開花宣言から満開まで、息つく暇もなかった。 例年よりも随分と早い。冬は随分と日本列島でのんびりしていたというのに、遅れてやってきたと思った春は随分とせっかちだった。春の到来を噛みしめる間もなく、あっという間に最高気温を20度まで引き上げ、新緑と花の世界に色を変えた。舗装されたアスファルトの隙間から覗くたんぽぽに加え、頭上では桜の花が咲き乱れている。 三年間通い続けた飛葉中とも、今日でお別れだ。部活動だってとっくに引退してしまっているし、今日、卒業式が終わってしまえば、きっとしばらくは足を踏み入れることなどないだろう。 いつもよりも少し遅めに卒業生は登校する。最後くらい一緒に登校しよう、と言ってくれた部活仲間の誘いを丁重にお断りして、私はいつも通り一人で登校していた。待ち合わせて毎日同じ人と同じところへ向かうのは、どうも苦手なのだ。ただでさえ時間に追われているというのに、加えてそこに他人が関わっていると思うと、途端に億劫になる。別に人といることが嫌いなわけじゃない。ただなんとなく、登校する時は一人がよかった。 遅めといっても卒業生の中では早い方だったらしい。三年の教室前の廊下は、静まり返っていた。私のクラスは一番奥にある。手前のクラスから順に教室を覗きこむ。卒業おめでとう、とどのクラスも黒板に大きく書かれていた。数人いる生徒の中に知り合いを見つけては、おはよう、と声をかける。こうして挨拶するのも最後かもしれない人も中にはいるわけで、なんだかそんな実感などまったくなく、不思議な気分だった。 ひょい、とまた教室を覗くと、窓辺に腰かける椎名くんと目が合った。他の知り合いと同じように、おはよう、とだけ挨拶をして通り過ぎようとした私を、「第一志望おめでとう」という言葉で縫いとめたのは、他でもない椎名くんだ。進みかけた足を打ちとめて、体重を後ろへ戻しながら、「椎名くんも、おめでとう」と言う。 「聞いたよさん、付属受かったんだって?すごいじゃん。っつか報告くらいしてくれたって良くない?」 「いや、だって受験終わってから会ってなかったし」 「それもそうか。僕はよく見かけてた気がするのは、さんが学級委員でよく前に出てたからだな」 「あー、まあ、そうだね。三送会とか卒業式予行とか」 最後までお疲れ、と労わりの言葉をくれる椎名くんの横に、何やらたくさんメッセージが書き込まれたサッカーボールを見つけて、思わず視線を落とす。それに気が付いた椎名くんが、軽い動きでそれを蹴り上げ、私の手の中にボールを乗せてくれた。 「後輩から?」 「まあね。色紙でいいって言ったのにさ」 「・・・・普通卒業生は自分からリクエストしないよね・・・・」 「うちの奴ら、言わなきゃ絶対こういうことしないんでね」 誰がいただろうかと思いめぐらせてみるけれど、いつも室内で部活をしていた私に、サッカー部の後輩などわかるはずもなかった。けれど噂によれば元不良軍団が数多く在籍しているというのだから、なるほど、などと思ってしまう。 「でも意外だなー。椎名くん、こういうの欲しいんだ?」 「まあね。ここは、やっぱり思い出の場所だし、原点だし」 「原点?」 「さんが、思わずもったいないと言ってしまうほどの学校を捨ててでも、来たところだから、ねえ」 え、と声をあげてしまった私は悪くないと思う。するすると記憶の紐がほどけていって、椎名くんと初めて対峙したところまで巻戻った。もったいない、と言ったのは、後にも先にもあれ一度きりだったはずだ。 チャリ、とスカートのポケットで音が鳴る。 「覚えてたならそう言ってよ!!」 恥ずかしさで顔が真っ赤になっているに違いなかった。みるみるうちに温度が上昇していくのがわかる。両手で頬を包みこむようにして恥ずかしさを誤魔化しながら、ちらりと視線だけ椎名くんへ向けると、可笑しそうに喉を鳴らしてくつくつと笑いを堪えているのが見えた。 