―背負ってきた影には、― ![]() が水野家にやってきたのは、年の暮れの寒い寒い日のことだった。 桐原家の長女の娘であったと、水野竜也はすなわち従兄弟という間柄になる。頻繁とまではいかないまでも、それなりに交流のあった家族同士なので、始め真理子に手を引かれてかってきた彼女を見て、彼はまた遊びにきたのかな、と思った。いらっしゃい、と出迎えると、真理子に「おかえりなさい、よ」と言い直され、驚いたのである。 今日からちゃんも一緒に暮らすのよと真理子はそう笑い、すぐに自分の息子を部屋に戻るよう言った。わけがわからないまま、それでもただならぬ雰囲気を感じ取った齢4歳の少年は、一つ頷くと大人しく自分の部屋に引き下がった。階段を登る途中で振り返ったときに、少女が涙を堪えるように唇を噛み締めていたのが、ひどく印象に残った。 、5歳。 水野竜也、4歳。 もう随分と昔の出来事である。 それから、出て行った桐原の後を追ってが水野家を出て行ったのは、水野の両親が離婚してから3年目のことだった。それまでの7年間を共に過ごした彼らの別れは、決定的な傷をお互いの心に残していくことになる。 全てを共有していた彼らが、その選択を迫られたのは、共有できないものが現れたからだった。 それを受け入れるには、まだ幼すぎて、結局選べる道は一つだった。 「おはよーさん、タツボン」 にやりと人の悪そうな笑顔で佐藤が教室にやってきた。数学の予習をしていた水野は、ちらりと佐藤に視線を向け、あからさまに不機嫌になる。隣の小島がそれを見て笑った。 岩工戦を終えたばかりの桜上水中サッカー部は、朝練がなかったため、二人が顔を合わせるのは本日初ということになる。 ちなみに当然のことながら水野は自主練をしたのだけれど、もちろん佐藤は参加していない。 「小島ちゃん、笑うとこちゃう、今俺傷ついてんねん」 「嘘付け。一体何の用だよ?大体お前が朝のHRに間に合うこと自体が奇跡だな」 「奇跡をも起こす男、それが佐藤成樹」 「用がないなら今すぐ帰れ」 SHRはサボるけど、とさらりと問題発言をして、佐藤は水野の前の席に腰を落ち着かせる。机の横に鞄が提げられていないことから考えて、この席の主はまだ登校していないようだ。 水野は短いため息をついて手にしていたシャープペンシルをかちゃりと筆箱に戻すと仕方なしに佐藤に向き直る。綺麗な金髪を今日は可愛らしく二つに結んでいて、見ているだけで不快な気分になった。 「・・・なんだよ、その頭」 「可愛いやろ?高井がやってくれたんやで」 「高井?あいつ意外なとこで器用よね。言ってくれればあたしがやってあげたのに」 「小島のは痛いから勘弁」 あははと小島は笑って、ちょうど登校してきた友人の元へ行ってしまった。それを最後までなんとなく目で追いながら、水野は「で、なんだよ」と佐藤に話を促した。 「憂菜がタツボンと話がしたいて言うてるんやけど」 「ゆうな・・・って、ああ、田中?なんでまた」 「さあ。で、タツボン憂菜の番号知っとる?」 「どうだったかな・・・多分知らないと思うけど」 田中憂菜――三上亮の幼馴染にあたる彼女は、佐藤と友人関係にあった。実家が北関東にある田中が、佐藤と知り合ったのは2年前の春、佐藤がヒッチハイクというおおよそ小学生の使う手段ではないそれを駆使して全国を津々浦々と旅していたときである。陽気な性格である田中父が、仕事帰りに突然佐藤を連れて帰宅したのである。余談ではあるが、それを見た田中母は愛人との間にできた息子だと勘違いをして、一時田中家は騒然となった。まったくもっていい迷惑である。 それ以降とくに連絡を取り合っていたわけではなかったのだけれど、中学に進学してから都内に出てきた田中と、理由あって東京に越してきていた佐藤が再開を果たしたのは1年前のことだった。 その時に、田中は水野竜也と出会った。 部活帰りらしい二人が小さな公園でアイスを頬張りながらああでもないこうでもないと議論しているところに、たまたま通りかかったのである。シゲ!?と素っ頓狂な声を挙げてしまったのが、彼女の運の尽き、そのまま引きずられて軽く2時間ほど公園でブランコを漕ぎながら井戸端会議に参加することになってしまった。幼馴染の影響で幼い頃からサッカーに精通していた田中と、負け試合だったらしい佐藤と水野の三人でサッカー談義が始まり、残念ながら白熱してしまったために日が沈むまでその談義は続いた。茜色の空がだんだんと消えていき、申し訳程度に設置された公園の四隅の街燈が、儚げな光を灯したところで我に返り、そこで初めて会話はサッカー以外のものへと移っていった。 佐藤と出会った時に、初恋の相手がいると相談していた田中のそんな事情を思い出した彼が、最近はどうなんだとかなんとか、そういう類の話題を振ってきたことが始まりだった。