君恋ひてのち


   


 後ろ姿を追って階段を下り、いつかと同じように手を伸ばして手首を掴もうとして、さすがに驚かせるだろうかと躊躇する。その一瞬でまたは先を行ってしまった。人の流れに任せて郭も同じように改札を出る。一度も振り返らない少女の名を、やっとそこで呼んだ。

「…えっ、郭!?」

 悠々と住宅地の方へ歩み始めていたが、さすがに足を止めている。道路を挟んで向こう側。信号で隔てられてしまったので、声を上げた。

「待ってて」

 通り過ぎていく車が水を撥ねる。相変わらず空はどんよりとした曇天ではあるものの、雨は通り過ぎたようだった。湿った空気がロータリーに溜まっている。
 いつもよりも何倍も時間がかかったように感じられた赤信号の時間がようやく終わり、横断歩道を渡る。電柱の横で大人しく郭を待っているが、何度か瞬きをした。まるで本当に郭がそこにいるのかどうか、確かめているようだ。

「びっくりした…」
「あのね、あのままで大人しく帰すと思う?」

 うっ、と小さくうめき声をあげたところを見ると、ある程度わかってやっていたのだろう。元々言い逃げるつもりだったらしい。
 辺りは住宅街だった。ひとつだけチェーンのカフェがあるけれど、長居をするつもりもない。郭の様子から、その要望を感じ取ったらしいが、こっちに来て、と手招きをする。導かれるままについていった先は、小さな談話スペースだった。駅と併設されているのは見かけるが、目の前とは言え離れたところにあるのは珍しい。等間隔で丸テーブルとイスが置かれている。いくつかは地元の小学生が占拠してゲームに興じているが、人はあまり多くない。なるべく人目につかなそうな場所を選んで、郭たちは腰かけた。

「で?」
「で?って言われても…、郭こそ、で?」
「追いかけて来たのは俺だけど、話を勝手に終わらせたのはでしょ。あれは、どういう意味だったの」

 誰かのものになるのも嫌だった。
 と、この少女は言った。この言葉だけならば意味もそのままに受け取ることが出来るけれど、その前に、中学3年の春に、このという少女は、好きだけど付き合いたいわけじゃない、などと宣っていたのだ。

「我儘じゃない?」

 素直に感想を述べたら、また小さく唸って黙り込んでしまった。

「じゃあ聞くけど、郭はあの時私が付き合ってほしいと言ったら付き合ってくれた?」
「付き合わないと思う」
「………」
「何でそんな不満そうなの。付き合わないけど、ちゃんと考えたよ」

 何かを言おうと口を開きかけては閉じるを繰り返していて、が答えを言い淀んでいることはわかる。
 郭自身が、皆で騒ぐよりは自分のやりたいことをひとりでやっていた方が幸せで、比較的言葉を発することに慎重になるタイプではあるけれど、言いたいことを言えないというタイプでもない。それはとて同じだと思っていたが、どうしてか言葉を呑み込んでいる。どうしても何も、振られたと思っている相手が目の前にいればそうなるのも道理だけれど。
 、と名前を呼ぶと、唸り声でも上げそうなほどに悩んでいる風で黙り込んでいたが、ぱっと顔を上げる。ぱちりと合った視線が逸らされないようにと、じっと見つめ返したまま郭は続けた。どうしたかったの、と。瞳が揺れる。さすがに、言い逃れはできないと悟っているのか、目を逸らされることはなかった。

「…私には、まだ、夢とか将来のやりたいこととかはなくて」

 ぽつりと零れ落ちるように紡がれた言葉は、郭が予想していたものではなかったけれど、遮ることはしない。うん、と相槌を打つと、少し安心したのか視線が落ちていった。逃げようとしているわけではなく、気持ちを落ち着けるためなのだろう。

「どれくらい、郭がサッカーにかけているのかとか、それ以外をどう思っているのかとか、わからなかったけど、…そこに私はいないわけで」

 そこ?と郭が問う。がまた一瞬躊躇って、それから笑った。

「大袈裟にいうと、未来?」
「………それはなんていうか、まあ、大げさだね」
「そう、大袈裟なんだよ。でも、言葉で表すならそうなると思う。…進路希望調査表を、私に預けたこと覚えてる?あの時、偶然中身が見えてしまって、当たり前なんだけど私と郭の進路は同じじゃないから、急に驚いたというか、焦ったというか。ああ、この人の進む先はずっと続いているけど、そこに私はいないんだなって思ってさ」

 寂しいけど仕方ないし、どうにか残そうと思ったのがひとつ。
 は何か吹っ切れたのか、妙にさっぱりした口調だった。ほんとに我儘だよねえ、と笑う。我儘、というのが何にかかっているのか、郭の想像したものとは少しずれているように思ったけれど、広義の意味では同じなのだろう。
 他人の将来に自分を残したいだなんて、確かに限りなく我儘で傲慢だけれど。

