2月12日

さよならの準備 14

   


 バルセロナの空港に降り立つと、随分と懐かしい気持ちが込み上げてきた。旅行に来たのは3年半前の大学2年のことだ。3年に進級する前に海外留学のため1年間休学したので、今4年の終わりなのだけれど、3年前という計算になる。あの時のスペイン旅行がきっかけとなって、その後カナダに半年間留学したのも良い思い出だ。色んな国の人と知り合いになり、そこで私の世界は大いに広がった。多分、異性を恋愛対象として見ずとも良い関係が築いていけるのではと思ったのもあの頃で、「・・・・おや?」必ずしも良いと言い切ってしまえるのかどうか怪しいけれど。あれがなければ今頃すんなり椎名と付き合っていたのかもしれなかった。否、それはないか。あの経験がなければそもそも最初から椎名(というか異性皆)を警戒していたかもしれず、ここまで仲良くなることなどなかったかもしれない。
 ともあれ、そうした色んな感情を胸に秘めたまま、私は椎名の姿を探した。到着ロビーにはまだ彼はいない。ひとまず飲み物を手に入れようと売店で水を手に入れ、飲んでから思わずむせる。冬のスペインは乾燥がひどく、喉が渇きやすいので潤そうと勢いよく飲み込んだのが間違いだった。首都マドリッドは日本の水に近いけれど、バルセロナの水は俗に言う硬水だったのを完全に忘れていた。空港は軟水が置いてあることもあるのに、確認しなかった私が悪いのだけれど。
 それでも飲まないよりは良いだろうと慎重に水を摂取して、近くのソファに腰掛ける。冬でも何となく陽気な雰囲気だと感じてしまうのは、私の勝手な妄想だろうか。
 水の口直し(というのも変だけれど)にホットチョコレートを購入して飲んでいると、ふいに肩を叩かれた。

「ごめん、待たせた」

 聞こえてきた日本語と、視界に入る姿に安堵する。そこにいたのは、スーツ姿の椎名だった。相変わらずその整った容姿と、普段あまり見ることのないスーツ姿に、返事をするのを忘れて見惚れてしまう。

「・・・・そんなに僕のスーツ姿が珍しい?」
「えっ、あ、いや、・・・・うん、珍しい、格好良い」
「どうも。って実は僕の顔好きでしょ」
「実はも何もイケメンは好きです。っていうか椎名の顔嫌いな女の子っているの?」
「・・・・だからそういうのさあ、・・・・まあいいや」

 革靴を鳴らして先導する椎名の後に付いていく。気が付けば私の荷物は彼の手の中にあった。自分で持つと主張しても、すぐに却下された。
 泊めてあった車は、見た事もない外国製の物だった。「なにこれむかつくんですけどー!」思わず頭を抱えてそう叫ぶ。何度だって言うが、椎名の容姿は優れているのである。スーツ姿で現れたり荷物を運んだり外国製の車に乗ったりと、いちいち様になることをされては心臓とテンションが持たない。
 断っておく。これは別に惚れているとかそういう問題じゃないのだ。イケメンが様になることをすれば、女の子は大抵ときめくものなのです。そう、芸能人を見ているときと同じ気持ちだ。私の小さなアパートに迎えに来た椎名の車の助手席には、ほぼすっぴんのパーカーとジーパンスタイルで何の躊躇いもなく乗り込む私だが、さすがにこれは隣に座る自分が惨めに思えた。沢尻エリカでも乗せて置いた方が良い。
 一人百面相を繰り広げる私を怪訝そうに観察していた椎名は、けれども深くは追及して来ずに、車を発進させた。「何考えてるのか知らないけど、すっげえくだらない気がする」と言っていた。さすがである。

「いやまあ色々、本当に色々思うことはあるんだけど、とりあえず一つ、普通に疑問に思ったこと聞いていい?」
「普通にって何さ。どうぞ」
「何でスーツ?」
「ああ、練習後に会見あるって急に言われてさ。とりあえず皆正装」
「練習着じゃだめなの?」
「色々あってね」

 ぐわん、とスピードが上がる。郊外に出たのか、道は広い。大晦日の日、椎名が日本の車はスピードが遅いと言っていた意味を、今身を持って体感した。これは確かに、日本の法定速度を守っている車など、子どもの遊び程度に思うかもしれない。いや、それは言いすぎか。

「あ、しまった、なんか大体スペインくる知人は我が家に泊まるから、癖で僕の家向かっちゃったよ・・・・。、ホテルどこ?荷物置くだろ?」

 車が段々減速する。どこかでUターンでもするつもりなのか。私は、ピタ、と動きを止め、運転席の椎名をじっと見つめる。



「・・・・ホテル、取ってないよ」



 ゆっくりと、そしてはっきり告げた。運転をしている椎名の横顔が、驚きに満ちる。そして「はあ?何の冗談・・・・」と言いかけて、聡い椎名はすぐに状況を読み取ったようで、みるみるうちに顔を歪めていった。
 その様相に、さすがの私も一瞬でここで降ろされる覚悟をした。頭の中ではものすごいスピードで昔利用した某大手旅行会社のバルセロナ支店を思い描く。
 キッ、と音を立てて車はどこかの駐車場に止められた。椎名の顔は俯き加減でよく見えない。私は背筋を伸ばした。

