このご恩、忘れません。










めふるよるのものがたり
  菊の花に誓う 前











ガタン!

上からの物音に、一階の客間で新聞を読んでいた黒川は、またかと顔をしかめ、座布団にへばりついたかのように重い腰をあげた。
歩くたびに軋む廊下をゆっくりと東北の方角に進みつつ、今週に入って何度目かわからないため息をつく。典型的な日本家屋であるこの家は、いつも歩くたびに一瞬びくりとするような軋みをあげる。初めてこの家へ足を踏み入れたものは大抵皆驚いて忍び足のような足取りになってしまうのだけれど、もうとっくに慣れてしまった黒川は特に気にするわけでもなく平然と廊下をつき進む。突き当たりを向かって右手にある階段を登るとさらに大きく軋んだ音がなる。さっさと階段を登り終えると黒川は堅く閉じられた扉の前に立った。軽くノックを数回してからがちゃりとドアノブを回して明かりの点いていない暗がりのなかへと歩を進める。
ごちゃごちゃした部屋の隅に、本に埋もれた部屋の主人を発見した。一目見ただけでも彼の機嫌がお世辞にも良いとは言えないことがわかる。



「翼」



黒川がそう呼び掛けると、機嫌の悪い椎名翼がその可愛い顔をめいっぱい歪めながら黒川を見上げた。

「また本読みながら寝てたのか?」
「うるさいよ。気になることがあったんだから仕方ないだろ?村の奴らみたいに世の中があまりに馬鹿ばっかだからイライラしてたんだ」
「世界が翼並に頭の良い奴らが揃ってたらえらいことになると思うけどな」

椎名翼はこの辺りでは割と有名な知識人である。

幼いころからの漢学の英才教育を始め、剣道茶道英文学独文学、ありとあらゆる分野でその名を轟かしている。しかし残念ながら彼はその才能を生かした暮らしをすることもなく、村の隅で驚くほど質素な暮らしをしている。曰く、「僕は本さえあれば満足なんでね」だそうだ。家具さえもが煩わしいというのだから、きっとその考えは筋金入りだ。三つある二階の部屋は全て書物で埋まっており、椎名がそこへ引きこもると大抵三日は出てこない。とにかく没頭してしまうから誰かの要求に答えて研究するなんて、彼にはできないのだろう。



では、果たして一体どのようにして資金を得ているのかというと。



もちろん椎名自身は特に食べるために学問を学んでいるわけではないので、彼のだれもが目を見張る豊富な知識が生かされているはずもなく。
彼のはとこにあたる村一番の美女が村の中でもかなりの富裕層に部類されるある家へ嫁ぎ、そこの主人がたいそう椎名のことを気に入っているので金を出そうと名乗り出たこともあったが椎名はそれを見事に一蹴したらしい。

肝心の資金源は、実は椎名の友人で椎名宅に住み着いている黒川なのであった。「金なら俺が出してもいいけど、ただし出所は聞かない方向で」「ふぅん、OK何も聞かない。僕に火の粉が飛んでこない範囲で頼むよ」そんなわけで交渉は成立した。はとこに頼るのは、やはり気が引けたのだろうか?そこのところはよくわからない。そんなこんなで始まった奇妙な共同生活が彼此三年が経とうとしている。
傍から見れば黒川が椎名を支えているように見えるけれど、実際のところはよくわからない。そんな単純な関係ではないだろう。

「じゃぁそんなイライラしている翼に面白い話を一つ」
「なに?言っておくけど今の僕は最悪に機嫌が悪いから相当興味深い話じゃないかぎりいらないよ」
「ひでぇなぁ。せっかく佐藤が帰ってきたって噂を仕入れてきたのに」

佐藤、という名を聞いて、椎名はかすかに眉をひそめた。

佐藤成樹とは同じ村に住む、得体の知れない男のことである。どこでやってきたのか、髪の色は綺麗な金色だ。彼は椎名と同じくらいの齢で、椎名の家から歩いて十分という距離にある、西洋風の小さな家に住んでいる。この時代に洋館――しかも大豪邸というわけではない普通の大きさの家――は珍しいので彼の元に来る客は絶えないというが、その客とやらも怪しいものだと専らの噂だ。
椎名も佐藤も村に上手く馴染むことの出来なかった子供時代を過ごしていたために、必然、彼らの関係は親密になったのだ。言うなれば、腐れ縁、というやつだろうか。少なくとも友人なとどいう可愛らしい関係ではないことは確かだ。

「いつ?」
「さあ?俺も詳しく聞いたわけじゃないしな。この間町へ出たときに関所の息子に聞いた。なんだっけ、えーと、多紀?」
「マサキって名前覚えるの苦手だよね・・・それは呉服屋の息子だって何回言えば覚えるわけ?関所んトコにいるのは藤代。藤代誠二」

