必ず、戻って参ります。










めふるよるのものがたり
  菊の花に誓う 中











椎名の看病の甲斐あって、少女は段々と回復していった。周囲の人間から何を言われようともどこ吹く風、椎名は毎日佐藤家に通っている。「姫さん、その子、連れ帰ればいいんとちゃう?」、飽きもせずに少女の側から離れない椎名に佐藤は呆れながら言ったのだが、もちろん効果はなかった。

「僕の家は生憎書物で埋まってるんでね。どうせお前の家はいつだって空き部屋があるんだから、別に構いやしないだろ?」

言われて佐藤は椎名家を思い出してみると、なるほど、確かに4つほどある部屋は基本的に本だらけだったような気がしてきた。同居人である黒川の寝室でさえ壁中にぴったりと本棚が並んでいるのである。一体それだけの書物をどこから集めてきたのかは知らないが、椎名の勉学に対する熱意――というかいっそ執着は尋常ではないことくらい、佐藤のよく知っている。だから当たり前のように述べられた先ほどの言葉もなんだか頷けてくるのだから不思議だ。










今日もまた、椎名は佐藤家を訪れていた。
始めは意識さえ朦朧としていて、とてもじゃないが会話などできる状態ではなかった少女だが、2〜3日ほど前から起き上がって会話をすることができるくらいに回復したのだ。まだまだ本調子と呼ぶには程遠いものの、間違いなく快方に向かっている。
ありがとうございます、と少女は何度目になるかわからない言葉を述べて頭を下げた。

「本当にご厄介になりました。私のような素性も知れぬ流れ者をこのように気に掛けてくださり、感謝してもし尽くせぬ思いでいっぱいでございます。例えこのままこの身が果てようとも、必ずやその御心に恩返しいたしましょう」

椎名から粥を受け取りながら、少女はその透き通るような声で、はっきりと述べる。椎名は1つため息をつくと、視線を自分の手の中の手ぬぐいへと向けた。

「あのさ、死ぬとかそういうこと言うの、やめてくれる?大体もしこれが疫病だっていうなら一定の日数過ぎちゃえばもう問題ないわけだし。言ったよね?看病してやるから安心して寝てろって。好きで勝手に看病してんだから、あんたは気にせずさっさと病気を治せばいいの。治るまで、僕は毎日ここに通うよ」

それとも迷惑だって言うわけ、椎名の言葉に少女は困ったように笑った。迷惑なのはこの場合どちらかといえば佐藤の方なのだが、椎名の性格をよく心得ている彼が、椎名が一度決めたことに反対などするわけもなく、かくして椎名と少女のこの奇妙な生活はしばらく続くこととなる。
結局そのまま佐藤家で生活すること十日余り経ったある日、少女は、自分の身の上話を始めた。

「私の名前はと申します」

お世話になりました椎名さん、と礼儀正しく前を見据える彼女に、椎名は満足そうに頷いた。元気になったね、そう言えばと名乗ったその少女はいつかと同じように小さく笑う。

「私はもともと出雲松江の郷で育ってきた者でございます。父がその辺りでは割と有名な軍学者であったので、少しばかりではありますが私も兄や弟と並んでその教育を受けてまいりました。それゆえに城主と面会することもしばしば、そうこうして交流を深めているうちに、私は隣国への密使に抜擢されました」
「密使?女が?」

怪訝そうに椎名が目を細めたのを見て、は一瞬間を空けた。佐藤家は基本的にあまり使用人たちもそして本人も昼に行動することはない。太陽がまだ頭上にて輝いているこの時刻、屋敷の中はしんと静まり返っていた。無言の時間が流れても、他の物音は聞こえてこない。そのため、が口をつぐんでいた時間はそんなに長くは続かなかった。再びゆっくりと口を開く。





「――兄や弟と違って私ならば、万が一密使であることが見抜かれ命を落とすことになっても、それほど困りはしませんから」





諦め、というよりもそれは彼女の中にある覚悟のようだった。透る声も見据える眼光も、きっとそれがあってのことなのだろう。椎名は面白くなさそうに一言何か言ったが、ほとんど形を成さずに消滅した。

「とにかく、私は密使として、隣国に居りました。そうして過ごしているうちに前城主とその隣国とが手を結び、我が城が攻められてしまったのです。当然私は監禁される身となりました。しかし母国の危機とあってはじっとしているわけには参りません。なんとか監獄から抜け出して、故郷へ帰ろうとしていたまさにそのとき、こうして貴方の手をわずらわせるような病に倒れたのです。本当に感謝しています、このご恩、一生かけて報いていきます」

そしては、床に額が付きかねないほど、深く深く頭を下げた。
椎名は苛立っていた。
少女の示すその感謝を煩わしく思っているとか、そういうことではない。自分と同じように勉学の才に恵まれ、きっともっと学問に励むこともできたであろう少女が、密使になり、その才を使わずにいたことが何故かとても腹立たしかったのだ。国の役に立て、などと言うつもりはない、椎名自身も好き勝手やって暮らしているだけだからだ。それでも好きなだけ学問に励むことのできる環境が、どれだけ幸せなことか、わかっていた。だからこそ、この少女にも、そうして好きなだけ学問を学んで欲しかったと思った。もちろん、の知識量が椎名に劣ることはないだろう。一国の参謀に近いことをやってのけていた人間が、無学であるはずがないからだ。
そしてきっとこの苛立ちは、椎名自身にも向けられていた。

