9月15日

さよならの準備 7

   


 恋って何だ?という途方もない難題にぶつかった私は、大体毎日苛々していた。

 バイト先でもサークル活動中でもふと気を緩めると、この問題がまるで解答を急かすかのように降ってくるのだった。それもこれも、街中に所謂恋人同士という男女のペアが多すぎることがいけない。どこを見ても手を組んだ仲睦まじい二人組、さらにはその究極系である夫婦を見かけるのだから、私自身への問いかけは休まる暇などない。ついに追い詰められたらしい私は、バイトの休憩中に同僚に思わず聞いてみるほどだった。「問い、恋とはなんぞや」「解答、まずのだめなところは、そうやって恋を理屈で考えるところだよ。理屈じゃない、感じろ」この時点で私たちに相互理解などできるはずもなかった。私は尋ねたことを早くも後悔し、結局休憩時間を無駄に悶々と悩んで過ごす羽目になった。休憩どころかおかげさまで、どっと疲れてしまう。

 アパートに帰っても疲労感のせいで夕飯を作る気にもなれなかった。父親が送ってくれた引き出物らしい冷凍うどんを解答して食べる。食べることは人生の最大の楽しみであったはずなのに、どうもこの間から味がしない。この冷凍うどんは美味しいと評判のもので、私も楽しみにしていたというのに!行儀悪くずるずるといつもよりもわざと音を立ててうどんを啜っていく。つる、とうどんが箸からこぼれ落ちて、つゆの上でぱちゃんとはねた。「あっつ!」頬に、まだ熱を持つめんつゆが飛ぶ。思わず上体を仰け反らせた。ふと、視界の隅で揺れる黄色。
 見事なドライフラワー。

 そもそも!と私の苛々は突然はっきりとした怒りに変わる。
 そもそも椎名は私とどうなりたいのだろうか?よくよく考えて見れば、告白されたわけでもない。それは私が言わせないようにしているからとも言えるのだけれど、事実だけ見ればそうなのだ。何か言われたわけではない。
 そもそも椎名は私と付き合いたいのだろうか?
 そもそも椎名は私のことが本当に好きなのだろうか?
 そもそも。
 考え出すとキリがない。止める術を失ったかのように次から次へと疑問が湧く。
 相手の思考について、どんなに考えを巡らせたところで答えが出ないことは、この間思い知ったばかりだ。
 私はうどんがまだ食べかけであることも忘れて、まっすぐ電話へ手を伸ばした。



『それで電話してきたわけ?』

 わざわざお金かけてまで?と電話の向こうで椎名が可笑しそうに笑う。彼にとっては笑いごとなのかもしれないけれど、私にとっては死活問題なのだった。このままでは私の生活から安寧と幸福が消えかねない。喜怒哀楽の怒だけの人生なんてまっぴらごめんだった。

「単刀直入にまず肝心なことを聞こうと思う。椎名は私のことが好きなの?」
『好きだよ』
「それは恋愛的な意味で?」
『そうだね、が僕に持つ好意とは違う好きだね』
「なんで?」
『・・・・そう来るか』

 今の関係を壊してしまうに違いないと怯えて言わせなかった言葉は、こんな風にしてあっさりと私の元へ届けられた。ずしん、と内側に響く。聞いてしまった、という思いと、すっきりした、という二つの思いが混じり合って、私の心は絡まり合って随分と重たくなってしまった。心に色があるならば、今の私の心の色は、どんよりとした今日の曇り空のように灰色に違いなかった。

『じゃあ逆に聞くけど、はどういうことを恋愛的な意味での好きだと捉えてるのさ』
「それがわからないから聞いてるんじゃん」
『わからないってアンタ小学生か?』

 耳をくすぐる声は、完全に呆れ返っている。

「仕方ないじゃん。私の好きは、基本的に同じ土俵にあるものなの。ゆっちゃんだって鈴木だってりさちゃんだってこーすけだって椎名だって畑兄だってオケラだってアメンボだって?」
『おい最後の二つ』
「とにかく!そういうわけだから、椎名の気持ちには答えられないと思ってるし、そもそも理解できてない」
『でもそれってつまりさ、僕とは恋愛できないから、とか僕のことが嫌いだから断るってわけじゃないってことだろ』

 椎名の声は、不思議な力強さがあって、そして優しかった。マシンガントークという異名を持つほどの話術の持ち主なのだ、きっと辛抱強く私に合わせてくれているのだろう。もうしてそこまで私に入れこんでくれるのかがわからない。椎名ほどの頭と容姿があれば引く手数多だろうに、と思わず考えてしまう。いくら考えてみても結局わかるはずもないのだけれど。目の前に彼がいるわけではないのだから、声だけしか頼りはないのだ。表情から彼の心情を読み取ることができない。そのことをこんなにももどかしく思うとは思わなかった。だから電話はあまり好きじゃない。大事な話をする時は特に。
 何となくドライフラワーの近くに寄る。彼から貰った花に近寄れば少しはわかるんじゃないかと、そんな夢のようなことを思ったからだ。もちろんそんなことでわかるはずもなく、黄色いその花は、相変わらず風を浴びて楽しそうに揺れるだけだった。

『だからさ、、』

 受話器から流れる声にただ耳を傾ける。



『僕と、恋してよ』



 少しずつでいいから、そう続けられた言葉は、心なしか寂しそうだった。
 そんな声にさせてしまったことには、心が痛むけれど、それでもやはり、私には椎名と恋愛する気など起きてこない。何か大事なものを、どこかに落としてきたのではないかと本気で思う。そうに違いなかった。そうでなければ、何故私だけが皆と同じように誰かに恋をするという当たり前のことができないのだろうか。



 私だって、出来ることなら当たり前のように、恋がしたい。





 




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