「ジロー、こいつどうしちゃったの?」 何かめちゃくちゃ機嫌悪くねえ?英語の辞書を借りに来た向日はその用件も綺麗さっぱり忘れて開口一番にそう言った。負のオーラが目に見えるんじゃないかと思うくらい不機嫌そうな顔をしたは向日に視線を投げ遣って、それから机に突っ伏した。珍しく覚醒していた芥川はの髪を弄びながら、んー、と間の抜けた声を出す。どうやら向日の言葉に肯定をしたつもりらしかった。 「おい、何かあったのかよ?」 「何かあった・・・・・?大有りだよ岳ちゃん相方になんて教育してくれてんの!あの眼鏡のせいであたしは半端なく寝不足だよ!!」 がばりと勢いよく顔をあげ、両手でばん!と机を叩く。向日は驚いたように一歩後ろへ下がり、芥川は嬉しそうにおはようと言った。ちゅーしていい?と聞いてきた芥川に返事はせずに向日を射抜くような視線で睨みあげた。 「ゆーしが何したわけ」 「めんどいから色々ハショるけど簡単にまとめると忍足が電話すっからマナーモード切っとけっていうから切っておいたのに結局電話が来なくてすっかり忘れて寝てたのに寝不足になった」 「待て、お前今一番肝心なとこハショりやがったな、寝てたのに寝不足とか意味わかんねーよ!」 それでもには説明する気がさらさらないらしく、携帯電話を取り出して「今日はラッキーデーだ」と大して嬉しくなさそうに言った。 夏がすぐそこまで迫った5月下旬。春から始まった学校総合体育大会。都大会も既に始まり、全国大会常連校の氷帝学園テニス部は例年通り忙しさに拍車がかかる。生徒会に所属するも引っ切り無しに彼らの活躍ぶりを紙面に書き連ねる日々を送っている。最も、まだレギュラーは一人も出ていない段階だというから驚きだ。テニス部の部長でもあり、生徒会長でもある跡部景吾が未だに生徒会の集まりに顔を出しているのが証拠だ。これから勝ち進むに連れて生徒会になんて構っている余裕はなくなるだろう。そうなると副会長であるに会長の仕事が回ってくるのだ、憂鬱にならないと言えば嘘になる。それでも彼らには頑張って欲しいとは心から思うから、結局、跡部が安心してテニス部のことだけ考えていられるように業務は完璧にこなすつもりなのだけれど。 「あれ、そういや宍戸試合だったんでしょ?どうだったの?」 が顔をあげると微妙な表情の向日と芥川がいた。何、と続けようとしたところで「、ちょお来い」とドアの方から声がした。振り向くと忍足がいた。 会ったらまず、いの一番に文句を言うつもりだったは、忍足のその真剣な顔に出鼻をくじかれた気分だった。「話あんねん」それだけ言って忍足は廊下を歩き出す。それは昨日も聞いたっつの、と思いつつも反論が許されるような雰囲気でもない。教室を出る時に、そのただならぬ雰囲気を感じとって向日に「あれ何?」と尋ねると、「行けばわかる」と言われた。視線を横にずらして芥川の様子を伺ってみても頷いてみせるだけで、何がなんだかわからないまま教室を出た。 二人は知っているらしい。 SHRまで10分を切っているというのに、忍足は歩く足を止める気配を見せず、そのまま階段を登って準備室のある方へと向かう。今日日直なんだけどなあと思いつつ、は黙って忍足の後に続いていた。途中でどこから出てきたのか滝とすれ違い、「何してんの?」「逢い引き」「本気で引く」という会話をして、たどり着いたのは非常階段の踊り場。この時点でSHRまでは5分を切っていて、は出席を諦めた。 手摺りに寄り掛かるように腰を降ろした忍足に隣を指差され、そこに座ると生暖かい風が通り抜けた。 「宍戸が、試合出たんは知っとる?」 その話なんだと驚きつつ頷いたに、忍足は、「ほな負けたゆう話は?」と無機質な声で言う。 「知らない、負けたの?」 聞いた話によると氷帝テニス部はレギュラーが出場するのは都大会準決勝レベルからだとかで、それまでは準レギュラーが試合を勝ち進めるという。それでも一応シングルス1だけはレギュラーがローテーションで務めることになっていて、まず負けることはないという。 「・・・・・調子悪かったの?」 「いや?むしろ万全やったくらいや。ただ、相手が悪すぎた」 「そんなに強いんだったら始めからレギュラー出しとけばよかったじゃん。景吾だったら勝てたでしょ」 「どうやろな、正直それはわからへん。相手は九州の二強とまで言われた男でな。まさか転校してきてるなんて思わんかったんや、完全ノーマーク」 そこまで話して忍足はぴたりと黙ってしまった。頭を整理したいのと何を言えば良いのかよくわからなくて、もなんとなく口を閉ざす。 氷帝テニス部はそれこそ全国から実力者が集って形成された集団だ。そのレギュラーに食い込んでいるわけだから、もちろん宍戸の実力だって決して低くはない。むしろ強いと言って良い。それなのに負けたということは相手は相当な実力者ということで、それならば仕方がないとなんかは思ってしまうが、そんな単純な問題ではないらしい。 確か、氷帝テニス部は。 「負けたら、レギュラー落ちじゃなかった?」 の質問に忍足は答えなかった。その無言が何よりも肯定を表していて、は何と声をかけるべきなのかわからなかった。