いつも女性は唐突に少女の家にやってくる。 そしてそれはその日も例外ではなかった。 少女が学校から帰ると、自分の家の玄関に、見慣れた――けれどここ数ヶ月見ることのなかったランニングシューズが置かれていて、あれ?と首をかしげたのだった。もしかして、と少しだけ高鳴ってきた胸には気づかない振りをして廊下を滑るようにして走って行く。乱暴に靴を脱ぎ捨てて、しまったこれでは母に怒られる、と慌てて靴を並べ直した。リビングの前まできて、何故だか少女は急に動きを止めた。どうしたの、隣の和室から顔を出した弟が聞いてきたけれど、少女は慌てたように彼の口に手を当てた、「しっ、静かに!」 弟は不思議そうな顔をして自分の姉を見つめた。それから姉の手を力いっぱい振り解くと、今度は怒られないように息のようなかすれた声で質問する。 「学校、どうだったの?景吾くん、元気だった?」 少女はその質問には答えずに、玲ちゃん来てるの?と逆に質問した。弟は、反論する気もないのかあっさりとそれを肯定する。「なんでわかったの?玲ちゃんの靴、母さんのとかと似てるし、わからなくない?」弟がそう言うと、「隆兄のランニングシューズでわかった」とさらりと答えた。兄は彼女が来た時だけその靴を、箪笥の奥底から取り出してくる。彼女の相手をする時だけ、その靴を履くのだ。軽くて走りやすいから、確かそんな理由だったような気がする。それはそうだ、ランニングシューズはもともと陸上競技用の靴である。 「何で入らないの」、弟は怪訝そうな顔をして、なかなかリビングに入ろうとしない自分の姉を見つめた。少女は、何馬鹿なこと言ってんのあんた、とでもいいたげな視線を彼に向け、一言。「あたしの大好きな2人が向かい合ってるとか、素敵すぎて入れない」弟は本気で自分の姉を心配した。 あきれ返った弟が隣の和室に戻っていくのとほとんど同時だったように思う。リビングにいた女性が、廊下の少女の気配に気がついた。 「ちゃん!」 少女は、女性が自分に向かって笑いかけてくれたことに対する喜びと、自分の好きな空間が終わってしまったことに対する残念な気持ちとが入り混じって、「久しぶり!」と言った声が変に裏返ってしまった。 「ちゃんにお願いがあるのよね」 女性は言う。少女は内容も聞かずに、2つ返事でそれを承諾した。兄がため息をついたが、気にしない。台所から顔を出した母に、手洗いうがい!と咎められて、少女は仕方なく洗面所へと走った。女性は楽しそうに笑う。兄は相変わらずの呆れたような表情で、女性に向かって、「本気?」と聞いた。えぇもちろん!輝かんばかりの笑顔で言われ、兄はそれ以上は何を言っても無駄だと観念したらしい。ばたばたばた、少女が戻ってくる。 「で、なに?」 「うん、東京都選抜のマネージャーやってみる気、ない?」 「いいよ!」 再び少女は迷う間もなく承諾の返事をした。代わりに兄が、何の、と聞く。もちろん兄は既に女性からその話を聞いて知っているのだが、このままでは妹がその東京都選抜について、何も聞かないことを知っているため、取って代わって聞いてやったのだった。女性が再び笑う。 「サッカーに決まってるじゃない」 凛とした透き通る声で女性は告げた。少女は、やっぱり!と叫ぶと何故か兄に抱きついた。問答無用で付き返される。 「いいのかよ、お前今年は3年になるから生徒会が大変になるとか言ってなかったか?」 「そこはまったく問題なし!景吾がどうにかしてくれると思うから?」 兄は妹の所属する生徒会の会長を思って合掌した。 なになに、自分が思っていたよりも面白そうな会話だと思ったからだろうか、隣の和室で、友人から借りた少年漫画を読んでいた弟までもが参戦した。「玲ちゃん、東京都選抜の監督か何かやるの?」不思議そうに弟が訪ねる。マネージャーとして姉を引きずりこめるのだからそれなりに権力があるのだと弟は思ったらしい。しかし女性は、「いいえ、ただのコーチよ」と言った。優雅に紅茶をすする。しかも、と兄が続けた。「玲、その話まだ確定じゃないんだろ?」 「そうね」 あくまでも気にした様子もなくさらりと言った。少女はそんなことはどうでもいいらしい、そうだよね!などと適当に頷いている。ここで母がクッキーを綺麗に並べたお皿を持ってやってきた。ことりとそれを机に置くと、さっさと台所へと戻っていく。少しだけ暑いリビングの温度を下げるために兄はソファを立ち上がった。ついでに母の手伝いを少しだけしてから暖房のリモコンへと向かう。ああいうところが隆也の良いところよね、女性が言うと、少女も頷いた。 「で、本題なんだけど」 少女は女性の声に身を乗り出す。 「そもそも私が任されるとしたらそれはBチームであってね。どうせ秀でた子たちは皆Aに持っていかれるんだろうから、ちょっと一風変わった子たちを集めてみようと思うの」 「なるほど、そのお手伝いをすればいいんだね?」 少女は言った。弟が、いいなーおもしろそー!と声をあげる。戻ってきた兄に、お前は野球やんなきゃなんねぇだろ、と言われても、まだ諦めきれないでいるようだった。野球、という言葉を兄が発したことによって、女性は何かを思い出したように顔を変化させた。首をかしげて少女がその理由を問うと、今度は申し訳なさそうな顔になる。 「そこが問題なんだった。ちゃん、隆也の野球、見に行く機会減っちゃうけどいいの?」 女性のその質問に、少女は何だか拍子抜けしたようだった。なんだそんなことか、そう顔に書かれている。 「全然問題なし!隆兄の高校別にそんなに強くないから、最初はきっと練習とか見ててもつまんないもん」 あからさまに兄の機嫌が降下したが、そこはあまり問題にならなかった。だから榛名さんとこ行けばよかったのに、弟のこの発言の方が兄を怒らせたからだ。女性はからからとシルバーを回すと、残り少なくなっていた紅茶を飲み干した。それを見た兄がすかさずお茶をティーポットから注ぐ。ちゃぽちゃぽと心地よい音がリビングに響いた。 「今日、うちに来れるかしら?」 女性が言う。もちろん少女は迷わず首を縦に振った。兄がイライラとした口調で、お前明日は生徒会の集まりあるんだろ、と言う。泣きそうな顔で、兄によって殴られた頭を抑えながら弟も頷いた。弟と兄は、昨日電話越しに、生徒会長と言い合う少女を見ていたのだ。 「大丈夫、明日テニス部休みらしいから、忍足とか樺地くんとか、その他もろもろ総動員させて、景吾がどうにかしてくれるよ」 まったくもって大丈夫ではなかった。 そうと決まれば少女の行動は早かった。階段を駆け上がって準備をしに行く。どうやら泊まるつもりらしかった。女性も女性でそれを当たり前のように受け入れて、自身の家へと確認の電話を入れる。「もしもし翼?おばさんに代わってもらえる?」 兄と弟は顔を合わせると二人同時に肩を竦めた。 少女の名前は阿部。 これは、馬鹿みたいにサッカーを愛する町で兄弟と野球をして育ってきた少女の物語である。 → ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ やってしまった、おお振り×笛!×庭球王子。 08年04月07日 |