10月25日

さよならの準備 8

   


 椎名からは、ちょくちょく物が届く。
 ドライフラワーのような大きなものはあれから届いていないけれど、例えば紅茶やお菓子とか、文房具だとかそういうものだ。
 彼がスペインへ帰る前に貰ったボールペンを走らせながら、彼から送られてきた紅茶に口づける。いい感じに椎名から貰った物が生活に入り込んでいて、何だか悔しい。嫌なら捨てれば?とゆっちゃんは言うけれど、あっても困るものではないし、むしろありがたく頂戴している。
 そもそも、別に椎名のことは嫌いなわけじゃない。むしろ好きな方だ。それが恋愛的な好きではないだけであって、だから捨ててしまおうと思うほど嫌悪しているわけじゃない。
 紅茶を飲み干して、今日の予定が何もないことを思い出した。バイトもなかった。土曜日なので学校もない。時計を見れば、まだ昼にもなっていない時間帯で、どうしようかと考える。天気も良いし散歩するには絶好の日和だ。そうと決まればさっさと出よう、と私は意気込んで立ち上がった。



 陽のよく当たる公園を横切って、そのまま商店街の方へ足を延ばす。休日ということもあって、いつもよりも少し賑わっていた。家族連れが目につく。父親に手を引かれながら覚束ない足取りで歩く少女に手を振りながら、私はある一角で曲がった。細い路地裏を少し行ったところに、昔からここにある喫茶店があった。店主は見た目で既に齢60は超えていそうなのだけれど、まだまだご健在で、その扉を開ける度、いらっしゃい、とやわらかい声がする。
 今日も今日とてその声に迎え入れられて、私は店内へと足を踏み入れる。丁度お昼時なので、店内はほとんど埋まっていた。カウンターでよければ、という店主に構わないと告げて腰かけようとすると、ふいに窓際の二人掛けのテーブルに居る男が目に入った。

「黒川じゃん」

 思わず声にすると、その男―――黒川柾輝は顔をあげて、少しだけ驚いてみせた。

?何してんの」
「何って、お昼食べにきた」
「おや、お知り合いですか。ではご一緒の方がいいですかね」
「えっ、あ、いやー…」

 私と黒川のやり取りを見た店主が、気を利かせて聞いてきた。私が言い淀んでいる間に、黒川の方へ店主がおしぼりと水を持っていく。ここいいですか、店主が何故か黒川にそう尋ねて、彼はひとつ頷いた。あれよという間に私の席は黒川の向かいで確定してしまっている。断るのも何だか気が引けて、結局私は彼の向かいに腰を落ち着けた。

「久しぶり。って言っても八月に会ったからそうでもないか」
「まあ、そうだね。二か月半くらい?」

 一人しかいないウエイトレスが黒川にドライカレーを運んでくる。上に目玉焼きの乗ったそれはとても美味しそうで、サンドウィッチを頼もうと決めてきた私の気持ちも揺らいでいく。配膳し終えた彼女を呼び止めて、同じものを、と注文した。

「パンにしようと思ってたのに黒川がそれ頼んでるから!」
「は?何?」
「いや、ドライカレー美味しいですよねって話」
「そうだな」

 お先に、と黒川がカレーにスプーンを入れた。香ばしい香辛料の香りが鼻をくすぐり、食欲がわいてくる。どうにも鳴りそうになるお腹を押さえながら、とにかく食べ物を視界に入れないようにと、何気ない風を装って視線を窓の外に向けた。
 思えば黒川と二人で話すのなど初めてかもしれなかった。椎名を介して知り合った彼らと、二人になる機会などあまりない。強いて言うならば畑兄とは比較的仲の良い方だけれど、彼は仕事の都合で関西にいるため、二人で会うことなど早々ない。そういうわけで大体複数人で集まることが多いため、騒がしいのが常なのだけれど、こうして二人になってみると妙に落ち着いたこの男の雰囲気は気が休まった。
 今何してるの、とか、休日はどこ行く?とか、当たり障りのないことを二言三言話ながら、自分のドライカレーが出てくるのを待つ。そうして程なくして黒川の前にあるものと同じドライカレーが、私の前に現れた。ウエイトレスに会釈をして、私も食事を開始する。
 食べ終わるまでは無言だった。息のつまるような沈黙ではなくて、それが自然のように感じるところが、この男の魅力だと思う。私より先に食事を終えた黒川は、セットのドリンクを少しずつ飲みながら、私が食べ終わるのを待っていた。帰ってもいいんだよ、と言ってみたけれど、特に用事はないからと彼は帰らなかった。私が最後の一口を食べ終え、ごちそうさまでしたと手を合わせると、タイミングを見計らったウエイトレスが食器を下げに来る。

