―無意識に、甘えていたのは多分、― ![]() 突然攻撃的になった夏の日差しの中を歩くこと三十分、これ以上はとてもじゃないが耐えられないとにかく休みたい、とが足を踏み入れた喫茶店は、武蔵森生行きつけの、こじんまりとした小さな喫茶店で、日曜日ということもあってか、店内はほぼ満席だった。案内されるままに向かった先の木製のセット席に腰を降ろす。とりあえずアイスティーを頼んで上着を脱ぐ。黒字に白で「MENU」とだけ書かれたそれをぺらりぺらりと捲っていると、ふいに名前を呼ばれて顔をあげた。 「やっほー!一緒に食べていい?」 「・・・・言いながら座るなよ・・・・すみません、先輩」 既にの前にどかりと腰を落ち着けたのは藤代誠二、そんな彼を呆れたような目で追いつつも、強く咎めずにぺこりとに頭を下げたのは笠井竹巳、直接的な関わりはそれほどないものの、三上を通じていつのまにやら親しくなってしまった後輩である。 が返事の代わりに手にしていたメニューを藤代に渡してやると、嬉しそうにケーキのページを開いた。 二人とも私服姿で、今日は部活がないらしいということを知る。三上と連絡を取らなくなって久しいため、はサッカー部の予定を知らない。 「今日、部活休みなのね」 「ん?あーはいそうなんすよ。っつっても俺と間宮とキャプテンと三上先輩だけだけど。な、タクはあったよな?」 「まあ・・・・俺たちも軽めだったんですけど、一応」 「・・・・なんでその4人だけなかったの?」 ご注文はお決まりですか、と控えめになってきたウエイトレスに、藤代はハキハキとケーキセットを注文する。は日替わり紅茶を、笠井はアイスコーヒーを注文した。 「何でって・・・・昨日まで選抜の選考会だったからっす。あれ?三上先輩から聞いてない?」 「残念ながらここ最近あいつとは連絡取ってないの。だから何も知らないわ。何、あいつも選抜に選ばれたの?」 「んー、昨日までは、その選抜メンバーを決めるための合宿だったんだけど。三上先輩は落ちました」 「誠二!」 仮にも三上の彼女であるへの配慮なんて微塵も感じられない藤代の物言いに、笠井が言葉を挟んでそれを咎めたけれど、当の本人のは苦笑しただけで、別にいいよと笑った。 飲み物が運ばれてくる。一つ一つ丁寧な仕草でテーブルの上にウエイトレスが飲み物を置いていくのを、黙ったまま3人で見つめていた。ごゆっくりどうぞと去っていくウエイトレスの背中が視界から完全に消えるのを待ってから、笠井が口を開く。 「先輩、三上先輩のこと嫌いになっちゃったんですか?」 どこか不安げな言葉とは裏腹に、が視線を上げた先にいた笠井の目は、ひどく強く、そして真剣だった。三上が、藤代が、笠井が、サッカーをする時の瞳とよく似ている。ああそういえばサッカーをしているときのこの瞳が好きだったな、とはまるで過去を思い出すかのようにかつての恋人の姿を思い描いた。 カラカラと、藤代がひっきりなしにストローでオレンジジュースを混ぜる音がやけに響く。 「嫌いになったわけじゃないけど」 「喧嘩したんですよね」 「どうでしょう」 「誤魔化さないでください」 「誤魔化してるつもりはないわ」 「あの日の、あれが原因ですよね」 空気が揺れる。 音が消えた。藤代が手を止めたからだ。笠井の突き刺すような視線を真正面から見据えて、は先日の出来事を思い出していた。 確か最後まではいなかったけれど、そういえばあの諍いの夜、笠井も側にいたはずだ。を、松葉寮まで案内してくれたのは笠井だった。消灯時間は過ぎていて、夜の闇に満月の光と、人工的な非常口を示す緑の不気味な光に映し出された笠井の背中はとても小さくて、何かに怯えているようだった。 「まあ、あれが原因というか、あの日を境に色々ね」 色々って、と笠井が言いかけたところで、空気を読んでいると言えばいいのか読んでいないと言えばいいのか、また同じウエイトレスが、今度はお盆にショートケーキを乗せてやってきた。藤代の前にそれを置くと、ご注文は以上でよろしいですかとお決まりの文句と伝票を残して去っていく。何となく流れた気まずい空気を完全に無視する形で藤代が無邪気にショートケーキを頬張った。 「・・・・詮索、するつもりはありません」 笠井の視線は相変わらず揺らぐことなくを見つめている。は笠井のことを、普段から人と話す時は目を見て話す子だと思っていたけれど、実際にこんなに一対一で話したのは初めてで(この際藤代はカウントしない)、その目に緊張する自分がいることに気づいた。昔三上が、笠井の目が苦手、と言っていた意味をこんなところで実感する羽目になろうとはまったく思ってもいなかった。 「だから俺は、先輩たちの事情も何も知らない上で、今から自分勝手な意見を述べさせてもらいます」 「・・・・どうぞ」 何となく嫌な予感がして、話を逸らしてくれないだろうかとそんな期待を込めては藤代に視線を遣るけれど、相変わらずケーキに集中していて、と笠井のことなんて見てもいなければ気を向けることさえもしていない様子だった。 「先輩は、ずるいと思います」 その笠井の言葉は、いきなりに切り込みを入れた。 「俺、先輩たちが喧嘩してるの、すごく嫌です。そりゃ、誰だって喧嘩してたら嫌ですけど、でも先輩たちは特別なんです。