※「確かに恋だった」と若干繋がっています(読まなくても問題ないと思いますが)※





 これから先、こんなにも自分を好きになってくれる人はいないだろう、と思っていた。
 だからこそ、最初にその感情を見なかったことにした瞬間を、黒子は鮮明に覚えている。

 やめてください、と黄瀬の言葉を制したその声は、思いの外よく響uいた。黄瀬よりも、発した本人の黒子の方が驚いた。そんなに力を込めたつもりはなかったからだ。黒子は視線を上げられずにいた。黄瀬の視線が突き刺さるのを首筋の辺りに感じながらも、どうしたって顔を上げることはできなかった。ゆっくりと視線が外れ、黄瀬がゆらりと揺れる気配がした。それでも黒子の視線は自分のつま先に向けられたまま動かない。するとそのうち、黄瀬が感情の読み取りにくいほとんど息だけの声で、黒子を非難した。
「・・・・アンタ、ほんとにずるいよね」





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 始め、その男は忘れ物を取りに来た、と言った。インターホン越しにそう言われ、この間遊びに来たときに何か忘れたのだろうと黒子は判断し、どうぞと彼を招き入れた。にこりと歯を見せずに静かに微笑んでいる黄瀬に、違和感が無かったと言えば嘘になる。けれどそれは些細なものだったし、気にしたところでどうするつもりも無かったので、結局黒子は何も言わずに黄瀬を部屋に引き入れたのだ。

「すみません、ちょっと仕事していたので散らかってますけど」
「お構いなくー、押しかけちゃってごめん」
「急ぎの仕事でもないんで、それはいいんですけど。で、忘れ物ってなんです?君が帰ってから、特に何も無かったと思うんですが」

 部屋に足を踏み入れてから動かない黄瀬を振り向いて黒子が言った。うん、と返事として成立していない言葉を吐きだし、黄瀬はやはり動かない。かと言って部屋を見渡して目的の物が無いので帰ろうとしている、わけでも無さそうだった。

「黄瀬君?」
「・・・・うん」
「・・・・それは先程も聞きましたが。答えになっていませんよ。忘れ物、したんですよね?ここに」
「黒子っちさ、今ちょっと時間ある?」
「・・・・時間はありますが、お願いですから会話してもらっていいですか?話はそれからです」

 呆れ声で黒子が言えば、そこで黄瀬はようやくいつものように笑い、ごめんごめん、と軽い調子で答えた。フローリングにパタパタと来客用スリッパの音を響かせながら歩いてくる。黒子にすすめられるがままにソファに腰を降ろし、何か荷でも降ろすかのように長い息をひとつ付く。黒子はお茶を煎れるために立ち上がり、キッチンへと消えた。黄瀬は視線で追いかける。「緑茶でいいですか?」そう言う黒子の声は、ポットから急須にお湯を入れる音と重なっている。

「嫌だって言ったら?」
「何も出ないだけです。珈琲切らしてるんで」
「なるほど」

 すぐに随分と洒落た急須を手にした黒子が戻ってきた。一見、真っ青で明るい色合いのそれは陶器のようにも見えるけれど、よくよく見れば鉄器だった。

「何か珍しいっスね、それ」
「綺麗でしょう?南部鉄器です。雑誌で見かけて欲しいなと思っていて。丁度車で秋田まで行くという紫原君に頼んで、盛岡で買ってきてもらったんです」
「・・・・俺学生の頃に一回車で秋田まで行ったことあるっスけど、秋田に行くのに盛岡って通らないよね?」
「そうなんですか?」

 確か北上で分岐したはず、と黄瀬が記憶を辿っても、黒子は北上と盛岡、秋田の位置関係がいまいちピンと来ないようで、ふうんじゃあ北上で買ったんですかね、と言っただけだった。何だかんだと中学時代のチームメイトは黒子に甘い。それは黄瀬も例外ではないのだけれど。
 学生も終わり、彼らは社会人になった。緑間だけは医者を目指して今も勉強中だが、黄瀬は軌道に乗った俳優業を続けていて、黒子は小説家を目指しつつ、ライターや翻訳などの仕事をして細々と稼いでいる。青峰と紫原はプロのバスケットボールプレイヤーになった。赤司は父親の会社の系列だというどこかの立派な会社でサラリーマンとして活躍しているはずである。一人暮らしのマンションなど、さして広いわけでもないのだけれど、どういうわけかたまに黒子の家に集まってお互いの近況を報告したりしている。酒を酌み交わすこともあれば、本当にぶらっと寄るだけのこともある。全員揃うのは稀だった。この家に自然と集まってしまうのは、黒子が自宅で仕事をしていることが多く、大抵家にいるからかもしれなかった。
 三日前も緑間と黄瀬、紫原が集まったばかりだ。その名残を探すように、黄瀬は視線を滑らせていく。けれど何も残っていなかった。相変わらず味気ない部屋だ。掃除が苦ではない黒子は、来客があった次の日には綺麗に掃除してしまう。跡形など残るはずもなかった。

「それで、用件はなんですか?」

 黄瀬の隣に腰を沈め、黒子が湯呑を両の掌で包み込みながら問う。

「んー、さっきも言ったけど、忘れ物を取りに」
「それって、時間要ります?」
「要るんスよー。俺一人じゃ無理だから」

 黄瀬はなぞかけのような返答をした。表情はこの家に来た当初のように、静かな笑みを称えていて、黒子は直感で、避けなければならないと悟った。けれど時間があると答えたのも話題を振ったのも黒子で、自然に避けることは不可能だ。涼しげな目を細めて黒子を見下げる黄瀬に、黒子は観念したように溜息をついた。

