―崩壊。― ![]() 笠井は夜の闇に紛れて松葉寮の門の傍らに居た。 渋沢にを迎えに行くようにと命を受けたからだった。 少し早い蝉の泣き声と、どこから聞こえてくるのか蛙の声が重なっている。これを情緒的に表現した昔の歌人はすごいな、ぼんやりとそんなことを思う。 明日の小テストに備え小さな明かりで夜遅くまで勉強していた笠井は、何かガタリと言う物音に気が付いた。放っておけば良いとは思いつつも、数ヵ月前に泥棒に入られたこともあって、そろりと様子を見に部屋から抜け出した。公衆電話の辺りで何やら早口で電話をしていたのは渋沢で、側には三上が仏頂面で立っている。渋沢にしては珍しく少し乱暴に受話器を置くと、何やら三上に伝えたようだった。焦ったような三上の顔になんだか只ならぬ空気を感じて笠井は姿を現した。「どうかしたんですか?」、聞いても二人は答えなかった。問い詰める気はなかったし、後輩である自分が出しゃばっても迷惑になるだけかもしれないと笠井が部屋に戻ろうとしたところで渋沢に呼び止められた、「門までを迎えに行ってくれないか?」、意味がわからず、笠井はぴくりと眉を寄せたが、詮索するのも面倒だったために、仕方なく素直に門へと向かい、現在に至るというわけである。 天を仰ぐように上を見る。 降るような星空、を期待したわけではなかったけれど、思った以上に星の数が少なくてなんとなく裏切られたような気分になる。 ゆらりと遠くで影が動いたような気がして目を細めてみると、それはだった。 彼女はどうやら笠井が立っていることに気付いていないようだった。何かに追い詰められたみたいに顔には焦燥感がにじみ出ている。 は美しい人だった。 三上じゃなくたって彼女の虜になっている人は多いはずだ。 毅然とした態度が似合うは確かにどこか近寄りがたい印象がすることは否めないけれど、そういう姿に憧れるのだ。 は「別にそんなことないんだけどね」と困ったように言うけれど、本質はともかく、彼女が他人に与える印象は間違いなくそうなのだ。自身も無意識にせよ、その理想を壊さないようにしているに違いない。 三上亮と、おそろしく似合っている。 少なくとも笠井はそう思っていた。 まるで理想のカップルのようだったし、男女交際にうるさい先生たちも何故か認めている。 一見渋沢ともお似合いのように見える彼女だが、それでも三上の方がしっくりくるのだった。 無意識に完璧であろうとする少女と、完璧を嫌いながら完璧を追い求める少年と。 「笠井くん?何してるの」 光の弱まり始めている街頭の下で、が驚いたように目を見開いている。笠井は体重を預けていた花壇から離れると手を挙げた。 「こんばんは、ちょっと渋沢先輩から先輩を連れてくるように頼まれましてね」 今ならたぶん忍び込めますよ、笠井は言った。「亮、いるのよね?」、笠井の目も見ずにはスタスタと歩いていく。なんとなく聞くことは憚られて結局詳細を知らない自分とは違って、は何か知っているにちがいない、そう考えて笠井はため息をついた。 真実なんていらない。 昔誰かがそんなことを言っていたのを思い出す。「理想っていうのはあくまで理想であって、別に何もその理想を壊してまで本当のことを知る必要はない」、と誇らしげにそんなことを言っていた。そしてたぶん、たちはそういう部類だった。 求められたところにいて欲しい。 そういう人。 だからこそ、彼らにはそのままで居て欲しい。 薄暗い廊下を非常口を示す緑の明かりだけが照らしている。笠井とはなるべく物音を立てないようにゆっくりと歩いていた。受付近くにある公衆電話の側だけが白いランプに照らされていて、異空間のように見えた。その側の窓際でぼそぼそと何か低い声で話す渋沢と三上の姿が目で捉えられる距離になると、二人はどちらから言うまでもなく足早になる。振り向いた三上がひどく驚いた顔をしていた。 「笠井、お前なにここまで連れてきてんだよ」 「迎えに行けって言われて帰す人がいるわけないじゃないですか」 舌打ちをして目を逸らした三上に、渋沢が苦笑した。ちらりと笠井は横目でを盗み見るが何を考えているのかいまいちわからなかった。 ぴりぴりとした空気が漂っている。 三上とはもともと皆の前でにこにこしたりすることはない二人だけれど、こういう空気は決して無かったはずだった。少しだけ距離のある二人の、それでいて決して他人には踏み込ませない独特の雰囲気だった。 「亮」 ぴぃん、と貼った糸をはじくように、声が響く 「あんた、なんで黙ってたの」 何を、だなんてそんなこと聞く方が野暮だ。笠井はここに居てはまずいのではないだろうかと思ったが、渋沢が何も言わずにそこに居るので笠井もそのまま居ることにした。 三上は何も答えない。 「・・・・お前も、俺に黙ってたことあるだろ」 気づいたら、「じゃぁ俺失礼します」と言って笠井はその場を去ろうとしていた。今さっきそのままここに居ようと決めたのにも関わらず、とにかく去らなければと思っていた。聞いてはいけない、という思いよりも、ここから先を聞いたらたぶん理想が壊れてしまう、と思ったからだった。関わりたくもなかったし、巻き込まれたくもなかった。渋沢も三上もももちろん笠井を引き止めることはしなくて、笠井はどこか寂しいようなけれど安堵したような気持ちで、薄暗い廊下へ向かっていく。 も三上も、多分もう渋沢さえも世界に入れてないのだろう。否、いてもいなくてもどちらでも構わなかったのかもしれない。 だから次にが言葉を発したとき、笠井がその声を聞き取れる距離にいたかどうかも、きっとどちらでも良いことだったのだ。 「は、特にあなたに大きな隠し事していたつもりはないわ」 「じゃぁ誰が隠し事していたって言うんだよ」 「桐原」 さすがの笠井も足を止めた。さぁっ、と周りの温度が急激に下がっていくような感覚。 「だけど、だから何?私は、そのことを今まで武蔵森の誰にも話したことはないし、桐原さんが言わない限り言うつもりもなかった。義弟に、影響が出るかもしれないことはしないって、心に誓ったの」 ぐらぐらと、頭の中で大きな何かがバランスを崩したように揺れ出した。部屋に戻る、それだけ唱えてみるものの、上手く足が動かない。 「亮、竜也に何言ったの」 恐ろしく冷たい声が響いた。 ← → +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 09年02月15日 |