「ごめ、いや、むしろ忘れてたと思ってたことが衝撃」 「忘れてたとは思ってないけど!私だとはわかってないと思ってたよ!」 「あの時は知らなかったけどさ、次見かけた時、すぐわかるよそりゃ」 第一印象は最低だからさあ、椎名くんはとうとう笑いが堪えられなくなったのか、はははっ、と軽快に笑う。 「それは!こっちの!台詞ですけど!」 「あーまあ別にどう思われようが構わないと思ってたしね?なんだこいつうぜえ、くらいには思ってた」 「・・・・ひどい」 椎名くんは、麻城中学を辞めて、飛葉中に転校してきた。それは、麻城中学では叶えられない、手に入れられない夢を追うためだった。詳しくは聞いていないから、それが果たして何だったのか、結局最後までわからずじまいだ。けれど、それで良いと思っている。椎名くんは椎名くんの夢を追っていて、そして私は夢追う椎名くんに、背中を押されてここまできた。それだけで十分だ。 太陽の光を浴びて、きらきらしている椎名くんは、やっぱり綺麗だった。 「あのね、」 ふいにするりと言葉が出た。椎名くんに言うつもりなどなかったのだけれど、こうして卒業式の日に椎名くんを前にして、言っておこうという気持ちになったみたいだ。自分でもどうしてそんな風に心が変化したのか、よくわからない。内に留めておくはずだった感情が、するすると言葉となって昇ってくる。 「・・・・私が付属を受けようと思ったのは、将来やってみたいことが、まだ決まってないからなの」 「へえ?」 「決まってないけど、でも興味あることはいっぱいあって。だからね、いざ選択の時がやってきたら、たくさんある中から迷っちゃうくらい、自分に可能性を残しておきたくて、だから、」 一呼吸置く。 「これからも、もっと勉強頑張ることにしたよ」 一文字一文字をゆっくりと、けれどはっきり伝えると、椎名くんはいつか図書室で見た笑顔で、嬉しそうに「いいんじゃない?」と私に拳を突き出してきた。一瞬躊躇って、私も右手を力いっぱい握りしめると、こつん、と彼の拳に突き当てる。 天下の名門中学、麻城を捨ててきた転校生とは、一体どんな変人だろう、と思った。それか単純にそこについていけなくなった、敗者なのだろうと思っていた。きっと東京の外れの公立校に進んだ私たちのことなんて、見下しているに違いないと思っていた。 だけど、そんなこと全然無かった。 そもそも椎名くんは、そういうことで私たちと勝負するような人ではなかった。彼が追っているものは、もっと先にあった。 だから逆に、椎名くんがそういう姿勢であったからこそ、私は負けたくないと思ったのだ。何でも持っているけれど、サッカーひとつに全力の彼に、サッカー以外で負けるわけにはいかなかった。 まだ、椎名くんとサッカーに、並べるほどのものを、私は見つけていないし持っていない。 いつか来る将来、椎名くんと再会が出来るならその時に、夢追い、そしてきっと叶える椎名くんに、胸を張って会えるように。 地団駄を踏んで足踏みしていた私の背を、押してくれた椎名くんと向き合うために。 私も彼と同じように前を向く。 「それじゃあ椎名くん、またね」 君と君がくれた道標と。 私は、真っ直ぐ前を向いて進んでいく。 椎名翼誕生日企画「0419」に投稿していたもの。 連載というには短いですけれど、うっかり5話。2013年度に投稿しました。 一度翼さんは、勉強についてのお話が書きたかったのです。 麻城じゃやりたいことができなくて、飛葉を選んだ翼さんだけど、きっと勉強もちゃんと大事にしていたと思うのです。 主催の夏乃みなさんの麻城連載が好きだったので、そのスピンオフ的なつもりで書いておりました。 翼さん、誕生日おめでとうございました。 |