当日まで、椎名からは何の連絡もなかった。 空けておけ、と言われたので、予定は特に入れていないけれど、遠出をするのか近場でお茶するだけなのか、そもそも何時から何時までの予定なのか、何もわかっていない。無いだろうと思いつつも、畑兄たちも一緒である可能性を考えて連絡してみたけれど、もちろん彼らはそんなことを知るはずもなかった。どうやら飛葉中サッカー部OBによる忘年会は、28日に行われたらしい。つまり、椎名はもう日本に戻ってきているということだ。彼の家の電話番号も住所も知っているけれど、こちらから連絡を取ることは何だか悔しくて、何もアクションを起こさないでいたら、約束の大晦日当日になってしまった。 私は実家に帰ってきていた。家から都内までは普通列車で2時間半程度だ。大学に通うにはいささか遠くて一人暮らしをしているが、年末年始やお盆くらいは実家で過ごしたい。今日は予定があるからと大掃除を断っていたが、昼過ぎになっても一向に出かける気配のない私に、母は風呂掃除を命じた。出かけるって言ったじゃん、という反論は、パジャマ姿のままでは何の意味もない。渋々冷たい浴室へと向かった。 風呂掃除を終えてリビングに戻っても、携帯電話はうんともすんとも言わない。もしやからかわれたのでは!?と懸念し始めた午後三時頃、ようやくメールの受信を告げるメロディが鳴った。18時アパート、とだけ書かれている。さては私が実家に帰ってるとは夢にも思ってないな、と呆れた。実家だから駅が良い、と返信しようとして、メールを打つのが面倒になる。電話帳から椎名の名を呼び出すと、電話マークを押して、携帯電話を耳に当てる。彼氏!?と新しいおもちゃを見つけたかのように食いついてきた妹をあしらって階段を上り、自室へと向かう。10コール以上鳴り響いて、ようやく繋がった。 『なに、もっと遅い方が良かった?』 もしもし、とお決まりの挨拶をすることもなく椎名が言う。この間もそうだ、一言目が挨拶ではない電話など、椎名以外とはほとんどした記憶がない。そもそも時間の件だと思い込んでいるあたりが、私の先ほどの仮説を確かなものにした。あのねえ、と呆れ声で言ってやる。 「私今実家なんですけど」 『は?実家?・・・・あ、』 「いくら一人暮らししてるとは言えね、私だって年末年始くらい実家に帰りますよ」 電話の向こう側は、急に静かになった。今頃慌てているのかもしれない。あまりそういう椎名は想像できないけれど。 『あー、そうだよね・・・・完全に失念してた、帰省するとか』 「別に近いからいいんだけどさ・・・・、まあ近いって言っても、今から準備して出ていくとなると、18時半くらいにはなっちゃうけど。で、駅でもいい?」 『もちろん、っていうか、じゃあもう少しそっち寄りのところにするかな』 予定変更、と呟く椎名の声に、そもそもさあ、と私はすぐさま反応した。 「予定も何も聞かされてないんですけどどこ行くつもりだったの?」 『除夜の鐘聞いて初詣』 「えっ、日跨ぐの?」 『ダメなの?』 「え、いや・・・・予定はないけど」 『じゃあ決まり。A駅に着いたら連絡して』 そう言うと椎名は早々に電話を切ってしまった。ツーツー、と通話が切れたことを告げる電子音が聞こえている。何だか釈然としないけれど、時間はあまり無い。私は納得いかない気持ちを抱えたまま、それでも出かける準備を開始した。 帰るのは明日になる、と母親に告げると、あら珍しいと興味あり気に返された。彼氏でしょ!?と妹から追撃も受けたけれど、一睨みすればすぐに自室へと引き返して行った。 ガタゴトと揺れる車内から、流れていく景色をぼんやりと見ている。今は目的地まで丁度半分くらい来たところだ。ひとつひとつ駅を出発する度に、緊張感とも諦めとも言い難い微妙な気持ちが膨れていく。 今日、彼はどうするつもりなのだろう。 告白ならばもうされた。返事を寄越せとは言われていない。それとも、今日はっきりして欲しいと言われるのだろうか。暗澹とした気持ちになる。 椎名とはずっと友達だと思っていた。友人は「まったく考えたこともないなんであり得ない」と私の言葉を否定してくるけれど、本当に事実なのだ。仲が良いという自覚はあったけれど、特別だと思ったことはない。異性と同性を同列に並べることって可能なの?と友人は訝しんでいた。そんなことを言われても、並んでしまったのだから仕方がない。 自然と出そうになるため息を何度も何度も飲み込んだ。 椎名は、私をどうしたいのだろう。 私は、椎名をどうしたいのだろう。 不透明なものが多すぎて、これ以上思考を巡らすことなどできない。一定のリズムを刻む車内は考え事に最適だと思っているけれど、今日はままならなかった。 