スペインに来てから、もうすぐ一か月だ。スペインの観光はもちろん、周辺諸国の観光もしたけれど、バルセロナ付近で過ごすことが圧倒的に多かった。ほとんど忘れているスペイン語を少しずつ思い出しながら、買い物や食事くらいは一人でもできる。旅行してくればいいのに、と椎名は言ってくれるけれど、私はなるべく椎名と共に居たかったし、椎名が試合でピリピリしている時を除けば大体一緒にいた。彼は仕事があるのだ、私の我侭にばかり付き合っていられない。そこに関しては私も初めからそのつもりであったし、椎名も仕事に影響が出るようなことはしない。元々遠慮をするような間柄でも無かったことが幸いした。 だから、特に諍いもなく、ここまで来ている。 「・・・・思うんだけどさ、スペイン人の笑いのツボってよくわかんないよね?」 「まあ、僕はさすがにスペインそれなりに長いし、普段生活してるからわかってきたけど、そうだね、少し違うんじゃない?何、この番組つまんない?」 「つまんないってわけじゃないけど特別面白くもないような・・・・?」 食事を終えて、椎名がチームの先輩から頂いたというチョコレートをデザートにつまみながら、だらだらとテレビを見ている。言っている事を全部理解できるわけではないが、何となく話の流れくらいならわかる。椎名は明日休みだという。どこかへ出かけようかという話も出たけれど、とりあえずゆっくりしてみることにした。気が向いたら午後に公演にでも出かければいい。 じゃあニュースでも見る?と椎名がチャンネルを変えていく。ころん、と自分の頭を彼の肩に預けながら、私は変わっていくテレビ画面を追う。 人に触れることが苦手だった。 人、というよりも、異性に。 恋愛対象としてなかなか認識しないと言いつつも、そういうバリアは張っていて、中々矛盾していたな、とは今でも思う。でもこれには理由があって、男女の友情は成り立つ派の私も、さすがに異性とボディタッチを必要以上にしたりしない。日本人は特にそうなのかもしれないが、異性に触れるということが、特別な意味を持つことくらい、私にもわかっていた。 そうなのだ、特別な人と、触れたいと思う。つまり、触れてしまったら、それはその人を特別だと認めることだと思っていた。そしてそれは、今も変わらない。 手を出すなどと言っていた椎名は、結局何もしてこなかった。手を繋ぎさえもしない。そうなれば、自分の気持ちを推し図るに辺り、私から行動を起こすより他なかった。少しずつ、触れてみる。我ながら23歳がする恋愛ではないという気持ちもあるけれど、まだ恋愛じゃないし、とわけのわからない方に割り切っていた。 それが今や、こうしてぴったりとくっついてテレビを見ているのだから不思議である。 これでいい?椎名の声に反応して顔を向けると、見下げて来た彼の顔が、思いの外近くにある。しん、と部屋から一切の音が、消えたような錯覚と共に、身体の内側から何かがせり上がってくる。 ――――触れたい、 と思った時には、す、と私は背筋を伸ばして、椎名に近づいていた。スローモーションのようにゆっくりとした動きに感じる、多分実際は、ほんの一瞬。 一瞬だけ、唇に触れた。 「・・・・あれ?」 ぱちり、瞬きを一度して、驚いたのは私が先だ。 「あれ、って、あれ?じゃねーよ・・・・何したかわかってんの?」 「えっと・・・・キスかな?」 「わかってんならいいけど・・・・先に言うことがあるんじゃないの・・・・」 椎名の声は、いつもより小さかった。じっと顔を見ていると、すぐに逸らされる。耳が真っ赤だ。 再三言ってきたことであるが、椎名の容姿は優れている。そしてそれは格好良いか可愛いかと言われれば可愛い方に分類されるわけで(本人は気にしているので言わない)、今、彼は最高の破壊力を持つ可愛さを発揮していた。私には自分が起こした行動よりもそんな椎名の様子の方が重大で、行き場の無い手を何度か宙で動かした。 「・・・・何してんのさ」 「あ、いや、椎名さんが可愛かったもので、つい。これがアラサーだなんて誰が信じるでしょうか!」 「うるさいよ!他に言うことないわけ!?アンタ俺にキスしたんだけど!」 改めて言われると何だか私も照れてしまう。なんでしたんだっけ、と記憶を巻き戻してみるも、衝動としか言いようがない。 ああそうか、 「幸せだなあ、触れたいなあ、って思った。突然」 椎名が何かをくれた時でも、手を繋いだ時でも、特別なイベントの時でも無かった。こうやって当たり前のように続いていく毎日の中で、幸せだと思えた。 何か特別なことがあれば、嬉しいのは当然なのだ。そうではなくて、何でもない時に幸せだと思えた。あの瞬間は何も考えずに行動していたけれど、今考えてみても、それが全部の理由になっている気がした。 誰かを特別だと認めてしまうことは、他の誰かが好きではなくなってしまうことだと思っていた。だから、ずっと特定の誰かを一番だと認めることが怖かった。 椎名を特別だと認めることで、他の誰かを好きじゃなくなるわけじゃない。優先順位はつくかもしれないけれど、それは何も悪いことではないのだと思える気がした。 「長い間、待たせてごめん。ね、椎名、私と付き合ってください」 ホントだよ、と幸せそうにはにかむ椎名が広げた腕に、私は躊躇いなく飛び込んだ。 |