「厄介事じゃないんですよね?今は時間がありますが、今後時間を取られるのは困ります」
「それは黒子っち次第じゃないかなー」
「随分もったいぶりますね」
「俺たちのお姫様が泣いたんでね」

 黒子の動きが微かに強張った。しかしそれはほんの一瞬で、黒子はすぐにいつもと変わらぬ声で「知ってたんですね」と黄瀬を見上げ、言った。

「あ、でも別にそれを咎めてるとかそういうわけじゃないんで。黒子っちがちゃんと桃っちのこと大切に想ってたのは知ってるし。桃っちには最終的に帰るところもあるし大丈夫だと思ってるし。俺が言いたいのは桃っちのことじゃないんスよ」

 黄瀬の視線は変わらず柔らかく細められたままだ。黄瀬の言わんとしていることなど、黒子にはとうに分かっていて、居心地悪さに身じろぎをしたいくらいだった。けれど何とかそれを留めているのは、黒子が今までどうにかして保ってきた、小さな、だけどとても強固なプライドのおかげだった。黄瀬が瞬きするたび、世界が揺らいでいくような心地がする。それくらい、今、黒子のいる小さな部屋での黄瀬涼太の存在は、とてつもなく大きいのだ。

「黒子っちはさ、人の気持ちを整理するのが上手でしょ?中学の頃に置いてきた黒子っちの色んな感情をさ、そうやって黒子っちの中で整理して、ちゃんと終わらせてる。ひとりよがりにならないように、相手を傷つけずに上手に処理して。赤司っちでしょ、青峰っちでしょ、桃っちでしょ。ねえ、だからさ、そろそろ、」

 俺の番だよね、そう言う黄瀬は、やはりひどく静かに笑っている。
 忘れ物を取りに来た、と黄瀬は言った。物理的な問題ではなかったのだ。随分と昔に置き去りにしたとても曖昧なものを、黄瀬は取りに来たのだった。それは黒子にとっても形を成していないような本当に不確かなもので。



 そうなのだ、黄瀬への感情ほど、曖昧で脆くて不確かなものはない。



 世界が歪になっていった中学の頃、剥き出しのままの黄瀬の感情や言動に、たくさん傷つけられたことも事実だけれど、弟子であって友であって仲間であって、ライバルであった彼に救われていたこともまた事実だった。けれど信じていた光が揺らいで失われつつあったあの状況下で、それに寄り掛かることは出来なかった。だから黒子はひとつひとつ分解して無理矢理別々のフォルダに分けたのだ。小分けにされた感情は、それ以上何の意味も持たず、ライバルとしての黄瀬はライバルとして、友としての黄瀬は友として、それぞれが独立していて、それ以上の存在になることは無かった。
 かけ合わさると別の名前がついてしまいそうだった。
 だから絶対にその状態のままにはしなかったのだ。きちんと分解した。そうやって折り合いをつけてきた。それを、黄瀬が今更また、かけ合わせようとするのである。
 黒子はいつの間にか視線を黄瀬から外していて、ぎゅっと縮こまるつま先をぼんやりと見つめていた。

「ちゃんと、俺のことも終わらせてよ」

 と、黄瀬が言い終わる前に、やめてください、と存外大きな声で制していた。黄瀬の顔は見ることができない。ゆらりと動く気配だけが黒子に伝わった。

「・・・・アンタ、ほんとにずるいよね」

 黒子を非難する黄瀬の声は、ほとんど聞き取れないほどに微かだった。

「何で俺だけ駄目なのか、全然わかんないっス。桃っちのことも、あのままなのかなって思ってたから、別に俺もこのままでいいやって思ってたんスけど、違ったから。じゃあ、俺もって思って。・・・・今日はとりあえず帰るけど、また来るよ」

 ぱらぱらと頭上に落ちる、透き通った黄瀬の声を聞きながら、黒子は項垂れたままだった。バタンと玄関の扉が閉まる音がするまで顔は上げない。別に泣いているわけではなかった。ただ、思考を止めた頭がどうしようもなく重たくて、黄瀬が支配する世界ではあげることが出来なかったのだ。黄瀬の気配が完全に消えて、黒子はようやくのろのろと首をあげる。はあ、と大きく息を吐き出すと、幾分か楽になれた。

「・・・・君への感情に名前をつけられるほどには、癒えてないんですよ」

 瞼を閉じれば今すぐにでも浮かぶ情景がある。
 黒子っちー!と満面の笑みで近寄ってくる黄瀬。他人に向ける冷たい眼。自分に向ける柔らかい眼。
 当時、あれをどう受け止めるべきなのかわかっていなかったし、それに対して小さく芽生えていた自分の感情を、何と言えば良いのかもわからなかった。今ならわかる。けれど、今更フォルダを移し替えることなど、できるはずも無い。そもそも黄瀬の感情だってもう無いかもしれないのだ、黒子が置いてきたものだけを拾い上げたところでどうなると言うのだろう。ずるずるとソファから下がっていく。気持ちも一緒に沈んでいく。



 掘り返したら、後戻りなどできないというのに。



 


黄瀬を特別にしたくない黒子くん

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