別に喧嘩しても構わないですけど、それを俺の見えるところでやって欲しくない。この意味、わかりますよね?」 賢しい少年だな、とは笠井を評価する。人をよく観察していて、その人の本質を見抜くのが上手いのかもしれない。笠井の隣で、ケーキを食べ終えたらしい藤代が、大きな音を立ててオレンジジュースを啜った。藤代が何を考えているのかはわからないが、その行為に意味を持たせているとは思えなかった。 「先輩と三上先輩は、その位置につくことを、認めたでしょう。投げ出すんですか」 いくら深入りされるのが嫌いで、何でも核心に迫ってくると誤魔化してしまうでも、さすがにこの場面で「その位置ってどの位置?」と言えるほどの不躾さは持っていなかった。 かと言って真正面からそれに答えてやるほどはお人よしでもなく、結果としてできたことは笠井から目を逸らすことくらいだった。 三上亮と、が居続ける、位置。 理想。 「先輩さあ、」 さてどう切り返すか、とが悩んでいると、間の抜けた声が目の前から発せられて驚いて顔をあげる。ケーキを食べ終えたらしい藤代が、金色の細工がいやに目立つフォークを淡い黄色の皿の上に置き、手を合わせてご馳走様と言った。さすがにこのタイミングで言葉を挟んできたことに笠井も驚いたようで、呆けたような顔をしている。 「あの人はプライドが高い――――とか思ってます?」 あの人、とはもちろん三上のことを差すのだろう、藤代の表情はいつもと大して変わりはなく、笠井にあるような真剣さは感じられない。あくまで日常の延長に過ぎないとでも言いたげな、そんな目だった。 あいつ見てると卑屈になるよ、三上が、校庭の隅で友人とリフティングをしている藤代に目を向けてそう吐き捨てたのは、確か半年ほど前のまだ寒い日のことだった。どういう意味だとが問えば簡潔に、「他人が手に入れられなかった正しいもんを全部当たり前みたいに突きつけてくるから。それも本人に自覚はねえから性質悪い」、そう吐き出した。それでも三上の目に嫌悪感はなくて、彼がそこを藤代の良いところだと認めているんだとは悟った。 じっとが藤代を見つめても、彼は笠井のように真正面からぶつかって来なかった。真剣さは感じないけれど、ただ、その大きな瞳には真っ直ぐな何かが存在している。 「全っ然ですよ、強いて言うなら、ただの負けず嫌いでお人よし」 笠井が、他人をよく観察して頭で考えてその人の本質を見抜くタイプだとすれば、藤代はそれとは対極の位置にいる、直感で人を判断するタイプだった。それも、その直感が外れることはほとんどないのだから適わない。 おそらくそれは笠井自身も自覚していることで、だからこそ自分たちの話の間に入るような形で藤代が言葉を挟んだことに文句を言わなかったのだろう。 も、それから笠井も黙ったままなのを藤代がどう解釈したのかはわからないけれど、彼はそのまま言葉を続けた。 「この間中西先輩も言ってたんだけど、あの人は他人のために見栄を張れる人だよ」 笠井のように、最後に意味を問いかけるようなことはしなかったけれど、それでも藤代の言わんとしていることが少なからず理解できてしまった自分に、は嫌気が差した。 「三上先輩は、すごく先輩のことが好きだから、その位置にいるんでしょ」 たちの話などまったく聞いている素振りを見せなかったくせに、しっかりと頭ではそれを整理していたようだ。藤代の言葉は、笠井のそれと上手くリンクしていた。 木目の粗いテーブルを指で弾きながらは彼らの言葉の意味を考える。 慎重に、間違わないように。 と言っても、もう色々と間違えすぎているから、今更な気も、するのだけれど。 は、三上と付き合うことになった時、条件を差し出した。 干渉しないこと。 面倒事を嫌う、というよりも自分を知られたらきっと面倒なことになると思い込んでいる節のあるは、他人が自分の領域に踏み入ることを許さない。恋人だろうと友人だろうと教師だろうと何だろうと、とにかくそれを許さない。それに彼女のずば抜けた容姿も相まって、どこのコミュニティーでも孤高の存在になることが多かった。別にそれは本人の望んだものでは決してなくて、ただ、周りが作り上げたイメージ。それでもいつしかそれに慣れてしまったは、その虚像が崩れ去るのを怖れていた。意識的にか、無意識的になのかは、もう自身にもわからない。 ただ、そこにいることに必死になっていたはいつも独りだった。 そこに、並んでくれた唯一の人が、三上だった。 「先輩はさ、プライドも高いし、実際そのプライドに価値を見出せる人だし、そのプライドを持っていても違和感ない人だけど、三上先輩は違うよ」 言いながら藤代は、ガシャガシャと溶けかけた氷をストローで乱暴にかき回す。僅かに残っていたオレンジジュースを侵略するように氷が溶けて、ほとんど無色に近くなった液体を、最後には砕かれた氷と一緒に飲み干した。トン、と空になったグラスをテーブルに置き、藤代は再びに視線を戻す。 「手放してしんどいのは、」 藤代はそこで言葉を切り、 「先輩の方でしょう」 続けたのは、笠井だった。 ← → +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 10年06月25日 |