ぐるぐると答えの出ない問題をただひたすら頭の中で反芻していたら、アナウンスが目的地に着いたことを告げた。A駅(目的の駅まで3駅ほど)で連絡を寄越せと言われていたのに完全に忘れていた。ホームへ降り立つと、慌ててメールを送信する。椎名が来るまでまだ少し時間に余裕がある。せめて少しでも気分を上げておこうと、私はお気に入りのカフェへ足を踏み入れた。 程なくして椎名が現れた。紅茶のついでにケーキまで頼んでいる私を見て呆れ、それでもケーキを返品しろとはさすがに言えないようで、彼は仕方なしに私の向かいに腰を下ろし、珈琲だけ注文した。 「・・・・出かけるって言ったのに、普通ケーキ頼む?」 「いやー、美味しそうだったからつい。すぐ食べるからちょっと待って」 「別に急がなくていいけど。・・・・っていうか、久しぶり」 「あ、うん、久しぶり」 出会ってから今までで、ここ数か月は一番電話をしていたせいで、どうもあまり久しい感じは無い。最後に会ったのは8月に椎名をスペインへ見送った時なので、実質4か月ほどしか経っていない。日本とスペインの距離を考えると、間は空いていない方だ。外見も少し髪が短くなっているくらいで、特に変化はない。相変わらず見惚れるほど造形が美しく、職業を間違えたのではないかと思う。アイドルをやっても成功したに違いない。性格には難有りだけれど。 「除夜の鐘って、どこに行くの?」 車で行く、と言っていたことを考えると、近場だとは考えにくい。だからと言って都内有数の寺など行けば、人でごった返していることくらい予想がつく。椎名は好んで人が多いところへ向かうような人ではないし、私も人混みは好きじゃない。 「海の方」 「海!?この寒い日に!?」 「方って言っただろ、海に行くわけじゃないよ。良いところがあるって聞いたから。あんまり混まないけど、屋台とかも少しあって、暖かいものもあるらしいし」 「えー・・・・わざわざ行くようなところなの?」 「まあ、どうせなら初日の出を海で見るのもいいじゃん?」 「海行くんじゃん!」 ダウンコートを着て来て良かったと心底思う。日が昇る前の海岸など、考えただけで身震いしてしまう。車で待ってればいいだろ、と言われても、私はそこまでロマンチストではないのでそこまでして見なくてもいいじゃないかと思ってしまう。 「今ケーキ食べたら、夕飯はまだいい?」 「あ、そうだね・・・・でも椎名がお腹空いてるんならどっかで食べようよ、私はデザートでも食べるので」 「・・・・ケーキ食べてるのにまた食べるわけね・・・・女ってホント甘い物好きだよね」 「別腹なんでねー」 「別じゃないじゃん」 そういう他愛もない会話をしながら私はケーキを平らげ、椎名の車に乗り込んだ時には、19時を回っていた。何の躊躇いもなく助手席に滑り込めるほどには、この席に慣れている。 そういう慣れを、人は「好き」と勘違いするのかもしれない。この場合、大多数がそうであって、勘違いなのは私の方なのだろうけれど。 椎名がアクセルを踏み、車は緩やかに走り出す。 もう何度も乗っていて慣れているはずなのに、どうしてかこの瞬間、いつもとは違う気がした。 首都高は思ったよりも空いていた。とは言え、いつもよりは車の台数も多い。帰省客なのか私たちのようにどこかへ出かける旅行客なのかわからないけれど、車はずっと等間隔に続いている。「遅い」と椎名は苛々しているようだった。「日本人てなんでこう律儀に速度守るのかな」彼は自分も日本人であることを棚に上げてそんなことを言う。 「いや、十分速いですけど・・・・」 「海外ならクラクション鳴らされる遅さ」 海外で車を颯爽とかっ飛ばす椎名を想像して、それもまたやけに様になる気がした。本当に何をやらせても絵になる男なのだ。その彼の車の助手席に腰かけているわけだから、多少の優越感はある。でもそんなものは高が知れているし、恋愛感情は関係のないように思われる。椎名に向ける様々な感情を分析することが癖になってしまっていて、一人勝手に自己嫌悪に陥りそうだ。 自己嫌悪に陥りかけたので、一応椎名に断りを入れて寝入っていたら、あっという間にどこかの寺に着いていた。椎名に起こされて眠い気持ちのまま外を見れば、千葉県、の文字。海と言えば何となく湘南を思い浮かべて、勝手に神奈川方面だと思い込んでいたけれど、そういえば千葉にだって海はある。 駐車場内に車はまばらだった。先に降りた椎名がいつの間にか回り込んで助手席のドアを開けてくれる。はい、と差し出された手を取ることはさすがに少し躊躇ったけれど、もうなるようにしかならないと私は自分の手を重ねた。 そしてそれは間違いだった。 車から私が降りても椎名は手を握ったままで、当たり前のようにそのまま歩き出そうとする。