いざその時が来てみれば、どうしていいかわからなかった。騒がない私を見て不審に思ったのか、隣の席の男子が様子を覗うようにちらちらと視線を寄越してくる。「お前、もしかして、」と静かに言う彼には答えずに、私は黙って教室を出た。ドアを閉める直前、まあ順位の一つや二つ落ちたって、と慰めの言葉が追いかけてきたような気もしたけれど、聞こえなかったフリをして、しっかりと閉扉した。 どこへ行こう。 向かう先について、考えていなかった。 結局、足は行き慣れた場所へと向かっていた。 「今回は負けるかなーとは思ってた」 図書室には先客がいた。まだ担当の図書委員も到着していない。だからそこにいたのは、椎名くん一人だった。からからと控えめな音を立てて扉を開けた私を一目見るなり、彼はそう言った。私はなんだか何を言えば良いのかわからなくて、少し間を空けてしまう。 「・・・・私は、別に今回も勝てると思ってなかったよ」 「ふうん」 中学三年、二学期期末テスト。内申点数は、ここまでで決まる。学年末は既に願書を提出後なので、受験には関係ない。だから三年生は、ここにかけている。それは私も同じだった。ただ、受験も近いことがあって、いつもよりテスト勉強らしい勉強はしていない。受験勉強の傍ら、教科書に沿った勉強も進める。どうしてもそうした勉強法になってしまうから、絶対的な自信などなかった。その代わりいつもよりも総勉強時間は当然長くなるし、テスト内容も受験に似通ってくる。そういう意味ではいつもよりやりやすくもあった。手ごたえは無かったわけではない。むしろよく出来ていたと思う。 結果、一位だった。 初めての、総合一位だった。 「テスト、どうだった?」 「え?」 おもむろに椎名くんがそう言った。どうだったも何も、結果が全て出ている。私は応えあぐねた。 「どう、って、ご存知かと思いますが・・・・」 「さんとしては、手ごたえあったの?」 「いやまあ・・・・よくわからなかったというか・・・・」 尻すぼみになる私の言葉に、椎名くんは呆れたようだ。図書室の長机で頬杖をついたまま、ふうん、と、もう一度言った。どうすれば良いのかわからずに、扉付近で立ち尽くしている私に、椎名くんは自分の目の前の席を指さした。座れ、ということらしい。私はのろのろと近づくと、冷たいパイプ椅子に腰かけた。12月ともなれば暖房を入れていても底冷えする。昼休みから座る人がいなかったであろうその椅子は、思わず身震いをしたくなるほどに冷え切っていた。 「優先順位が変わったら、勝てないだろうなーと思ってたよ。最初からね」 優先順位?椎名くんの言葉を繰り返して疑問符をつける。椎名くんは私の顔を見て、それからにこりと微笑んだ。 「そ。部活引退して、受験勉強一本になったら、さんに抜かれるなーってね」 「・・・・それは椎名くんも一緒でしょう?部活引退したじゃん」 「部活はね。でも僕はサッカーが一番だから、今だって優先順位は明確だよ」 そういえば椎名くんは東京都選抜に選ばれたと聞いた。何でも東京都から才能ある子が集められて一つのチームとして活動するのだとか。さすがは椎名くん、と思った反面、それも彼にとっては当然のことなのだろう、とあまり気に留めてもいなかった。 「・・・・椎名くんは、今回どうだったの?」 「ん?まあいつも通り、出来なかった教科はなかったし、実際合計はいつもと同じくらいだよ」 椎名くんは二位だったらしい。側に置いてあったファイルから取り出して見せてくれたテスト順位は、いつも私が見慣れていた数字だった。男の子にしては華奢な指で、その数字をなぞっていく。そしてそのまますうっと流れていったのは、五教科合計点数。確かに、いつもの椎名くんの点数だった。 つまり椎名くんの言った通り、私が上がったのだった。 じわじわと喜びが込み上げてくる。受験を前に、こうして明確にわかる結果が出た。それは自信と結びつく喜びだった。 「おめでとう」 「ありがとうございます。・・・・あー!やった!」 思わず無邪気に声に出す。椎名くんはそれを何故か嬉しそうに見ている。 「前から思ってたんだけど」 急に椎名くんが改まった。 一人勝手に盛り上がっていたけれど、私も条件反射で居住まいを正してしまった。椎名くんの目は、どことなく真剣だった。 「さんはさ、もっと自信持っていいんじゃない」 「・・・・それは、勉強について?」 「うん。ひけらかしたりするのはそりゃ駄目だけど。ある意味、特技なわけじゃん?しかも、ちゃんと頑張ってるわけだろ。今回だって、出来なかったわけじゃないなら、最初からそう言えばいい」 多分、椎名くんが言っているのは、先ほどのやり取りのことだ。煮え切らない返事をした私のことを、言っているのだと思う。口の中が、乾いてべたついている。事実を当てられて、変な緊張感が一気に押し寄せてきたせいだった。 「環境もあるだろうけどさ。麻城は、嫌な奴らもいたっちゃあいたけど、勉強に関してはそれなりに努力してきた人がほとんどだから、変な謙遜とか無くて楽だったよ。優先順位もはっきりしてる人が多いしね」 「・・・・そうなんだ」 「まあ、それ故、僕はあそこじゃダメだったわけだけど」 確かにサッカーを最優先にするような人は、きっと麻城中学にはいない。椎名くんも、勉強は嫌いじゃないと言った。だから麻城を選んだのだろうし、そこでやってみようと思ったのだろう。それでも、最終的に目指すところが決定的に違っていたから、ここに来たのかもしれなかった。そしてサッカーをしている椎名くんについては詳しいことはわからないけれど、少なくともキラキラとした目で楽しそうにしている彼を見れば、きっとここに来たことは間違いではなかったのだと思う。 順番を間違えずに、夢を追う彼は、輝いている。 もったいない、と思ったのは、私が欲しかったからだ。 けれど宣言できるほど、努力をしていなかった。だから私は、捨てた張本人である椎名くんにだけ、思わず言ってしまったのだ。 勉強を優先することは、何となく気が引けていた。あまり良い印象を持たれないと思っていたからだ。けれどそれは、きっと私の伝え方が良くなかったからで、勉強を頑張ることは、何も恥ずかしいことではないはずだった。 「・・・・すごいなあ、椎名くんは」 「麻城にも同じようなこと言う人いたんだけど。さんは、何をすごいって言ってるわけ?」 「えーなんだろう、妥協せずにサッカー頑張れるところ?」 「僕はサッカー。さんは受験勉強。同じだろ」 「えー?それはさすがに違う気がする・・・・」 私が納得がいかずに、不満げに眉を寄せていたら、椎名くんが立ちあがった。 「同じだって。将来、使えるし使わなきゃならないからやってんならなおさらね」 だから、もっと自信持ちなよね。 それだけ言うと、椎名くんは重そうに見えるエナメルバックをひょいと肩に担ぐと、さっさと図書室を出て行った。きっとサッカーをしに行くに違いない。 私はじっと自分の両手を見た。何の取り柄もなく、割と器用貧乏な自分が、あまり好きではなかった。 だけど。 私は、よし!と気合を入れて、長机に勉強道具を並べると、いつものようにテストの復習を始めた。 |