そう言いながら椎名は既に立ち上がっていた。佐藤の家に行くつもりらしい。










「姫さんやないの。おっひさー」

椎名が裏口へ回って二階の窓へ石をこつんと投げ付けると、寝呆け眼の佐藤成樹が、流れるような金髪をぐしゃぐしゃと掻き乱しながら顔を出した。呼び鈴をならせば佐藤が雇った使用人が丁寧に門を通してくれるのだけれど何故か佐藤は椎名がそうすることを嫌う。だから椎名は大抵彼の部屋へ直接ノック――大分間違ったノック方法であるが佐藤の部屋が二階なのだから仕方ない――をしなければならなかった。佐藤が部屋にいなければ諦めて呼び鈴を鳴らすより他はない。不可抗力だ。

「それはこっちの台詞。お前、全国をふらふらと回ってきたんだろ?いつ帰ってきたんだよ?」

まぁつもる話は中でな、佐藤はいつも通りへらりと笑うと、中へ入るよう促して部屋へと引っ込んだ。椎名は持っていた裏口の鍵で大きな錠前を外すと、ぎぃ、と金属の扉を開ける時特有の音をさせながら重い鉄製のそれを開ける。椎名が扉を閉めて鍵を掛けなおしたころに、ちょうど佐藤が洋館の小さな裏口から再び姿を現した。椎名は無言で彼の後に付いていく。二階の部屋へ行き着く前に、使用人の一人とすれ違った。びくりと怯えたような反応を示して二人に頭を下げるとそそくさと消えてしまう。

「・・・あいつ、あんなビクビクしたような奴だったっけ?」
「ん?あぁ、まぁそのうちわかるよって」

佐藤は自分の部屋の扉を開けた。既に何度も中へお邪魔したことのある椎名だが、自分の家とのあまりの違いにいつまでたっても慣れることはない。既に軽く椎名の私物化している黒い椅子に腰掛けると、お茶を煎れに向かう佐藤の背へと声をかける。

「そもそもあんた、なんで旅なんか出たわけ?」
「んー、この村に引き籠もんのも好きなんやけど、少しくらい外の世界知っておかなあかんなぁ、ゆう風に考えてもうたから」

思い立ったが吉日、佐藤が好きな言葉だ。
馬鹿?椎名は呆れたようにそう言ったが、表情はどこか楽しそうだった。出された日本茶と和菓子を囲んで話が弾む。椎名自身はあまり外出は好きではなかったが、こうして佐藤の話を聞くのはそんなに嫌いではなかった。彼は椎名と違ってよくふらりと旅に出る。それは小さな頃から変わらない。今回の旅は相当大規模なものだったらしく、今までの中で一番長い旅だった。ざっと一年くらいかかったはずだ。
そんなこんなで話し込むこと三刻。
帰ろうとした椎名の耳に、うめき声のような小さな声が届いた。不思議に思って耳を澄ませば、どうやらその声は隣から聞こえてきているらしい。

「佐藤、隣、誰かいんの?」
「西の方より来なさった娘はんが一人な。七日ほど前に俺が帰ってきたら家の前で倒れててん、俺は放っておけゆうたんやけど、使用人の一人が可哀相やからって入れてもうた」

なるほど、だから先程彼は怯えていたようだ。佐藤に小言でも言われたのだろう。
話によるとその娘とやらはずっと高熱を出し続けており、下がる見込みがないという。一応村の医者を呼んで診察をしてもらったものの、残念ながら病名もわからず、何かの感染病だとまずいからとひとまず隔離したのだそうだ。移ると嫌だから、と佐藤は使用人にも近付けないよう言ったらしい。

「・・・あんたね・・・病人なんだろ?その娘。看病してやらなきゃ可哀相だろ。鍵、貸せ」
「移って死によっても知らんよー?ええんか、それでも」
「人の命は天に定められてるんだ。僕が死んだら、つまり僕の命はここまでだったってことだろ」

しばらく二人は睨み合っていたが結局折れたのは佐藤だった。赤い紐に通してある鍵を椎名に投げる。それを空中で受け取ると、椎名は佐藤にひらりと手をあげ、部屋を出ると隣の部屋へと向かった。

がちゃ、と鍵を開けて部屋へ入るとベッドの上に一人の少女が横たわっていた。額の上に乗せられた手ぬぐいや、横に置かれた洗面器の様子から、誰かがたまに面倒を見ていたことが伺える。素直じゃないな、と椎名は苦笑した。しかしそれでも佐藤本人が世話をしていたとは思えないから、きっと使用人の一人がやっていたのだろう。



少女はひどくやつれていた。



肌は浅黒く変色し、呼吸は大きく乱れている。椎名が近寄っていくとうっすらと目を開け、「湯を・・・湯を、一杯くださいませんか」、とそれはそれは小さな声で言った。透き通るような声に椎名は一瞬驚いて見せたが、屈んでにこりと笑ってみせる。





「ゆっくりお休み。僕が看病しておくからさ」





椎名が白湯を飲ませると、少女は愛しそうに目を細めた。



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元ネタ『雨月物語―菊花の約―』

08年08月17日 夜桜ココ

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