長い長い廊下には、深い深い闇が横たわっている。 どこまで続いているかわからないような、真っ暗な先。それほど長さは無いはずなのに、あまりにも深い闇が数メートル先さえも飲み込んでいるせいで果てなき道に見える。 真夜中だというのに神田ユウは明かりも持たずにその廊下を突き進んでいた。団服もさらりと伸びた髪も漆黒のため、ほとんど闇と同化しているようだ。 しばらく進んで、ふいに目の前に扉が現れる。 つい先日も、この部屋に神田は足を踏み入れた。あの時に響いていた音は今は無い。 部屋の中からは物音はおろか、衣擦れの音さえせず、神田の規則正しい呼吸音だけがやたらと響いているように聞こえた。 一拍おいて、神田は扉をほとんど蹴破るように開ける。と、同時にまた目の前に飛び込んできたのは、赤。 デジャヴュ。 ただしあの時ほど鮮やかな赤ではなく、くすんだような赤だった。 真ん中には、白。 「・・・嫌なのが来た」 それは、ほとんど高低差の無い声を発した。神田は答えを返さずに、ズンズンと部屋を横切ると、錆び付いた窓を開けた。途端、真冬の厳しい風が部屋へと舞い込んでくる。寒い、とまた中央辺りから聞こえたけれど、神田は気にせず二つ目を解放した。ぎい、と耳に残る錆びた金属特有の音が鳴る。 「あ、神田、何か食べ物持ってません?お腹空いちゃったんですよねー」 「その花でも食ってろ」 「いやだな、これ、絶対まずいですよ。ラビが置いてったものですよ?」 だらりと左手を上げてアレン・ウォーカーは神田を手招きした。神田は顔をしかめてから、少し躊躇うようなそぶりを見せたが、結局ため息を一つついて部屋中に敷き詰められた薔薇を遠慮無く踏み付けてアレンの元へとたどり着いた。 「あーあ、潰れちゃった」 「お前も踏み付けてるだろうが」 「僕はいいんです、だってこれは僕のものだし」 神田なんかに踏み付けられちゃって可哀相に、花が。 相変わらず抑揚の無い無機質な声だった。 真っ暗な夜の世界に明かりはぽっかりと浮かぶ月だけ。それでもその見事な満月の光は十分に部屋を照らしてした。花で埋め尽くされているけれど、どこかもの寂しげな雰囲気だ。花が生きていないからだろうか。 「何しに来たんです?」 アレンはぼんやりとした表情で問う。その表情からは感情は読み取れない。 神田は寝そべるアレンを見下ろすだけで答えなかった。 ――あいつ、殺しといてね。 数日前までエクソシストだった少年の声を思い出す。 ラビとアレンは奇妙な関係にあった。 似た者同士、という言葉が合うのかもしれない。 ラビは、ブックマン継承者としての地位を守るために、アレンは養父との思いを守るために、 人を踏み込ませなかった。 元来人懐っこく明るい性格の持ち主だったラビはいつしかそれに悩むようになり、 元来養父のためだけにと誓っていたアレンはより嘘が上手くなった。 決定的な亀裂だった。 くだらない、と。 その関係を本能的に察知していた神田は、くだらないと思っていたけれど。 「おいそこのモヤシ」 「アレンだって言ってんでしょ」 「いつまでそんなことやってるつもりだ」 「さあ、いつまでだろう」 きっと永遠です、と笑うアレンの顔は驚くほど覇気が無く、神田はあからさまに嫌悪感を露にした。「ならそこで死ね」、神田はくるりと踵を返すと扉へと向かう。ぐしゃりぐしゃりと、また花が踏み潰される音がした。「僕はですねえ」、扉の取っ手に手をかけた所で、後ろからそんな声が圧し掛かる。ぴたりと動きを止めて、ぎこちない動きで一応振り返ってみせた神田に、アレンは心底嬉しそうに笑った、気持ち悪いと神田は思った。 「僕はですねえ、まあぶっちゃけてしまえばラビなんていなくても生きていけるんですけども」 やっとむくりと起き上がったアレンは、パタパタと自分の肩やら首やらにくっついている花弁を叩き落とす。その仕草に迷いはない。 「ラビには僕が必要そうに見えてたのでなら一緒にいてやろうかなとか思ってたんですけどあの野郎あっさり手放しやがってびっくりです」 「びっくりはこっちの台詞だ馬鹿」 ひらひらとアレンが手招きをする。壮絶なる嫌な予感に苛まれた神田はもちろん指の一本だって動かさない。しばらく無言のやり取りが続いて、ぱたりとアレンの左腕が諦めたように動かなくなった。ちょっとだけそこにいてくださいとアレンが呟いて窓の外を見上げた。神田は自身の背を扉に預けて腕を組み、ちょっとだけ薄くなった甘い香に包まれた部屋の中心を睨む。 在りし日の、真っ赤な夕日を思い出す。 目の前には真っ赤な薔薇と、 真っ赤な、 「リナリーに、僕のこの腕嫌いって言われたんです」 目は相変わらず、切り取られた星さえも飲み込む真っ暗な空に向けながらアレンは言う。 「あ、神田にも言われましたけど。基本的に皆この腕に嫌悪感を示しておきながらそれをはっきりと口にすることはしないんですけど。特に、割と近しい人ならなおさら」 突然始まった話に、終わりが想像できなくて、神田は返事さえも返さずに、無言で続きを待っていた。ぽつりぽつりと話す言葉は、先ほどよりは、幾分高低があるように聞こえる。言葉が、無表情ではなくなった。 「ラビはほんとに何も言わなかったです」 僕に対して一切、アレンはゆっくりと立ち上がった。「いっそ神田くらい嫌ってくれた方が僕としては楽なんですけどね」、ぐしゃりぐしゃりと神田と同じように薔薇を踏み潰して扉に向かって歩いていく。口を結んだままの神田は、ちらりと視線をあげて、また元に戻してしまった。 「てめえも変わんねえだろ」 「まあ、そうなんですけど」 ぐしゃりぐしゃり。 花が踏み潰されていく。まっすぐ扉のところへやってくるかと思いきや、アレンは縦横無尽に部屋の中を歩き始めた。 ぐしゃりぐしゃり。 神田はその様子を黙って見て、そして聞いている。 「ラビは僕のこと、嫌いだったんですかね」 ぐしゃりぐしゃり。 踏み潰される花の音と、アレンの言葉が部屋中にこだまする。 「よくわかんないですけど、要するに、」 ぐしゃり、最後に一層大きな音を立ててアレンは神田の目の前にやってきた。 「僕もラビもうそつきだったってことですよね」 神田が、扉から背を離す。彼の横をするりと抜けると、アレンは部屋を出て行った。 部屋は、無残な姿になった花で埋め尽くされていた。 |