「あんたさ、」

呻くように言う。

「もしも仮に自分の家の近くで人が倒れてたとしたら、その人のこと放っておくわけ?おかないだろ?僕がやったのは、そういうこと。目の前に苦しんでる人がいて、助けないほど冷徹な人間じゃないんでね。だから、一生かけて、とか重すぎ」
「しかし・・・お世話になったことは事実ですから」
「・・・お礼がしたいっていうなら、これから帰るまでの少しの間、僕とたくさん話をしてよ。勝手な想像だけど、相当勉強してるだろ、あんた」

まずは漢学からどう?と椎名は言う。が話し始めてから笑顔を見せなかった彼が、言いながら、やっと笑った。も安堵したように笑い、漢学から始めたら終わりませんよ、と呟いた。










さらに数日が経過した。
の病は全快したと言っても過言ではないほど、身体の状態は通常に戻りかけていた。
あれから毎日、椎名は自分の家から色々な書物を持って佐藤家を訪れた。ああでもないこうでもないと毎日飽きもせず議論する。椎名と互角に議論などできる者は村はおろか数里先の町にだっていない。とても、有意義な毎日だった。
は椎名が思った通り、相当勉強したようだった。椎名の知らないことを、数多知っている。自分の師以来のそういう存在に、椎名はとても喜んでいた。同居人、黒川が思わず顔をしかめるほどの執着具合なのである。この日、椎名は国学についてでも議論しようと、数冊の書物を持っての元を訪ねていた。しかし、部屋へ一歩踏み入れた瞬間、今日のは何かが違うと感じ取った。背筋を伸ばして椅子に座っていた彼女は椎名が来るとにこりともせずに頭を下げたのだ。ゆっくりと扉を閉めると、椎名は向かいの椅子に腰を降ろした。

「本当にお世話になりました」

は言う。

「椎名さんとの弁論は、とても面白く、興味深いものでした。できればこのままずっと過ごしていたいと思ったほどです。しかし、もちろん、そういうわけには参りません。この間述べたように私は出雲に帰らねばならないのです。ですから、すぐにでも、ここを発とうと思います。ご恩を忘れたわけではございません、必ずやここに戻ってきて、ご恩を返したく存じます」

さすがにここで止めるような野暮な真似は、椎名はしなかった。しばらく黙って何かを思案するような仕草を見せ、それからゆっくり顔を上げる。





「マサキ!」





窓に向かって叫んだ。
なんだよ、という不機嫌な声がすぐに下から聞こえてくる。どうやら椎名は黒川を連れてきていたようだ。上がって来い、と椎名が告げると、めんどくさそうに何かを言ったが、すぐに家の門が開いて、閉じる音がした。

「まさき・・さん、とは?」
「僕の同居人。ま、色々迷惑かけてるからさ。主に友人と呼べるやつが佐藤しかいないこととか含め?だから、あんたのこと紹介しておこうと思っただけだよ」
「その方も、ご友人なのですね」
「まぁ、そういうことになるんだろうね」

ほどなくして黒川が顔を出した。はじめまして、と黒川に頭を下げたがあまりにも普通の少女であることに驚いたようだ、少し目を見開く。こんな少女に椎名が執着していたのかと呆れる一方、なんだか椎名らしくて笑えてしまう。何笑ってんだよ、不機嫌そうな椎名の声。「別になんでもねぇよ」背中を思い切りはたかれた。

がもう帰るっていうから、一応マサキにも紹介」
「え、何帰るのか?ふぅん、まぁでもまた来るんだろ?こいつせっかく頭良いのに世間に出て行くことしねぇし、見捨てずにまた見てやって」
「マサキ!」
「いえいえ私の方こそお世話になりました。椎名さんは勉強熱心な方のようで、驚かされてばかりです」

は立ち上がってゆっくりと椎名と黒川に頭を下げた。
今日は珍しく佐藤が昼に活動をしているらしく、階下からはガタゴトと物音がする。窓から見上げた空は、快晴だった。ここ数日どんよりとした曇り空が続いていたから、晴れたこの隙に、旅立ちたいのだろう。よく見ればの横には、荷物がきちんと整頓されていた。

「いつ、帰ってくんの?」
「月日が経つのは早いですから、はっきりとお約束することはできませんが、この秋は過ぎぬつもりでございます」

そう、と椎名は手を差し出しながらいった。重なるの手が、初めてあった時よりも幾分か温かい気がして、彼は嬉しそうに微笑んだ。










「ねぇ。菊の花に極上の酒を添えて、待っているよ」










 
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元ネタ『雨月物語―菊花の約―』
前後編の予定だったのに・・・・。

08年08月17日 夜桜ココ

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