昨日椎名からメールが来た。 どうせ、という題名だけでメールを開く気は失せた。けれど無視できるほど私は冷徹にも成りきれない。仕方なくクリックする。『暇だろ。見送りに来るよね?』という本文。それ以外は特に記されていない。私が今椎名に対して後ろめたい気持ちを持っていることを、たぶん彼はわかっている。わかっていて、こういう送り方をしてくるのだ。 今日は椎名がスペインへ帰る日だった。いつもより遅めの日程だ。色々あって、今シーズン前半は、試合にあまり出ないのだと彼は言った。だから、どうせならばと日本の滞在期間を伸ばしてもらったらしい。いつもより長いと言っても、ほんの数週間程度だ。残暑がまだまだ厳しく、随分と暑い日になりそうだ。 夏の暑さと相まって、幾分か憂鬱な気持ちになりながら空港へ着いた私を出迎えたのは、普段と寸分も変わらない椎名で、暗い私の表情を見るなり、あろうことか「ふはっ!」と吹き出した。もう一度言う。落ち込んでいるとも言える私を見つけるなり、彼は吹き出したのだ。一体誰のせいでこうなっていると思ってる!?と怒りを抑えきれない私に、彼はなおも可笑しそうに笑いを堪えながら、ごめんごめんと口先だけで謝罪する。ちっとも反省の色など見えやしなかった。わざわざこんな千葉の成田まで見送りに来たというのに、ひどい歓迎の仕方だ。 「いやー、何でそんな顔する必要あんのかなと思ったら可笑しくて」 「・・・・っ、あのねえッ、」 「悪いって。僕があんなこと言ったから、混乱してるんだろ」 「・・・・わかっているのなら流していただきたいんですけど」 恨みがましく、じとりとした視線を送ると、椎名は諦めたのか、はいはいと投げ遣りな返事を寄越した。言い返してやりたいことも、問い詰めたいこともたくさんあるけれど、今日の最大の目的は、スペインへ帰る椎名を見送ること。「・・・・時間はいいの」私はふてぶてしく聞いた。どうやら搭乗手続きは済ませてあるらしい。買い忘れた物があるからちょっと待ってて、と空港内の喫茶店を指さす。千円札を渡され、僕はアイスコーヒー、と言い残すと、椎名は土産物の並ぶ売店へ向かっていった。 椎名が戻ってくるまでに、10分もかからなかった。早かったね、と私が言い終えるより早く、ずい、と拳を差し出された。そこには細長いものが握られていて、それを受け取れということらしい。私が両手を差し出すと、ぽとん、と彼の手に握られていたそれが落ちてきた。 「なに?」 「開ければ」 それは包装されていた。淡い黄緑の包装紙が綺麗で、破かないように慎重にセロファンテープを剥がしていく。中には透明な箱に入った、ボールペンが入っていた。 「え、これ、」 「が欲しがってたやつ。とりあえず、内定おめでとうってことで」 「えー!わー、やった!ありがとう!え、でも、これ高くない?」 「そこは学生と違って僕も一応稼いでる身なんでね」 口角をあげて、彼はふふんと笑う。それでもなお尻込みする私に、「いらないなら僕が使うけど」と私の手からそれを奪おうとしてみせた。要ります!と慌てて引込める。 先程までの陰鬱とした気分なんてどこへやら、私の機嫌はあっと言う間に浮上した。そのボールペンは随分と前から欲しがっていた海外のもので、日本では手に入りにくい代物だ。 「これどこで手に入れたの?」 「どこだっけ、フランスかな?遠征した時に見かけたから」 「・・・・ありがたいし嬉しいので大切に使わせていただきますけど、何故このタイミング?」 「ん?まあ就職祝いってことで、少しは良い物でもいいかなってね」 「いや、そうじゃなくて、」 訂正しようとする私を遮るように、椎名は少し大きめの声で「それに、」と言う。その目は勝負を仕掛ける時の目に似ていた。画面越しでよく見る目。当然、私は怯んでしまい、思わず椅子を退いた。しまった、と思った時にはもう遅い。避けていた話題を差し出されることくらい、簡単にわかる。 「このタイミングなら、意味もわかってくれるだろ」 だから帰国後すぐには渡さなかったんだよ。そう言う椎名はいつの間にか真顔だった。 ダメだ、先月に一度「ああいう」ことがあってから、椎名はこうして時折それを引き出してくる。その度に私の頭の中では警鐘が鳴り響いて、そこから先に進ませてはいけないと警告してくるのだ。今がまさにその状況で、私は思わず目を逸らした。そういうつもりなら受け取れない、と返そうとすると、椎名が苦笑した。少しばかり張りつめていた空気も、同時に弛緩する。息をつく。 「まあ、少しが思い知ってくれればいいな、っていう程度で、本当に一応就職祝いのつもりで買ってきたから、他意はないものとして受け取っといて」 「なら言わなきゃいいじゃん・・・・」 椎名が明確な意思を持って放ってくる矢を、避けられるはずもなかった。ひらりと躱そうにも上手くできない。居心地が悪くなり、自然と俯きがちになる。椎名の呆れたような溜息が聞こえる。あのね、聞き分けの悪い子供を諭すような声だ。 「そうやって、言わせないのが一番卑怯だって、わかってる?」 ぐっ、と文字通り言葉が詰まった。わかっている、それくらい自分が一番よくわかっているつもりだ。最低なことをしているとはわかっている。それでも、これ以外の選択肢を選べるほど、私はまだ大人になりきれていなかった。この間から、どんなに考えても答えの出なかった問いが、ぐるぐると回る。 なぜ、恋愛をしたがるのか。友達のままでは、いられないのか。 「がそういう態度なら、僕だって多少反撃に出たくなるに決まってるだろ」 何も返せずに、手元の紙カップを見つめる私の代わりに、椎名がさらに言葉を紡ぐ。聡い椎名のことだ、きっと私の考えていることなど、お見通しなのだろう。今更、と私はここ二か月で何度も頭をよぎった単語を、何とか吐き出す。そう、今更なのだ。今まで一度だってそんなことを言って来なかったのに、どうしてここに来て私に伝える気になったのか。ああ、そう言えば、と畑兄と飲んだ時の椎名の声が再生される。「前から言ってるじゃん」、そうだ、確かに前々から所謂「愛の言葉」を頂戴していたことは確かだ。けれど、本気ではないと思っていた。声の調子やその時の雰囲気、会話の流れ…とても本気だとは思えなかった。 嘘だ。 本気だと、思わないようにしていた。 作り物の声のように、聞きなれた声のアナウンスが鳴り響く。デパートや駅ビルのインフォメーションの女性と同じ声だ。それに椎名が反応した。乗る飛行機の出発時間が、いつの間にか近づいていたらしい。 「ねえ、僕ばっかりだなんて悔しいから、それを使う度、僕のこと思い出して、困ればいい」 何も知らなければ見惚れるであろうくらい、整った笑顔で彼は言った。 「・・・・さいあく」、そう呟くのが、精一杯だった。 |