最初こそからかい半分だったものの、段々と少しだけ真剣な恋愛相談になって、田中の相談がある程度終わったところで、ふと気になり彼女は隣で黙って聞いていた水野に声をかけた。 それが、始まりの合図だった。 「今何時?」 「今?8時20分だけど」 「なら、間に合うやろ。ほな行くで」 「はあ?どこに」 「センセーにバレへんところ」 パンパン、と佐藤はズボンの右ポケットを叩いて見せた。 携帯電話が、入っている、そのポケットを。 「えー!てっきり先輩が引き受けてくれるもんだとばかり!」 「何言ってんのよ、だって一言もそんなこと言わなかったじゃない」 「言ったとか言わないとかそういう問題じゃないですよー!そこは信用問題!暗黙の了解!」 「じゃあつまり憂菜は私から信頼されてなかったってことなんじゃない?」 ばっさりと切って捨てられた。 切って捨てられた少女は田中憂菜、切って捨てた少女は。 場所は武蔵森学園中等部女子校舎生徒会室、時刻は8時過ぎ。 5月の生徒総会も無事終わり、どことなく気の抜けた生徒会室で田中が悲鳴を上げたのは。 「先輩が演説やってくれると思ってたから私誰にも頼んでないんですけど!」 「あら残念ね、その日は都大会の決勝だかなんだかで呼び出されてるの」 「え、何学校サボるの!?」 「病欠します」 「病気じゃないですよそれ!!」 6月に控えた、生徒会立候補者による演説会の後援の話だった。 は3年生なので、今回はもう立候補ができない。つまり、言い換えれば立候補者の後援者になることができるのである。同じ会計の後輩にあたる田中は、てっきりが後援を務めてくれるのだと思っていたのだが(というか例年大体そうなる)、あっさりとに「やるなんて言ったっけ?」と言われてしまった。 「いやーさすがのも三上くんのお願いには負けちゃうわけだ?」 「亮じゃないわよ、藤代くんと、それから笠井くんにお願いされたら、そりゃあ行くしかないでしょう」 「・・・前から思ってたけどって三上くんの扱いひどいよね。まさかとは思うけど、まだ仲直りしてないの?」 「何の話かしら」 三上の話を持ち出されたは、さらりとそれを受け流した。 ほとんどの生徒に公認されているカップルではあるものの、なんとなく突っ込んだことは聞けなくて、と三上の交際は謎に包まれている。それでもここ最近彼女が尋常ではなく不機嫌であったことから、女子部では些細な諍いではない何かが二人の間に起こっているのだと噂されているけれど、誰一人としてその真相を知る者はいない。 「まあその話はともかく、先輩後援やってくださいよー!困りますー!お願いします!」 生徒会室に訪れかけていた暗い雰囲気を一気に払拭したのは、誰よりもと三上に近いところにいる田中憂菜だった。生徒会長はほっとしたような表情を見せて、やってあげたら、とに言う。 もちろん生徒会の誰も、というよりもこの女子部の誰も――それはも含めて、田中と三上が幼馴染だということを知らない。加えて彼女は桜上水の面々とも面識があるという恐ろしいまでの関係性を持っているのだけれど、田中自身に、それをまわりに知らせるつもりなど毛頭なかった。学園のアイドルとも言える三上を始めとするサッカー部と関わりを持っていて僻まれることがない者など、以外に見たことがない。だから、自分の関係をバラせばどういう目にあうかということくらいわかっていた。 の、あの絶対的なカリスマ性がなければ、成せない業。 「先輩、藤代くんとやらと私どっちが大切なんですか!」 「迷う」 「迷うのかよ!いや、でもよかったじゃん田中、あたしなんて同じ質問したら即、藤代くんでしょ、だからね」 「会長・・・!」 田中と生徒会長が手を取り合って何かを共有したところで、机の上に放置されていた田中の携帯電話がなった。携帯電話の使用は、生徒会役員及び各部長にだけ許されている。ただし相手は同じく生徒会役員、もしくは各部長、または教職員でなければならない。 もちろん、それを守っている者など一人もいないのだけれど。 「憂菜、ほら携帯」 近くにいたが、その可愛らしいストラップの付いた携帯を田中に向かって放り投げる。慌ててそれを両手でキャッチしてから、田中は少しだけ目を見開いて、それからすぐに笑った。 「ちょっと電話してきますー」 「誰よ?」 生徒会長の言葉に田中は、いしやんです、と生徒会顧問の名前を挙げて、生徒会室から出て行った。 この時間に何の用だろうね?と訝しげに首を捻る会長に、は、演説会の話じゃないの、と小さく微笑みながら。 金の稲穂のような髪色をした義弟の友人を思い出していた。 が手に取った田中の携帯のディスプレイには、「佐藤成樹」と記されていた。 ← → +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 田中ちゃんお気に入り。 10年06月05日 |