「友達…、ではなかったでしょ。なんだろ、クラスメイト?同窓会があったら会えるけど、連絡をして会うような間柄でもなかったし。クラスが同じ間は少しだけ特別だけど、そこから抜けたら、ただの元クラスメイトになっちゃう」

 同じグループに所属していたわけでもなし、確かに卒業してから今までも一度も会っていない。中学生の自分たちは、2人で誘い合って出かけるにはまだまだ子どもだったし、恋人という立場になれたかというと、郭が先ほど述べたとおり、きっとなれなかった。もそれをよくわかっていて、それでも残したかったのだろう。
 何となく、言いたいことが読めてきたような気がした。正式に断られてしまえば、それはきっとどこか関係をぎこちなく変えてしまうから、差し出すだけ差し出して、返答は受け取らないという道を選んだのだ。
 やはり、どう考えても自分勝手で我儘だ。
 結局、の思惑通り、郭の中に彼女は残ることになったし、誰のものにもならなかった。

「告白しなかったら、俺は誰かのものになると思ったの?」
「うーん、あんまり想像出来なかったけど、ゼロではないし、学校の外の世界だったら全然わからないなと思って」
「…うまいことやったね?」

 郭がため息をつくと、が眉尻を少し下げて苦笑した。

「そうでもないよ、そもそも、郭が何か返事をしそうな気がして焦ったし」
「…そこは大人しく貰っておいてくれても良かったと思うんだけど」
「駄目だよ、だって付き合わないんでしょ?どんなに優しく言ってくれたって、微妙な関係になっちゃう」
「でも、はあれで俺に振られたと思ってたよね?」

 あの突然の告白があってから、中学を卒業するまでの間、は一度もその話題に触れなかったし、触れさせてくれなかった。言い包めようと思えば出来たけれど、そうしたら最後、卒業までの間に関係が変わってしまうような気もして、結局出来なかった。付き合いたいわけじゃない、とは言うものの、それは郭が絶対に選ばないだろうという変な自信から選ばざるを得なかった選択肢で、確かにそのとおり恋人関係になるつもりのない郭には、それ以上どうすることも出来なかったというのが事実だ。

「ずるくない?」
「ずるくないよ、そうじゃないと私がただつらいだけじゃん」
「俺のこのもやもやとした感情はどうなるの」
「もやもやするのは傷つくわけじゃないでしょ」
「何なのその理屈」

 あまり気持ちの籠っていない、「ごめんごめん」という謝罪の言葉が投げられて、郭は再びため息をつく。

 今日、この少女を見かけたのは本当に偶然だった。偶然だったけれど、好機を逃すようなことはしない。あの時に返せなかった言葉を、ちゃんと届けたかった。相手の空気に呑まれて蓋をしたけれど、今はもう、貰ったものに対してこちらが持っているものを差し出したところで問題ないだろう。

 あの時、たったの2年間だけの期間限定ではあるけれど、確かに自分にとっても特別だったこの人に。

、今度は俺が勝手に我儘を言うんだけど」
「言い返せない状況を作ってから言ってくるところが本当に郭…」
「わかってるならとりあえず聞いてよ。少し、時間がほしい」
「………時間というのは」
「どうやったら同じ未来を少しだけ共有出来るのか、考えさせてほしいし、何なら一緒に考えてほしい」

 恋人がほしいとか。
 未だに思っていないけれど、それは頭ごなしに否定したいわけではなくて、世間一般で言うところの恋人関係は不要だと思っているだけで。
 互いの将来の先が交わらないことを少しでも嘆いてくれた少女なら、共に歩むことも出来るかもしれないと思ったのだ。未来ね、とが可笑しそうに笑う。自分で言っておいて面白くなってしまったらしい。

「考えてくれるんだ?」
「そりゃね、誰かさんが勝手に残していってくれたもので」

 思った以上の効果だなあ、が嬉しそうに微笑む。転がされたような気もするが、本人も時を経た今となっても逃げようとするくらいには自信がなかったのだと思うと、引き分けというところか。勝負をしていたわけではないけれど。



 君が恋をしてのち、それを引き継ぐように始まった恋は、ようやく2人並んで歩けそうだ。







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夢アンソロ『あの日のあした』キリ番企画でした。 市原瑶さんに捧げます。
リクエストいただきまして、ありがとうございました!久しぶりの郭英士、楽しく書かせていただきました。
サイト掲載、すっかり忘れておりました…。ピクシブからはこれにて撤退です。 少しでもお楽しみいただけていれば幸いです。

20年1月25日 ピクシブ掲載
21年5月8日 サイト再掲

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