代表戦があるというので、椎名は一時帰国をしていた。あまりサッカーに詳しくない私は、それが何の試合なのかはよくわかっていない。自分の所属するクラブチームの試合日程上、少し早めに帰国できたという椎名から、夕飯の誘いを受け、私は定時に会社を出た。まだまだ入社して一か月にも満たない新人の私は、仕事を任されているわけでもないため、定時に切り上げてもあまり罪悪感はない。それを椎名に言うと「そもそも日本の残業した方が偉いっていう考え方が間違ってるよね。時間内に終わらないわけだろ、それって無能ってことじゃん」と返ってきた。無能は言い過ぎだと思うが、確かに一理ある。と、いうよりもぜひとも日本の企業の管理者の皆様にはこの考えを身に付けて欲しいものだ。 ともかく定時に会社を出た私は、最寄の地下鉄から電車を乗り継いで、早々にアパートへ帰宅する。大学時代に住んでいたアパートが、会社までもそれなりに近く、継続してそこに住んでいる。帰国した椎名と会いやすいというのも理由の一つではあるけれど。 着なれないスーツを脱いでジーパンとパーカートレーナーに着替えると、私は小さなバッグへ必要最低限のものを詰め込んで家を出た。化粧は軽く直すだけ。仕事の時は朝にきちんとメイクをするけれど、夕方にはどういうわけか結構崩れてしまっている。薄れているアイラインは指でぼかして、ファンデーションを叩き直すだけだ。唇は相変わらず荒れやすいので、薬用リップに頼っている。 そういう出で立ちで馴染の洋食屋に顔を出すと、既に奥のテーブルに椎名がいた。カラン、と軽やかな音を立てて鳴ったドアベルで顔をあげ、すぐに私に気付いて片手をあげて合図をくれる。いらっしゃい奥にいるわよー、と元気な奥さんの声に後押しされ、私は椎名の元へと向かった。 「ごめんお待たせ」 「全然待ってないから大丈夫。飲む?」 「うーん、そうだねビール頂こうかな」 大学生の頃から変わらず一杯目はビールである。可愛くない新入社員だな!と先輩にからかわれたけれど、そういう人たちはわかっていない。カクテルの方がアルコール度数が高く、それを軽く飲み干していく同僚の女の子たちの方がよっぽど可愛げがない。お酒が強い同期が多く、飲み会の度につぶされないように立ち回るのに必死だ。 「相変わらず弱いわけね」 私があまりお酒に強くないことを知っている椎名は、生ビールを頼む私を見てそんな感想を言う。なかなか無い反応である。 「そうですね、遺伝でしょうね」 「僕も同じことを言っていたら先輩たちに慣れが重要だって言われて飲まされた」 「それで強くなったの?」 「全然」 生ビールが二つ運ばれてくる。お通しは、菜の花の胡麻和えだ。おしゃれなものが出てきて、それだけで少し得した気持ちになる。カンパーイ、という私の掛け声に続いて、椎名が「一か月おめでとう記念」と言いながらグラスをカチンとぶつけてくる。何の、と聞きそうになって、自分たちが付き合ってからだと気付いた。正確には一か月半くらいだ。 「そっかー、一か月か。早いねえ」 「会えないしね。多分簡単に半年くらい過ぎてくんじゃない」 「うーん、味気ないような・・・・仕方ないけど」 正式に付き合うことになって一週間は椎名の家にお世話になっていた。その後帰国してからは電話を三回、会うのはこれが初めてだ。スペインにいるのだから、むしろこのスパンで会えたことに感謝をしなければならない。代表戦ありがとう、とサッカーファンが聞いたら呆れるような理由で、試合を組んでくれた人に感謝した。 「そういえばさ、結局は大晦日、何で誘いを受けたの?あの頃はまだ、そんなに僕と付き合うことに積極的じゃなかっただろ」 それぞれが頼んだチキンソテーとハンバーグを半分ほど食べたところで、椎名が言った。そういえば、とついでのように話始めるのは少しばかり労力の必要とする話題である。私は記憶を掘り起こしながら、うーん、と言葉を探す。何と言うのが一番伝わりやすいのかわからない。言ってしまうならば、椎名への恋心を自覚し始めてはみたものの、やはり自分には手に負えないような気がして、椎名が諦めてくれはしないだろうかと思っていた時期でもあったのだ。結果として、逆に進んだわけだけれど。 準備できたー?と、奥さんが厨房にいる主人へかける声が透る。それを聞いて、あ、と思い当った。 「そうだ、本当はね、準備をしようと思ってた」 「準備?って、何の?」 「さよならの」 話を聞きながらも食事をしていた椎名の手がぴたりと止まった。ふうん、と興味深そうに私を見る。私は冷静な気持ちのまま、言葉を紡いでいく。 「あれが嫌、これも嫌、これがわからない、って思うがままに翼にぶつけてみたら、終わるんじゃないかって思ってた。こんな面倒な女、って。でもそれがさ、翼ってば一個ずつクリアしていくでしょう。一個ずつ私を諭そうとしてきてさ。そうしたら私は元々翼のこと嫌ってたわけじゃないんだもん、あれ、間違えたー!って思ったよね」 何ソレ、と椎名。私はそんな彼をみて、ホントだよねえ、とのんびり相槌を打つ。 そうだった。あの時確かに私は何かを終わらせようと焦っていて、そしてそれはスペイン行きを決めた時も同じだった。試してみたら、どういう結果であるにしろ、終わると思っていたのだ、この関係が。そうやって考えてしまうくらいには、何だか疲れていたことを思い出す。 椎名のことは好きだと思っていた。 だけど、もう何でもいいから終わってしまえと思っていたのもまた事実だった。恋をすることに怯えていたからである。 「まあ、でもあながち間違いじゃなかったんじゃない」 「何が?さよならの準備?」 「そう。僕とのさよならじゃなくて、今までの恋愛したがらない自分との、ってこと」 「・・・・それって準備するほどのことなの?」 「だってさ、少なくともあれだけ悩んで考えて生まれた感情だったわけだろ、それをはい要りません、とはわかってても出来ないもんだと僕は思うけどね」 色々と見透かされていることに、今更ながら脱帽する。よくもまあ、私に合わせて待っていてくれたものだ。「そこまでわかっててよくまだ私を好きでいられたね?」思わずそうまじまじと椎名を見遣る。「どうにも出来なかったからね」何故か不敵に彼は笑う。照明を落とした店内で、その表情は見る人を惹きつける何かがあった。 「に、恋してたんだ。自分の意思で止めるなんて、出来るわけないだろ」 水を足しにきた奥さんが、椎名の言葉に大きく頷いている。そうかそういうものか、と私も何だか納得する。 「じゃあ、私もきっと、自分じゃどうしようもできないね」 |