―全部、欲しかった。―











 親の承諾が必要だとかいう書類にサインをしてもらうために、は戸籍上今の自分の父親に当たる人物に会うため、一人電車に揺られていた。本当ならば学校で会うことも可能なのだけれど、何となくそれは憚られて、校内で一対一で会ったことはない。
 珍しく女性の車掌だったらしい、いつもよりも幾分かトーンの高い声が目的地の駅名を告げる。ドアに寄りかかるようにして流れていく景色を見ていたは、ゆっくりとその背を引き剥がす。帰宅する学生やサラリーマンの波に流されるままにホームに降り立つと、かすかに気の早い蝉の声が聞えてきた。ここ数日最高気温が25度を超えていたから、もう夏だと勘違いして地上に出てきたようだ。とは言っても暦の上ではもう夏になっているのだけれど。

 おぼろげな記憶を辿って住宅地の中を歩いていく。義父――桐原総一郎がここに越してきてからは一度も一緒に住んだことはない。義母と離婚した彼を追って、一応この地にやってきたものの、結局寮に入ってしまったため、桐原家にあるの部屋は、ほとんど使われることがないままひっそりと彼女の帰りを待っている。長期休みでさえもろくに帰ることをしないから、本当に年に数日間しか使わない。

 夜の闇と人工のやたらと白みを帯びた蛍光灯の光が交錯する中に、桐原家は佇んでいる。自分の家ではあるものの、あまり近寄らないせいか、毎回ここに来ては緊張する。もちろんチャイムを鳴らさずに入ることなどできるはずもなくて、玄関の前でいつも深呼吸をしてから小さな呼び鈴を鳴らしている。今日も今日とて玄関の前で一旦立ち止まり、深呼吸をしてからチャイムを押そうとして、部屋の中から話し声が聞えてくることに気づき、ぴたりとは動きを止めた。はっきりと内容は聞き取ることができないけれど、話しているのだということがわかる程度には近いところにいるようだ。玄関先で話しているのだろう。何となくチャイムを押すことができずにそのままそこで待機していると、声の主たちは部屋の奥へと消えたのか、また静寂が戻ってきた。の手は、もうとっくに下げられていて、チャイムを押す気など消えうせている。



 ――竜也かな。



 と、直感的にそう思った。

 先日倒れた義父の見舞いに病院を訪れたときに、表情としてはほとんど無表情に近かったけれど、それでも確かに嬉しそうに自分の息子がサッカーの都選抜選考会に選ばれたことを話していた。その話をするために呼んだのかどうかはわからないけれど、それでも近く息子を呼び寄せるだろうということくらい、にもわかっていた。その手段として何を用いるのかが彼女としては気になることだったけれど、結局最後まで教えてくれなかった。
 あれだけ周囲を巻き込んで、というか武蔵森サッカー部と桜上水サッカー部に大きな波紋を呼んでおきながら、意外にもあっさりと双方は解決の道を選んだらしい。の知らないところでそれは完結してしまっていて、結局それが原因で彼女と、その恋人、三上亮との間にできた溝は埋められるタイミングを逃したまま、同じところに横たわっている。
 迷惑な親子だなと思いつつも、そこも親子であるが故なのだろうとどこかで羨ましくも思う自分に、は最早苦笑しかできない。

 と、いうよりも、わかってしまったのだ。
 あの親子の問題はともかくとして、自分は結局過去から何も進歩できていないということに。

 同じように過去に取り残されていると思っていた、否、盲目的に一方的に信じていた義弟は、あっさりとその過去を清算した。
 一人取り残されたは、結果として、過去の自分に蓋をして作り上げた今の自分と並ぼうとしてくれている三上に、やり場のないもやもやをぶつけてしまっているのである。
 それでも全て自覚しているというのだからどうしようもない。
 どうしようもないのだということも、きちんとわかっている。わかっているから、自分からは動けない。



 ――ごちゃごちゃと考えすぎなのはわかってるけど。



 リビングの電気が点いて、カーテンの閉められていない室内が外からよく見えるようになった。扉の向こうから入ってきたのは、の予想通り水野竜也だった。二言三言何か言葉を交わして、すぐにソファに座って雑誌を読み始める。それだけでも、彼らが前ほどお互いを遠ざけているわけではないことが窺い知れた。



 急に襲われる、孤独感。



 独り。



 押し寄せてくる黒い波を無理矢理遮断して、はくるりと向き直ると足早に駅に向かって駆けていった。










「おめでとーお」



 吐き出された言葉こそ祝福をしているものの、声のトーンと表情は一切の祝福さえも感じさせない態度で、渋沢と三上にそう言ったのは中西秀二だった。

 話があると呼び戻され、三上が自室に向かってみると、そこには後輩の間宮と藤代も待機しており、先日監督から発表された、都選抜選考会のことだと勘付く。それでも部屋の入り口を塞ぐようにして寝そべりながらなにやらノートのようなものを広げている藤代に、嫌な予感がしたのも真実で。「あ、三上先輩ちょうどいいところにっ!俺ら明日数学の小テストなんすけどまじでやべーの手伝って!」と一気に捲くし立てられて気づけば三上は藤代と間宮に、連立方程式の文章題の解き方を説明していた。部屋の主の一人である渋沢は、特に咎めたりもせず、自分の勉強のために机に向かっていて三上を助けてなどくれない。4度目になる同じ説明を三上がしていい加減ぶち切れそうになったところで、藤代は急に理解したらしく目を輝かせた。そして、「すーげー!なるほどね、ちょっと俺今すぐ高田にも教えてきます忘れるから!」と叫ぶとバタバタと部屋から出て行った。これにはさすがの渋沢も慌てて引きとめたけれど、時すでに遅し、仕方がないので間宮にもまた後で集合をかける旨を伝えると、そのまま彼も帰してしまった。
 残された三上は、どっと押し寄せてきた疲れに、ただぼーっと壁に寄りかかっていたのである。

