忘れたかった。










薇が愛した花嫁











目を覚ましたアレンの視界に飛び込んできたのは、燃えるようなオレンジと、一切の音を絶った水面のように深い黒だった。
ぱちくり、何度か瞬きを繰り返し、ぎちぎちと変な音を立てそうなほど固まってしまった筋肉を無理矢理稼動させて体を起こし、さらに首をその強烈で鮮明な色の方へ向けて初めて、その片方が人間であることに気がついた。

「・・・りな、り?」

ずっと出していなかった声はかすれて上手く音を成さない。アレンは、コホ、と一度咳をして、それからもう一度「リナリー」と呼んだ。
リナリーはゆっくりとアレンを振り返り、にこりと笑った。「まだ寝てた方がいいんじゃない?」真っ白なマグカップに入った白湯をアレンへと手渡す。

「・・・・リナリー」

アレンはもう一度彼女の名前を呼んだ。



「それ、なんですか?」



アレンは、リナリーの横にあるオレンジを指差しながら首を傾げる。
リナリーは微笑んだまま、何も言わなかった。

リナリーの横にあるものは、鮮やかなオレンジをした、綺麗な花だった。

残念ながらアレンはその花を見たことがなかったので、それが一体どんな花なのか、皆目見当がつかなかった。
薄暗く冷たい部屋の中にある、唯一の暖色に、アレンは思わず手を伸ばす。しかしそれはやんわりとリナリーに拒絶されてしまった。どうしたの?アレンが聞くと、リナリーは、虫がいたの、とあっさり答えた。

「これを見て、何を思い出す?」

リナリーが、大きな目でアレンを覗き込む。一瞬アレンはたじろいで、それから慌ててティムキャンピーを探した。記録されてはたまらない。

「えと、えと・・・あ、みかん?」

オレンジって言ったらみかんですよね!自信満々に顔を輝かせて言うアレンに、リナリーは呆然としたように動きを停止させ、アレンが彼女の前で手を左右に五回ほど動かした後で、今度は弾かれたように笑い出した。
甲高い笑い声が、部屋に響く。

「え、・・・えぇええ?リナリー?」
「あははっふふっ!ご、ごめんね何でもないの、ふふふ!」
「・・・・・・何でもないわけないですよねその笑い方」
「違うの、アレンくんのこと笑ってるわけじゃないのよ。あまりにも自分が愚かだったから、つい」

アレンは、はぁ、とその言葉を紡ぐだけで精一杯だった。

「ところでアレンくん、ここがどこだかわかってないでしょう?」
「・・・・そういえば」
「神田の部屋よ」
「お世話になりました」

コンマ1秒の間すら空けない答えだった。

「アレンくん、寝ぼけてやって来ちゃったんでしょ?神田今任務中でよかったね」

神田の部屋に行ったらアレンくんがいるんだものびっくりしたわ、リナリーは肩を竦めてそう言った。
言われてみればアレンの記憶はなんだか曖昧で、これより前に起きていた時はいつなのかすら、思い出せなかった。と外に出かけて、それからどうしたんだっけ、思い出そうとしても思い出せなかった。

それからリナリーは手短に、次の任務があることをアレンに伝えた。今回の任務はリナリーと一緒らしいことを、アレンはそこで知った。立ち上がって神田の部屋を出たところで、リナリーはアレンに、先に室長室へ行くように言う。やることがあるの、リナリーが笑顔で言えば、もちろんアレンにはそれ以上聞くことなどできるはずもなく。

「・・・・・じゃぁ、待ってます」
「うん、迷子にならないようにね」










「すっげー、アレン・ウォーカーほんとに俺に気づかなかった」










閉められたはずの扉の向こう側から、ラビのそんな声が聞こえてきた。
閑散とした廊下なのだ、とこすれば、この廊下の向こうに消えていったアレンにその声が届いてしまうかもしれないというのに、ラビは話を止める気配を見せない。

