マリッジブルーには絶対なるものなのかと思っていた。 彼女をとても大切にしていて誰が見ても仲睦まじい同期は結婚式前に何故か相当落ち込んでいたし、学生時代の友人は結婚式一か月前に彼と大きな喧嘩をして、同棲までしていた彼が実家に帰るという事件が起こっていた。一番世話を焼いてもらっている営業部の先輩も、結婚式の予算や招待者について意見が割れ、些細な事での喧嘩が増えたと言っていた。 結婚というのは、当人たちの問題だけではないのだ、と意識せざるを得なかったのだ。家族になる、ということは、自分の家族と相手の家族もある意味親族になるということ。自分たちがいいからと言って、好き勝手に進められるものでもない。中学の頃の同級生は、相手の母親と気が合わず、憂欝だと言っていた。そういう障害があればこそ愛も育まれるものなのだと誰かが悟ったように語っていた。 なるほど、マリッジブルーとは結婚前のカップルには必ず訪れるものらしい、と思っていたのである。 「・・・・驚くほどそれが無いんだよね」 結婚式が指折り数えられる程に迫ってきたある夜、私は突然そんな事実に気付いて驚愕した。披露宴の招待者の席順を最終チェックしていた椎名は、私の呟きが聞こえたのか、その手を止めてテーブルを挟んで向かいに座る私に視線を向ける。 「何?」 「あ、いや・・・・マリッジブルー、来ないなと思って」 私の言葉の真意を理解しかねたらしい。椎名は微かに眉を顰めた。 「・・・・来なくてよくない?そんなもの」 「まあ、そうなんだけどさ、知り合いは結構な高確率で、いやむしろほとんどがそうなっていたと言いますか・・・・」 「それってただ単に言いたかっただけの人多いんじゃないの」 「それも一理ありますね、でもそうだとしてもさ、私には愚痴るほどのことも無いよ。全部順調」 最後に何かとんでもない試練でも待ち受けているのではなかろうかと勘繰りたくなるほどに、順調なのだ。 婚約してから今まで、一度たりともこの人の結婚を疑ったこともないし、こうして二人での生活が始まることは、日毎に幸せ感を増して私を包む。二人で準備をするだけでもこんなにも楽しいのだ、生活が始まればどうなるのか想像もつかない。 恋なんて出来ないかもしれない、と悲観的になっていた数年前からは考えられないような心境の変化である。 「私がさ、恋愛かどうかわかんない、って子どもみたいなこと言ってたのは覚えてるでしょ」 「そうだね、今考えれば僕もよく耐えてたと思うよ」 「本当にそうだよね・・・・。でも、まあ、無事こうして私は翼に恋して、今結婚まで辿り着こうとしているわけじゃない?」 椎名はもう一度、そうだね、と言う。口元に微笑みを湛えてそういう姿が何とも言えず格好良く、いつまで経っても慣れることがない。 「つまりさ、私、翼にしか恋してないようなものなんだよ」 恋だと自覚するにはあまりにも未熟過ぎた感情は、幼い頃にもあるけれど、少なくとも私が真正面から恋愛と向き合い始めたのは椎名と付き合いだした頃からであって、それから椎名以外の人に恋した記憶などないのである。 そうだ、ずっと彼に恋していて、そうしてその終着点へ向かおうとしている。 不安、というのとはまた違う。 ただ、その事実に、驚いている。 「・・・・あのさ、あー、?」 私の言葉を受けて俯き加減に瞳を閉じて何か考えていたらしい椎名が、歯切れの悪い言葉を投げて寄越す。なに、と先を促すと、再びあーとかうーとか意味の成さない言葉を何度も吐き出して、それから意を決したように、言った。目線は、下を向いたままだ。 「それ、結構な殺し文句なんだけど、自覚してないね?」 中々顔を上げないのは、照れているせいなのだと気付く。私は椎名の言葉をゆっくりと確かめて、「事実だし」とけろっと答えた。 「・・・・他の誰かと恋したかったとか、言わないよね」 「うん?」 「僕と結婚する前に、果たして僕で良かったのか、って思ったりしたわけじゃないんだよね?」 聞く人によっては、椎名が疑っているように思うかもしれないけれど、彼の声のトーンからはそんなこと微塵も感じ取れず、私の言葉を、私の気持ち通りに受け取ってくれたのだとわかった。 こういう、些細な事ひとつ取ってみても、彼と共に歩む未来を、眩しいと思う。 ただ、幸せだと思う。 「安心しなよ、。きっともう一生、は僕に恋し続けるんだろうから」 照れて俯いていたはずの彼が顔を上げると、そこにはにかんだ表情など残されておらず、自信ありげに笑うのだった。 「それは、僕も一緒なんだろうけどね」 椎名はそう言うと、また視線を手元の席順をプリントした紙に戻す。先ほどよりも彼が纏う空気は晴れやかだった。 恋など面倒だと思っていた。 恋をして誰かに干渉したり誰かに干渉されたりすることのメリットなど、無いものだと決めつけていた。 恋愛感情などなくても、自分はそれで満足していける人間なのだと思っていたし、仲の良い人たちを同じ土俵に並べて安心していた。 自分にはこんなに仲が良い友達がいて、それで十分なのだと。 けれど、こんなにも違った。 椎名に恋をしたら、自分の感情に色がついて、振り回されることもあったけれど、幸福感には上限がないことを思い知る。 誰か一人を特別に想うことで、他の人への接し方も少しずつ変化した。確かに私が怯えていた優先順位は生まれてしまったけれど、それは決して悪いことだけじゃない。誰にでも同じ分だけしか応えないよりも、その人の最大限まで応えようとする方が、ずっと誠実だった。 幸せだ、人生の中で、今が一番。 そしてそれは、一瞬一瞬毎に書き換えられていく。 「ねえ、翼、いつも言ってるけど、――――すき、だいすきです」 椎名翼誕生日企画サイト「0419」に投稿させていただいた長編でした。 翼からアプローチかけても靡かない子がいるとしたら、柾輝が好きか、そもそも人を好きになることに怯えている子の二択だなと思い、後者を書いてみた次第です。 一生分の翼さんを書いた気分です。 主催の夏乃みなさん、お疲れ様でした。 そして翼さん、誕生日おめでとうございました。 30歳の翼さんには正直興味ある。 休止宣言した割にはたくさん夢書いていました。満足です。 |