―溶けていく、ただひたすらに。―











「噂をすれば影、って本当ね」

 ただいまも言わずに乱暴に家の玄関の扉を開けた水野を待ち受けていたのは、伯母の孝子だった。缶ビールを片手にリビングへ続く廊下の壁に背を預けて横目で自分の甥を見遣る。返事もしない彼に、孝子は呆れたように長い息を吐き、それからすぐに「真理ちゃん」と自分の妹――つまりは水野の母を呼んだ。なあに?とボールを持ったまま顔を出した母親と目が合い、なんとなく気まずくなって水野は足早に階段を登る。後ろから声が追いかけてきたけれど、一度も振り向かずに部屋に入り、バタンと扉を閉めた。



 机の上でチカチカと光る携帯電話を見る気にはなれなくて、そのまま身体をベッドへと投げ出すように寝転がる。見慣れた天井をぼんやりと見る。点けた蛍光灯の光がなんだか異常に眩しくて目を閉じた。

 ――お前にとっての友達って何や?

 突然響く、低い声。驚いて飛び起きてももちろんそこには誰もいない。目の前で、金髪がちらついているような気分、最悪。
 佐藤はそれなりに付き合いのある水野の数少ない友人で、というのは、腹を割って話せる相手が彼くらいしかいないのである。それなりに複雑な家庭環境で育った水野の前に、何の前触れもなしに無遠慮に現れたそいつは、自分よりもさらに複雑な過去を負う少年だった。サッカーが上手いとか、それだけではなくて、何となくそういう面に近しいものを感じていたから、ガードの固い水野が心を許すのに、いつもより時間がかからなかったのだろう。一度、亀裂の入った関係である以上、今は全てを預けられるほどの信頼関係とは言えないけれど、それでもやはり水野にとって佐藤はそれなりに大きな存在だった。
 久々に言い合いをした彼は、いつも通り水野が必死になって立っている地盤にあっさりとひびを入れた。言い返したくても、結局自分が頑固で頑なだと十分に自覚している水野にはその術がない。一通り父親とのことで説教(文句?)を言われた後、気まずくなって部屋の隅にうずくまっていたら、ふいに佐藤が言った。



 ――ちゃんも、かわいそうやろ、今のままじゃ。



 

 現在の本当の名は、桐原

 かつて、従姉妹であり、義姉であった、そういう人。



 水野が何も頑なに父親に反抗しているのは、気に喰わないからなんていう幼稚な理由だけではなくて(といっても八割はそこが原因なのだけれど)、自分と、それからを巻き添えにして引き裂いておいて、今更また繋げようとするそういうところに腹を立てたからだった。
 もちろん両親の離婚は仕方のないことだったと思っているし、が水野家に残らずに桐原に付いていった理由もなんとなくはわかっている。
 自分はまだどうしようもなく子どもで、一人で喚いたところでどうにもならないことも十分わかったつもりだったけれど、こうして実際に事が起こると、それを思い知らされる。



 寝返りを打って壁側を向いたところで、階下から母親の声が聞えてきた。

「たっちゃーん、ちょっと降りてらっしゃい」

 聞えないフリを決め込んで目を瞑る。身体を小さく丸めて全部を遮断。
 けれど。

「おい聞こえてんだろがクソガキ」

 という本当に信じられないような低い声で、伯母の孝子がそれこそ蹴破るように扉を開けたので、無理矢理一階へと引きずられる羽目になった。

 前を行く孝子の背中を見て、なんとなく嫌な予感がする。真理子が呼んで、それから孝子が来た時点で、つまり家族ぐるみの話題ということで。
 あいつの話なら聞かない、と自分の父親を思い浮かべながら、水野はまた子ども染みたことを考えた。

 リビングに入ると、ダイニングテーブルに真理子の姿があった。祖母も百合子も見当たらない。二人とも外出中なのだろう。
 真理子の対角線上に孝子が座るのを視界の端で捉えてから、水野はゆっくりと自分の母親の前に座った。真理子の表情は、いつも通りで、特に何かあったというわけではなさそうだ。

「さっき、風祭くんが来たけど、会えた?」
「風祭?」

 予想外すぎる登場人物に、水野はきょとんとした表情でそう呟き、それから会っていないことを伝える。真理子は口元に少しだけ笑みを浮かべて、そう、とそれだけ。

「何だって?」
「さあ。話があるんですって言ってたけど」

 そう言われて今日の試合後に、風祭に殴られた頬がぴりりと痛むような感覚がして、水野は少し眉を顰めた。真理子も孝子も、それ以上は詮索をしてこなかったので、水野も特に説明はしなかった。中学生男子同士の喧嘩なんて、話しても面白くもなんともない。