励ますのは何か違うし、お疲れ様を言うにはまだ早い。 「・・・宍戸のこと、心配なんだ?」 「いや?」 まるで何でそんなことを言うんだとでも言いたげな目で忍足はを見た。本当に、心配しているわけではないらしい。ましてやそこに同情なんてものを読み取ることはできない。 「負けたからレギュラー落ち、それが氷帝テニス部やし、相手が誰だろうと宍戸が負けたことに間違いはない」 「・・・まあ、そうだよね、で?」 「宍戸は、ええ男やな」 ぱちくりと瞬きをしてから、はそうだねと笑った。「忍足って宍戸のこと何気に高評価してるよね」のそれには返事をせずに、忍足は空を見上げたまま長く息を吐く。とりあえずあいつまかせたわ、そう言ってやっと口の端をあげた。 それから一週間が過ぎた。 教室で見かける宍戸は誰が見てもわかるくらい落ちていて、そんな宍戸に芥川さえもイライラしていた。はしばらく黙って様子を見守っていた。 自分の口出しすべきことではない、と思っていた。これはテニス部の問題で、引いては宍戸一人の問題で、乗り越えなければならないからだ。 スポーツをする人間ならば、誰でも必ず壁にぶちあたる時が来る。怪我とか才能とか、そういう複雑で悲しいものではない。 もっとずっと単純だ。 敗北。 「うっざ」 の目の前で惰眠を貪っていたはずの芥川から聞こえてきたその言葉が、始めてっきり自分に向けられたものだと思い込み、は慌てて宿題をしている手を止めた。続いて殴りたいと呟いて、舌打ちする。びっくりしすぎて声も出せないには目をくれないで、「負けたからなんなの」と言ったところで、ようやく宍戸に向けられた言葉なんだと気がつく。 「・・・ジロちゃん、聞こえるよ」 「いいよ別に。言い返してくればいい」 イライラする、と芥川はまた低く唸る。それでも聞こえているはずの宍戸は何の反応も示さずにただぼんやりと窓の外を見つめている。は小さく一つため息をついて、ゆっくりと立ち上がった。何?喧嘩?俺も行く!と目を輝かせた芥川に違うからと苦笑して、「ちょっと言いたいことがあるの」、宍戸がちらりとを振り返った。 「宍戸、ちょっといい?」 呼びかけても返事はない。 芥川がまた何か暴言を吐いたけれど、それでも微動だにしなかった。 何となく、クラスメイトが宍戸に注目している。各々休み時間を過ごしているけれど、意識はそちらに集中しているような。それだけ、宍戸の様子は異常だった。 荒れたりだとかそんなことはなかった。 けれど、その一歩手前。 どこかに触れたら間違いなく爆発する、そういう確信。 は、もう一度宍戸の名を呼んだ。 また、無反応。 「うざいうざいうざい!!!」 芥川が先に切れた。 「ほんと何なの、ふざけんなよお前たったあれだけでこんなんなっちゃうほど小さい男なの!違うだろ!ふっざけんなイライラする、負けたくらいでうじうじすんならテニスなんてやめちゃえよ!」 どこか余韻を残して教室が静まり返る。 たまたま教室の前を通り掛かったらしい生徒が数人、驚いて足を止めた。 さすがの宍戸も芥川を振り返ったけれど、開きかけた口は結局閉ざされた。言い返せよ!怒鳴る芥川の声に女の子数人が肩を揺らした。 「宍戸」 今にも殴り掛かりそうな芥川を制すとは一音一音を噛み締めるようにゆっくりと言葉を吐き出す。 宍戸と、目が合う。 「幸せ者だね」 目を細めてがそう呟くと、芥川が席に着いた。もう宍戸に何か言うつもりはないらしい。 「あたしは、正直宍戸が負けて同情しかできないけど、」 忍足から宍戸が負けたと聞いた時、宍戸本人に対して沸いて来た感情はたったのこれだけで。 宍戸がどれだけ真面目に練習を積んできて、どれだけテニスに力を入れているかはわかっているつもりだった。氷帝のテニス部が、ただの天才集団ではなく努力の天才だということもわかっていた。 けれど、は、宍戸のチームメイトでは、ない。 ましてや、テニスプレイヤーでもない。 氷帝学園テニス部部員でもない。 敗北が、何を意味するのか、想像することくらいしかできない。 「ジローや忍足や、岳人は、怒ってくれる。背中叩いて止まってる暇あったら走れって伝えたくてイライラしてる。壁乗り越えるの、待ってる。信頼してくれてるのに、」 静まり返った教室に、の少し高めの声はよく響いた。 見下ろす。 宍戸はもう、目を逸らさなかった。 「それ全部裏切るの、今までの全部を、無かったことにするの」 気がつけば扉の向こうに忍足がいた。 「努力して努力して努力して努力して、それでも負けたら、落ち込んで泣いて終わりにすればいい」 ここでもう終わりにするには皆に対して失礼なんじゃない? 静寂を割ってチャイムが鳴る。 ざわめき出した生徒の合間を縫って、宍戸は無言で教室を飛び出した。 ← → +++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 珍しく長い。 そして庭球王子の大会の流れよくわかってないけどとりあえず宍戸が負けたのはもっと後かもしれないと今更思った。知らん。 09年11月09日 |