「相当あの花に目がいってたんだな。俺の頭も結構目立つのに」

その後も続くラビの独り言に、リナリーは少しだけ眉を顰め、先ほど閉めたばかりの扉を開けた。
真っ暗な部屋に映える髪。
その後ろには、さらに輝く、オレンジの花。





「これ、が持ってきたんだろ?」





ラビが花瓶から花を1つ取ってリナリーの目の前に突き出した。リナリーは、不愉快そうにじとりとラビを睨み返す。突き刺さるような視線にもちろんラビは怯んだりなどしない。少しだけ眉を上げてくるりと向きを変えると、部屋の奥へと進んでいく。

「なんでそう言わなかったん?きっと今頃あいつはこれ活けたのはユウだとか勘違いして仏頂面してるに違いないさ」

くくく、と可笑しそうにラビは笑い、リナリーは笑わなかった。

「言ったろ?」

ラビは、伏せていた視線を、リナリーへと戻す。わずかな月光が反射して、ラビの目に、小さな光が灯った。それがまるで怒りの炎のように揺らいで見えたので、リナリーは不覚にも、一瞬体を強張らせてしまった。

沈黙が降りる。ラビにとってそれは瞬きするほど短い時間で、リナリーにとってそれは生きている時間に等しいほど長かった。










「アレン・ウォーカーは誰かに固執しないって」










リナリーは無表情で、ラビを見上げた。

「そうだね。だからにアレンくんが取られちゃうなんて発想は、間違いだったんだね」
「それだけじゃないさ」

あいつは、お前を選んだりもしないよ。ラビははっきりとそう告げる。リナリーは何も言い返さなかった。それでももちろんラビにはリナリーの言わんとしていることが、しかと判っていた。

ラビに、何がわかるっていうの。

実際のところ、ラビには話したこともないアレンのことなんて、わかるはずもないし、ましてやリナリーやとだって2年足らずしか付き合いがないわけだから、そんなに彼らのことを理解しているわけではない。



だけど、彼は、ブックマン後継者なのだ。



それだけで、彼を語るには、十分だ。



「アレン・ウォーカーとリナリーは似てるよ。そっくりだ。2人とも、大切なもののために闘ってる。命を何よりも大切にしてる。誰かが死ねば悲しむし、誰かが生き延びれば歓喜に涙する。けどな、決定的な違いがあるんさ」

ぽつぽつとラビが語るのを、リナリーは黙って聞いていた。それが当たっているとも外れているとも思えないので、他に手段がなかったのだ。

どこがで鳥が鳴いた。





「アレン・ウォーカーは、自分のことしか、考えてない」





そんな答えが返ってくるとは思っていなかったらしいリナリーはさすがに反論しようと身を乗り出した。「そんなことない!あんなに優しいもの!」、リナリーは、何故か泣きそうだった。「そんなこと、あるだろ。一番リナリーがよくわかってる。昔のリナリーにそっくりだから」空を切ったラビの言葉は、リナリーの中にすとんと落ちて、ずしりと圧し掛かった。

「そんでもっては、」

続いた言葉にリナリーはがばりと顔を上げる。だけどそんな行為に意味はない。





「昔の偽善に満ちたリナリーの、本音、さね」





しばらく2人は何も言わなかった。どこかで相変わらず鳴く鳥の声と、たまに聞こえる教団員の笑い声以外には、呼吸音しか響かない。張り詰めたような空気なのに、リナリーは何故かそれが心地よかった。なんだかもう全てがどうでもよくなってきて、沈黙を先に破ったのは、彼女だった。

「ブックマンって、厄介な生き物だね」
「それ、失礼じゃね?」
「褒めてるのに」

そこでやっと、リナリーは笑った。

「ま、とにかく全部忘れて、任務に行って来いよ。どうせとアレン・ウォーカーも離れるんだし、この際奪ってきちゃえば?」
「うば・・・!何言ってんの!もうっ」

あぁでも急がなくちゃ、兄さんとアレンくん待たせてるんだった!リナリーはラビへの挨拶もそこそこにバタバタと足早に出て行ってしまう。
今度こそ1人取り残されたラビは、部屋の隅で揺れる蓮の花を見つめながら、ラビはぽつりと何かを呟いた。

聞いていたのは、消えそうにもろい、蓮の花と、部屋いっぱいにその存在を主張させながら咲き誇る、キンレンカ。










キンレンカ――花言葉は、期待。










小さな少女は、彼に何を期待しているのだろうか。



 
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オリジナルに走りすぎてすみません。

08年03月08日


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