「で?それが本題じゃないだろ?」

 水野は無意識に机を右手の爪でこつこつと弾きながら視線を逸らした。それでも視界には真理子が入り込んでいて、だから彼女が目配せをするように孝子を見たのを見逃さなかった。

「何だよ」
「あんたさあ、」

 水野の言葉を受けて返事をしたのは真理子ではなく孝子だった。ほとんど孝子には背を向ける形だったため、仕方なしにぎしりと椅子を軋ませながら自分の伯母を振り返る。孝子は毛先をくるくると器用に人差し指に撒きつけていた。遺伝で色素の薄い髪が、蛍光灯の光で鈍く光る。



ちゃんには会ったの?」



 ズシン、と何かが上に乗ってきたようなそんな感覚がして、水野は一瞬息を詰まらせた。重い。
 風祭の次は、まさかのの話題で、水野が身構えていた父親は欠片も関係はなさそうだった。

「・・・・ちょっと前に、会ったけど。だから何?」
「だから何、じゃないわよ。ちゃんと話したの?」
「何を?」
「すっ呆けんのもいい加減にしたら」

 二言三言会話をして、水野は孝子の機嫌がいつにも増して悪いことに気づいた。怒っているわけではなく、機嫌が悪い。
 よく意味がわからず、水野は助けを求めるように真理子へと視線を移すと悲しそうな笑顔だった。もともと若く見られる上に、細いので所謂「守ってあげたい」タイプだけれど、なるほどこういう顔されればな、と自分の母親なのに水野はそんなことを思う。ちなみに彼も非常に母親に似ているので間違いなく同じような雰囲気をかもし出すことがあるのだけれど、本人にその自覚はない。ただし彼の場合は男児なので残念ながらマイナスイメージになりかねない。とにかくそんな母親にじっと見つめられて居心地が悪くなった水野は、再び機嫌の悪い孝子に向き直った。

「っていうか、、ここにも来たのか」
「当たり前でしょ。あんたに会うならまず家でしょうが」
「で?何か言ってた?」
「知らないわよ、何か言われたのはあんたでしょ」

 孝子とは仲がよかった。

 というかは、水野家の女性陣皆と仲が良かったのだけれど。
 孝ちゃんにも相談なんてできないよ、とほとんど泣きそうな顔でそう言ったの声が、いつまでも頭の片隅でぐるぐると回っている。



「竜也」



 ふいに、名前を真理子に呼ばれ、慌てて水野は顔をあげた。目の前に座る母親は、やっぱりまだどこか悲しそうだった。それでも儚い印象とはほど遠くて、その目はしっかりとした意思を湛えている。
 そもそも、彼女が息子を改まって、竜也、と呼ぶことは滅多にない。





「・・・・ごめんね、私たちのせいで」





 ガツン、と鈍器で頭を殴られたかのような衝撃だった。

 何を、だなんてわざわざ聞くまでもなくわかりきっていた。
 確かに、疑いようもなく、水野とが離れたのは真理子たちの離婚が原因ではあるけれど、それを恨んだことなどなかったし、ましてやそれを彼女たちのせいだと思ったことさえもなかった。離婚問題が浮上したときも、水野が母親に付いていくことを決めたときも、離婚が成立したときも、しばらくしてからが桐原に付いていくことを決めたときも、一度もそんな風に謝ったことのなかった真理子が、今、目の前で謝罪したことに水野は衝撃を受けていた。側で孝子も息を呑んだ。

「な、んで今更、そんなこと」
「うん。ちゃんと、まったく会ってなかったでしょう。母さんたちに遠慮してたんじゃないの?」
「・・・・別に。大体もしそうだとしたら、今だって会わないだろ」
「今は、お父さんと部活の関係で会うことも増えたからじゃないの?」
「そんなんじゃない。そもそもが勝手に出てきたんだし」
「どうして?」
「・・・・知らない」

 父親の話になりそうだと判断した途端、水野の脳は溶けてしまったように思考が鈍くなり、すぐに会話を中断した。



 の話でさえも。



 出来ることならしたくない。



 そんな水野の思いを感じ取ったのかなんなのか、孝子は立ち上がるとそのまま自室へと行ってしまった。真理子も夕飯の支度があるからとキッチンへと向かう。
 残された彼はなんとなく動く気にはなれなくて、そのまましばらく広いリビングでぼんやりと窓の外を眺めていた。



 ――約束、しよう、竜也。



 ベッドに腰掛けて俯いていた水野の頬に両手をかけて、顔を近づけて消え入りそうな声で、けれどしっかりと、彼女は。





 ――鍵をかけて、しまっておこう。そうしたらいつかきっと、忘れられるから。





 
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唐紅強化月間。頑張ります。

10年06月01日


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