―踏み出すことが重要なのだとはわかっていた。―











 何をした、と言われると、正直何もしていないとしか言いようがなかった。唆したと言えばそうかもしれないけれど、三上が言わなくたって、きっとぶつかる問題だったに違いない。

 三上はごろりと自室のベッドに横になった。
 側にある勉強机では同室の渋沢が何やら勉強らしきものをしているのが見える。思い返してみれば数学の単元テストがあると言っていたような気もした。



と喧嘩をしたのは初めてだった。



 喧嘩なのかどうかさえも微妙なところだが、少なくともも三上も怒っていることだけは確実で、だからきっとこれは喧嘩なのだと三上は思っているのだけれど渋沢あたりは違うと言うかもしれない。



 武蔵森の10番は、三上にとって特別なものだった。



 誰にとっても同じことかもしれないが、でもやっぱり「10番」はそうそう諦められるものじゃない。
 例えば水野が武蔵森に来て10番を彼に奪われたとしても、三上の実力なら他のポジションが与えられたかもしれないが、そういう問題じゃないのだ。



 10番に意味がある。



 少なくとも、今の三上にとっては。



「三上」

 三上がごろごろと何度も寝返りを打ちながらぼんやりと考え事をしていると、渋沢の声が響いた。
 返事はせずに動きを止めると、ため息が聞こえてくる。ため息をつきたいのはこっちだよ!と思った三上だったが、口で叶う相手ではないことを知っているので、再び沈黙という手段に出る。

「なんでに相談しなかったんだ」

 何を、なんて聞くまでもなく明確で。
 渋沢に顔を向けていなくて正解だったな、と三上は笑った。多分、渋沢は大きな勘違いをしている。

があんなに怒ったのは、まぁ、水野のこともあると思うが、お前が何も言わなかったからじゃないのか?」

 そんなわけねぇだろ、と思いつつも、それを言葉にすることはしなかった。どうせ三上がそう言ったところで、また渋沢からは反論が出てくるだけだ。












 三上とが初めてお互いを認識したのは、まだ入学して間もない6月のことだった。三上が先輩から頼まれて、近くのコンビニへ出かけようと松葉寮を出て行くと、じ、とこちらをほとんど睨むように見ている少女が立っていたのだった。



 それが、だった。



「何か、用?」三上がぶっきらぼうに聞くと、は視線だけ少し三上に向けて、またすぐに戻してしまった。無視かよ、と半ばいらいらした気持ちで三上が隣を通り過ぎようとすると、「サッカー好きなの?」と、抑揚の無い冷めた声で少女は呟いた。びくりと肩を反応させてしまったことに何故か妙に恥ずかしさを覚えながら三上はゆっくりと振り返る。



 その美しさに、呆然とした。



 顔、というよりも、姿、が。聡明という単語がこれほどまでに当てはまる人間を今までに見たことがなかった。漆黒の髪と瞳が異常なほど際立って、その存在を確立させている。
 三上が声も出せずにを凝視していると、彼女がゆっくりと振り返った。「人の話聞いてた?」、その声で現実に戻される。「え・・・あぁ、まぁ好きだけど」三上が言葉を少し詰まらせながら応えると、はみるみるうちに顔を歪めた、「そう、私はサッカーなんて、大嫌い」。



 いきなり人の生きがいを全否定されて、三上は機嫌を損ねていたが、それでも彼女のことは忘れられなかった。多分、ほとんど一目ぼれと言ってもいいかもしれない。武蔵森は残念ながら完全に男女別学となっているため、三上がその少女について知ることはできなかったのだけれど。



 転機が訪れたのは、三上が二年になって迎えた6月のことだった。三上が初めてと出会ってから、実に1年が経っていた。
 1つ年下の従兄弟が武蔵森に入学して、生徒会に立候補したことがきっかけだった。「すっごく綺麗な先輩がいてさ、その先輩に憧れて会計に立候補したんだ、倍率やばかったんだよ?」、晴れて生徒会会計に選ばれた三上の従兄弟こと田中憂菜の話をテキトーに流していた三上は、話が進むにつれて、その先輩が、あの時見た少女だということに気が付いた。「憂菜、そいつに会わせろ」、たぶん田中は心底驚いた顔をしていた。



 田中に紹介されて会ったは、あの時からは想像できないような優しい笑顔で三上を出迎えた、「初めまして」、当たり前のようにそう言ってのけたのである。










「三上、聞いてるのか?」

 渋沢の声が再び部屋に響く。そろそろ返事をしなかればきっと彼の機嫌を損ねることになるだろうと判断した三上は仕方なしに向き直ると、ベッドの上に座りなおす。ぎしりと古くなったベッドが音を立てた。

「・・・・・お前さ、前から思ってたけど、何か勘違いしてんじゃねぇの」
「勘違い?何に関してだ」

 自分の意見に責任と自信を持っているに違いない男は、心底心外だと言わんばかりの声でそう言った。面倒くせぇな、三上の呟きは幸いにも彼には届かなかったらしい。

「俺とは、お前らが思ってるほどお互い信頼してねぇから」
「お前らって誰だ」
「今話してんのはそこじゃねぇよ!」
「藤代か?それとも笠井?あ、中西とか?」
「・・・・・・・・聞けよ人の話」
「それこそお互い様だろ?」

 相変わらず性格が悪いと思いつつ、ベッドから足を下ろして立ち上がる。

 三上はあまりとのことを人に話すようなことはしなかった。他人の話ならともかく、自分のそういう話をするのはあまり好きではないからだ。だから仕方ないと言えばそのとおりなのだけれど、噂だけが肥大して、何故か武蔵森ベストカップルとやらにまでなる始末。相手が相手なだけにそれもまた三上にはどうすることもできなかった。
 を選んだ時点で注目されるのは承知していたはずだ。

 扉を開けて部屋を出る前に、「近藤なら今談話室にいるぞ」との有難い言葉を頂戴した。キャプテンは何でもお見通しらしい。



 三上だって、何度もに言おうとは思ったのだ。



 それでも、どうしても躊躇ってしまった。





 その結果があれだった。





 
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09年03月28日


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