言えば自分の保身のためだった。

 自分が、傷つかない、ためだった。

「真理ちゃん」

 数秒間の空白の後、は意を決して言葉を紡ぐ。

「まるで私が、自分を犠牲にしてまで真理ちゃんたちを優先させたとでも思ってるみたいだけど、そんなことないわ。私は、いつだって自分を優先させてきてる」
『・・・でも、』
「私が桐原家に移ったのは、竜也が中学に上がってと総一郎さんの接点が出来たことを心配していた真理ちゃんのためでも、サッカーで出会った人たちと色々あって落ち込んでた竜也のためでもなくて、私が竜也といることに耐えられなくなったからよ」

 は再び目を閉じた。
 今目を閉じた先で、笑うのは、自分の義弟ではない。





「竜也のことが、好きだった。だけど、今は違うから」





 声に出して、やっと認められたような気がした。



 水野竜也への想いに無理矢理蓋をして過ごしてきた。彼ものことを大切に想ってくれていたことに間違いはないけれど、どう考えてみてもと同じ想いではなかったのだ。

 中学に上がって部活動が始まると、はなるべく毎日部活のある運動部を選んだ。もともと走ることは好きだったし、丁度良いと思って入った陸上部。武蔵森の生徒は寮生が約6割を占めるけれど、男子サッカー部と女子バスケ部以外は決して全寮制というわけではない。自宅――水野家から十分通うことのできる距離に武蔵森はあったため、は実家通いだった。

 毎日、帰らなければならない。

 その時間を、少しでも短くしようと陸上部を選んだのである。

 陸上部でかなり優秀な成績を修めていたが何の前触れもなく、2年生の新人戦後に退部したのは、自分が寮生になったからだった。

 というよりも、水野家から桐原家に移ったからだった。

 もう、水野家に帰り、義弟と顔を合わせることがなくなったからである。
 きちんとケリとつけてきたわけでもなく、半ば自分の気持ちから逃げるような形で水野竜也への想いに終止符を打ったは、それから程なくして三上亮と付き合うようになってからも、どうしても三上への気持ちを信じることが出来なかった。始めこそ確かに惰性で付き合ってみようとしたところがあるものの、惹かれている自分が確かにいた。それでも、あの無理矢理蓋を閉めた想いがあるうちは、三上亮に惹かれていることを認めるわけにはいかないと思い込んでいたのである。
 ドライな関係だね、とよく友人に言われていたのだけれど、二人の関係がドライだったわけではなく、が無理矢理そう在ろうとしていたのだ。それがいつの間にか当たり前になって、周りからもそう在ることが普通だと認識されるようになってから、もそれを自分に適用した。三上亮との関係が、そうであると思い込むことによって、蓋をした想いと比較せずに済んでしまった。



 ただ、それは飽くまでも仮初めの姿だった。



『そうなの。その人は、格好良いの?』
「うん、とても。今考えると、甘えてばっかりいたけれど」

 三上との関係を、きちんと内側から見つめなおして誰かに話すことなど、本当に初めてだった。全部を語れるわけではなく、むしろほんの少しだけなのに、それでもさらさらと内側に引っかかっていた何かが溶けて流れて行くようだった。

「私の、つまらないプライドに合わせてくれる、優しい人よ」
『ふふ、プライドが高いのは、遺伝かしらね』
「そうかも。桐原家は、そういう家系なのかもしれないね」

 お母さんに似たのかな、とが言うと、真理子は少し笑ってから、絶対にそうだと思うわ、とそう言った。

「真理ちゃん」



 ゆっくりと、は立ち上がる。



「ありがとう」



『・・・こちらこそ、ありがとう』
「また、話聞いてくれる?」
『もちろん。こういう話は、孝ちゃんの方が向いてるかもしれないけどね』
「お母さんに、聞いて欲しいよ、やっぱり」

 真理子が電話の向こうで空気を揺らす、きっと、微笑んでくれたのだろう。





 過去に向き合うことを避けてきた。

 過去を清算することで、昔の自分が大切にしてきたものまで一緒に流されてしまうのではないかと思ったから。

 だけど、それは現在を代わりに押しつぶしてしまっていて。





 だから今度は、きちんと、今現在を、





 
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
長っ!!!ごめんなさい・・・

10年07月02日

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