「っ、椎名、待って」私が呼び止めても、聞こえているだろうに彼は振り向かない。ずるずると引きずられるように付いて行くしかなかった。 門までの大きな砂利道を歩きながら周りを見渡すと、恋人同士なのか、男女のペアが多くいた。あとは地元の学生なのだろう、高校生くらいの年齢のグループがたまに大声で笑いながら通り過ぎていく。 「・・・・初詣、じゃないか。お寺だもんね、皆除夜の鐘聞きに来たのかな」 既に諦めて椎名の隣を歩きながら私が言うと、彼はちらりと視線を寄越す。「そうなんじゃないの」どういうわけか、ひどくぶっきらぼうだった。 勝手なことをしておいてその態度は何だと私は苛立ちを覚えて、ぴたりと歩を止める。強く握られていた手を引きもどすと、さすがの椎名も足を止めた。もっと思いっきり手を引いて、その手をほどく。 「・・・・何なの」 「何が」 「何が、って、あのさ、椎名はどうしたいの。私に何を望んでるの?」 「そっちこそ、どういうつもりで付いてきて、どういうつもりで手を握られたままだったわけ」 「どういうつもり、って椎名が勝手に、」 「でも断れたし、嫌なら最初から手だって振りほどけただろ、今みたいに」 「・・・・なにそれ、何でそんなこと言うの」 「責められる筋合いはないね。それで期待するなって方がよっぽど酷い」 椎名はそう言ったけれど、明確に責める意思を持って私は彼を睨み返す。「あのねえっ、」きっと彼も腹を立てているのだろうと思っていたのに、目が合った彼の表情はどちらかと言えば悲しみを湛えていて、結局二の句が継げない。思わず逃げるように一歩後ずさりをした。じゃり、と冷たい音が鳴る。 「・・・・ごめん、別に責めたいわけじゃないし、今日だって、普通に楽しもうと思ってたよ」 「・・・・じゃあ、なんで、あんなに不機嫌そうだったの」 「雰囲気とかに流されて、ちょっとはいけるかなと思って。手も振りほどかないし。だけどあんまりにもがいつも通りで、舞い上がってた俺が馬鹿みたいじゃんと思ったから、八つ当たりした。・・・・ごめん」 二度、椎名は謝罪の言葉を口にした。そのたった三文字が、どうにも重たいものを纏っているような気がして、何故か私も謝りそうになる。 期待するなって方がよっぽど酷い、と言った椎名のその言葉の意味を考えざるを得ない。似たようなことは友人にも言われた。それで好きじゃありませんだなんてあんまりだよ、と。好きじゃないなんて一言も言ってない。ただ、椎名の恋人になりたいと思ったことがないだけなのだ。 だけ、と私は思うけれど、きっとこれが周囲からすれば異質なのだろう。 ただ、私が子どもであるだけなのかもしれない。 そうだとしても、どうしたって恋愛感情と認めることが出来ないのだから、これ以上どうしようも無かった。嫌いじゃないから誘われれば断れないし、差し出された手だって取ってしまう。 八方塞がりになってしまった感情に疲れて、私は俯いた。 全てが面倒臭い。また、何か得体の知れない暗い感情が出てきてしまう。椎名のことを、好きなのかもしれないと思う度に、比例するように湧いてくるのだ。何かが、恋愛することを、拒否している。一番を認めることが怖くて、恋愛感情が現れ始めれば蓋をする。 もういっそ神様が、貴方の相方はこの人ですから結婚してください、と連れてきてくれればそれが一番楽なのに、と思う。 、と落ち着いた椎名の声が響く。のろのろと顔を上げる。椎名は困ったように少しだけ笑っている。困っているのはこっちだ。 「はさ、僕のこと好きじゃない?」 「・・・・嫌いだと思ったことはないよ」 「それは好き同じではないということ?」 「・・・・好きは、好きなんだと、思うけど。・・・・付き合いたいと思ったことは、無い。一度も」 「前には、好きという感情が皆同じところにあるって言っただろ。じゃあ、聞くけど、」 椎名の声は、私を諭すようだった。わからないことがあると駄々をこねる子どもに少しずつ噛み砕いて説明するような。私は真っ直ぐ椎名の目を見つめたまま、次の言葉を待つ。 「同性の友達は抜きにして。そうだね、柾輝でも五助でも、サークルの友人でもいい。こうやって同じように誘われて付いて行くの?・・・・差し出された手に、応えるの?」 卑怯だ。 椎名も自分も。 そうやって一つずつ確かめていって、辿り着く答えなど、ひとつしかないに決まっているのに。 返事もせずに私が微動だにしないでいると、椎名はふっと気を抜いたように笑って、「ま、ゆっくり考えたら」と努めて軽く言った。何かイベントでも始まるのか、奥の境内に人が集まり始めている。そちらに気を取られたふりをして、私は椎名の隣に並び立つ。うん、と小さく答えるのが精いっぱいだった。 吹き抜ける風は冷たい。 まだまだ、人恋しい、季節だ。 |