 そこに、中西の声。

「・・・あんだよ、何の用だよ。っつか何、今の」
「こっちの台詞だっつの。渋沢に用があって来てみれば、お呼びじゃない誰かまでいたから、つい、ね」
「つい、じゃねえよ馬鹿」

 ギロリと三上が睨んで見せても中西は肩を竦めるだけで、そのまま部屋へとやってきた。勉強机へと向かう渋沢に一応挨拶をしてからベッドへとダイブする。

「おばちゃんがが、渋沢くん明日からいないなら寮長は代わり誰がやってくれるのかしら、って。辰巳ですって言っておいた」
「そこは格好よく、僕です、というべきだったな」
「やだよ、ぜってー無理。いいじゃん、どうせ来年の寮長は辰巳だし」
「何だ、あいつらもう決めたのか」
「知らないけど。だって今回みたいに部長が寮長兼任ってわけにはいかないだろ、部長はあんなんだし。笠井は藤代で手一杯な上に、以外とテキトーだしさあ、ほら、辰巳しかいねえじゃん?」
「大森でもいいと思うがな」
「無理だよ、あいつ朝弱いから」

 どうやら中西の用事というのは、明日からの泊りがけで行われる都選抜選考会で数日寮から出てしまう渋沢の代わりについての話だったらしい。渋沢は一度も中西を振り返ることなく淡々と会話を続け、ある程度話が落ち着いたところで、「で?」と振り返った。

「本当は何て言ったんだ?」
「近藤」
「ああ、なら問題ない」

 変な関係だな、と三上はその二人を観察していた。中西がどうでもいいことばかりつらつらと述べる奴だということくらい、三上自身もこの2年半の付き合いで理解したつもりだけれど、その恐ろしいまでにどうでも良い言葉に毎回真面目に、というか律儀に付き合う渋沢の気が知れなかった。

「何か文句でもあるのかい、三上亮くん」
「ねえよ」

 ふうううん、あっそう。
 心底苛立ちを覚えるような口調でそう言う中西に、三上は思わず食ってかかりそうになったけれど、渋沢に先を越されて、中途半端に口を開いてそこで動きを止めてしまった。

「中西、用事が終わったなら早く部屋に帰らないとネギが怒るんじゃないか?」
「うん?ああ、そういや今日は勉強教えてやるって約束してたんだっけ」

 何でそんなことを渋沢が知ってんの、という中西の問いに、当たり前のように、ネギから聞いたから、と答えるのは人望厚いと評判の武蔵森サッカー部キャプテン渋沢克郎。幼馴染で数年来の付き合いである近藤の予定さえもままならない三上とは大違いである。
 じゃああと一言だけ言わせてそしたら帰ると言った中西が、くるりと三上の方へ向き直り、にやりと口元に笑顔というにはあまりにも黒いそれを浮かべた。その時点で、先ほど部屋に入ってきたときに藤代を見かけたときよりも嫌な予感が三上の全身を駆け巡ったけれど、それは先ほどと同じように、もうすでに時遅し、だった。

「今日、ちゃんに会ったよ」
「・・・ああそうかよ」
「今日も今日とて美しかったです」
「・・・・・・」
「いやー、いつも思うけど、ほんと、何でこんなの選んじゃったのかね、あの子は」
「何が言いてえんだよ、さっさと言え」

 時刻は夜の9時を回っている。寮内には眠っているものなどいないかもしれないけれど、少なくとも騒ぎ立てると宿直室の警備員からお叱りを受ける羽目になる。そういう面倒事は避けたいという思いから何とか、怒鳴る一歩手前で自分を押さえ込んで、三上は中西に詰め寄った。

「まだ仲直りしてねえんだって?馬鹿?」
「関係ねえだろ」
「ああ、関係ないね、でもうざい」

 カッとなって中西の胸倉を掴もうとした三上を制したのは二人の様子を見ていた渋沢だった。無言で突然目の前に差し込まれた数学用らしい大学ノートに、驚いて少し上体を後ろに下げた三上と中西に、渋沢は遠慮なくそのままノートを顔面へとお見舞いする。ぶ!とか、げ!とかとにかくそういった類の可愛らしくもなんともない声で二人は悲鳴をあげ、三上は掴んでいた中西のTシャツを手放した。

 中西に言われるまでもなく三上自身もこのままの関係ではよくないことくらいわかっていた。喧嘩したきっかけは些細なことで、実際喧嘩だったかどうかさえ曖昧なのだけれど、それでも確実にできてしまった溝に、どうすることもできないでいた。



 初めてはっきりと示された拒絶。



 それが本心ではないと、薄々三上は感づいているけれど、コンタクトが取れないのだから本当にどうしようもないのだった。
 本当ならば無理にでも会いに行けばどうにかなることであるはずなのに、残念ながら二人の関係ではそれができそうにない。

 否、できない。




「お前の嫌いなところは、そうやって他人のために見栄張るところだよ」




 渋沢の行動に、一瞬呆気に取られていた中西だったが、すぐに思い出したようにそう吐き捨てると、静かに部屋を出て行った。
 はあ?と誰もいない扉に向かってそう言う三上に、渋沢は何故か満足気に微笑んで。

「いつも思うが、中西は本当によく人を観察してるよなあ」

 渋沢をぶん殴ってしまいたい衝動に三上は駆られたけれど、何事もなかったかのようにまた机に向かってしまった渋沢に、またしてもタイミングを逃して、握り締めた拳はそのままゆっくりと開かれていった。





 見栄を張るのは、





 他人のためか、自分のためか。





 
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10年06月07日

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