「お待たせしました」
「いや別に、勝手に待ってただけだし。もう少しゆっくりすれば?」

 水を一気に煽るようにして飲み、立ち上がろうとすると黒川が言った。「用事無いって言ったろ」と続けられた言葉を聞いて、それに甘えることにする。私はもう一度椅子に深く座りなおした。

「翼と連絡取ってんの?」
「・・・・はあ、まあ、そうですねそれなりに」

 会話は自然と椎名の話になった。黒川と共通の話題などそれくらいしかないのだから当然だ。あまり触れられたくない話題であるだけに、どうも私の返事は煮え切らない。自分でもわかっているけれど、どうしようもなかった。



「・・・・も、てっきり翼のことが好きなのかと思ってたけど」



 前触れなどなかった。突然彼はそう言った。いや、彼の中では流れがあったのかもしれないけれど、私としては予想だにしていなかったのだ。飲み込もうとした水が器官に入って思い切りむせる。可愛くない声で何度も咳をして、もう一度流し込むように水を飲む。落ち着いてから黒川を見れば、ただじっと表情を変えずに私を見ていた。

「・・・・」
「・・・・」
「・・・・え、なんで?」

 結局沈黙に耐えられなかったのは私だった。何を考えているのかいまいちわからない、ポーカーフェイスを保ったままの彼に質問を投げる。表情がよくわからないのは、薄暗い店内の照明のせいだけではないはずだ。この男は表情から感情を読み取ることが難しい。

「なんで、って言われてもね。やっぱ仲良いし、話聞いてればそうかなと」
「話、って、何」
「どこどこに出かけたとか、そういう。デートだと思うじゃん」
「思いませんよ・・・・」
「やっぱお前少し人と感覚ずれてるぜ」

 そんなことは黒川に言われるまでもなく、ここ数か月で嫌と言う程思い知った。
 自分が考えていることを、同じように相手も考えているわけではない、という当たり前のことを、この年になって痛感する羽目になろうとは。
 椎名の態度は変わらない。彼は私を好きだという。どうにも諦めてはくれなさそうだ。彼が遠い異国の地にいるのを良いことに、私は問題の解決を先延ばしにしている。直接相対することが無い今は、答えをはっきりと出さずとも、さして支障はないのだ。ただ私の心が落ち着かなく、そして疲弊していくだけで。だからあまり考えないようにしているというのに、思わぬところから掘り返された。

「でもさ、嫌いじゃないんだろ」
「それは、まあ・・・・」
「じゃあさ、付き合ってみればいいじゃん」

 それはとても、本当にとても気軽に言われたのだった。わからない。世の中の人たちは皆こうなのだろうか。異性と付き合うということは、私にとってそれなりに一大事なのだけれど、どうやら世間一般ではそういうわけではないらしい。黒川があまりにも自然にそう言うものだから、私は言葉を詰まらせた。反論の言葉が見つからない。

「アンタさ、一体何をそんなに躊躇ってんの」

 やはり、私は言葉を返せなかった。





 この日は店内が混み合っていたこともあって、それで解散となったのだけれど、実は黒川がその日の午前中に椎名から電話で『ちょっとを唆して欲しいんだけど』などと言われていたことを私が知ったのは、もう少し先のことだった。




 




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