「・・・・アンタ、何言ってるかわかってんの」
「・・・・そうですね、一応は」

 ホテルを取っていないと申しました、と返そうかとも思ったけれど、今の椎名に冗談は通用しない。私は真摯に頷いて見せた。言っている事が事なので、真摯にも何もあったものではないのだけれど。

「ホテル取ってない、って、別に今日中に他のところに移動するわけじゃないよね」
「・・・・そうですね。今回の旅の目的は観光じゃなくて椎名に会うことなので、何ならバルセロナから動く気もないですね」
「・・・・ああそう、で?」
「単刀直入に言えば泊めてください?」
「馬鹿なの?」

 本当に心底馬鹿にされた。まあ、気持ちはわからなくもない。私も、自分が相当馬鹿げたことを言っている自覚はある。でも、こうするのが、一番手っ取り早いと思ったのだ。口が乾燥して変にねばついて気持ち悪い。バルセロナの気候のせいなのか、緊張のせいなのか、もうよくわからないが、きっと両方だ。

「俺が言ったこと全部忘れたわけ?俺はアンタのこと好きだって言ったんだけど。家族とか友達じゃない、恋人になって欲しいと言ったはず。良い?俺はに恋愛的な意味で好意を寄せてるわけ。それはここ数か月で思い知っていただけたと思ってたんですけど、へえ、ふうん、そう、そういうこと言うわけだ?」

 多分、椎名は怒っている。それも相当に。彼の言葉や態度が私に届いていないと思っているからかもしれない。好きだと言われても、私がまた「椎名だから」という理由にならない理由で安心しきって泊まりたいなどとふざけたことを抜かしていると勘違いしているに違いなかった。まずはそこを訂正しなければ、誤解を生む。

「違うんだよ、椎名のことは友達だと思ってるから何もないと思って軽い気持ちで泊めてって言ってるわけじゃない。椎名がちゃんと私のこと好いてくれているのもわかっていて、それで言ってる」
「なおさら意味わかんない」
「だってもうわからなかったから!」

 私が声のボリュームを上げると、まだ何か反論しかけていた口を、椎名は閉じた。驚いている。その顔には戸惑いもあるようだった。それもそのはずだ。あれだけ行動を起こしても頑なに沈黙していた女が突然わけのわからないことを言いだしたのだから。
 言っておきながら私自身にもまだ戸惑いはある。

「椎名のこと、本当に、本当にちゃんと大切だと思っていて、それは、本当にこの間自覚したんだけど。まだこれが恋愛かどうか自信無いし。・・・・椎名が言ったように、私は誰かを特別とすることに怯えているし。でも椎名のことは好きだと思うし。・・・・だから、一緒にいて恋人みたいにしてみれば、わかるかなって思った」

 我ながら最低だと思う。でも方法などこれくらいしか思いつかなかった。
 正月の海辺で感じたように、ああいう気持ちで一杯になれば、自信がつくかもしれないし、結論も出せるかもしれないと思った。



 これが恋だ、という確証が欲しかった。



 泣きそうな顔でもしていたのだろうか、椎名の手が伸びてきて、数回頭を撫でた。それは、子どもをあやすようだった。実際椎名の方が幾つか年上だし、まだ学生の私など、彼から見れば子どもなのだろう。

「ほんっと・・・・って極端だよね・・・・」

 降ってきた声は、呆れと、それから笑い声が混じっていた。私が顔を上げた先で、椎名は仕方ないなと諦めたように笑っている。

「わかったよ、まあ、幸いうちは客室が一つあるから、そこ使えばいいし」
「え・・・・いいの?」
「だってホテル取ってないんだろ」
「・・・・うん」

 じゃあ仕方ないじゃん、と言うと、椎名は再び車を元の道へと戻していく。椎名の家に今度こそ向かうのだろう。

 やっぱり、彼は優しい。
 これが惚れた弱味というやつか、とどこか他人事のように思う。けれども、だからこそ、本当に今回で最後だ、と強く決心した。こんな風に優しい人を、いつまでも振り回すわけにはいかない。
 我侭言ってごめんなさい、私は謝りながらもどこか安心していた。異国の地で寝床が確保できたことと、椎名が自分の我侭を聞いてくれたことに。そっと椎名を盗み見ると、彼はこちらを見て、にやりと人の悪い笑みを浮かべる。「・・・・何」警戒心をむき出しで私は言う。何か条件でも付きつけられるのだろうか。

「そうやって覚悟してやってきて、ねえ、一緒に生活するってことはさ、つまり手出して良いってことだよね?」
「うえっ!?」
「違うの?」
「・・・・違わ、ない、ような・・・・え、いや、でも・・・・ええー・・・・」

 そんなあからさまに言われても、何とも返事がしづらかった。ひどく自分が大胆なことを言ったような気がして後悔する。椎名はいつもみたいに軽快に笑って、「そんな怯えなくてもが嫌がることはしないよ」と付け足してくれたのだった。

「・・・・多分」
「多分!?」





 




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