6月30日

さよならの準備 1

   


 携帯の呼び出し音で目が覚めた。無機質に鳴り響く音が頭の中でガンガンと回る。時計を見遣ればまだ8時で、私はそれを無視することに決めた。布団を頭の上から被って耳を塞ぐ。完璧に消し去るにはほど遠くて、結局30秒ほど鳴りつづけたそれを仕方なしに取り上げた。表示された名は、椎名翼。

「・・・・もしもし」
『さてはまだ寝てたね?休みだからってだらけすぎじゃない?』
「・・・・まだ8時なんすけど椎名さん・・・・」
がこの間見たいって言ってた映画、今日最終日だよ。イオンは朝9時半の回しかないみたいだけど、どうする?』

 映画、と私は呟く。言葉にした途端、頭の中がクリアになって、

「行く!行きます!30分後に迎えに来て!」

 と叫ぶように告げると電話を切った。

 大急ぎでベッドから降りると、パジャマを脱ぎ捨てて服を着る。昨日洗濯して畳んでおいたジーパンと、それからカッターシャツ。グレーのセーターを上から羽織り、完成。いつものスタイルだ。椎名とどこかに出かける時に、わざわざワンピースを着たりはしない。
 友人から韓国土産にと貰ったBBクリームを塗って、軽くアイシャドウをする。口紅は面倒なので、メンソレータムのリップクリームで潤わせたら、化粧も終了。ここまできっかり15分。
 冷凍庫で凍らせてある食パンをトースターに突っこんでから、鞄の中に財布やハンカチなど、最低限必要なものを詰め込む。映画館のスタンプカードを探していたら、チン!と軽快な音が鳴った。焼けたトーストにバターを塗って、それを食べる。最後は牛乳で流し込むようになってしまう。こんな食べ方は身体によくないとは思いつつも、もう癖みたいなものなのだ。
 大急ぎで歯磨きをする。この段階で毎回リップクリームを塗った意味がないことに気付くのだけれど、これまた化粧の流れでつけてしまうのだから仕方ない。口をゆすいで歯の汚れが取れたことを確認したら、完了。27分。
 ピリリリ、と携帯が鳴る。
 椎名がやってきたようだ。

「今行くー」

 一言一方的に告げてまたまた電話を切る。前にこのやり取りを見た友人たちからは非難の嵐だったけれど、椎名はそれに対してもう何も言わなくなった。これが普通なのだ。
 ドアを開けると梅雨特有の湿った蒸し暑い空気に包まれた。アパートの階段下に目を向けると、椎名が車の窓から顔を出して手を振っているのが見える。軽く右手を挙げてそれに応えると、ガチャリと鍵を回して、階段を駆け下りる。

「おはよー」
「ん、おはよう」

 すっかり定位置になった助手席に私が潜り込むと同時に、椎名はアクセルを踏んだ。



 椎名翼と知り合ったのは、3年前のスペイン旅行だった。特にスペインに思い入れがあったわけではないけれど、当時大学2年生で春休みに暇を持て余していた私は、2か月の短期語学留学をしていたのだ。大学で英文学を専攻していた私は、英語は既にお腹が一杯だったので、第二言語として履修していたスペイン語を選んだ。今思えばなんて安易な考えだろうと思う。たかだか2年弱週に2回学んでいただけで行ってみようなどと思ったのだから、若さとは恐ろしい。
 勢いだけで向かった私は、当然のごとく言語に苦労した。勉強しても追いつかないものは追いつかない。疲れ気味だった私に、気晴らしにとホームステイ先のホストマザーが良い店を教えてくれた。日本人がよく行くというイタリアンがあるらしい。何故イタリアン?と思いつつも、2週間あまりで母国語が恋しくなった私は、その店に赴いてみたわけで。
 そこで知り合ったのが、椎名だった。
 スペインで活躍するサッカー選手で、かつ日本代表だということは、日本に戻ってから知ったのだけれど。
 スペイン滞在中はそれから5回くらい会ったと思う。さばさばした性格同士、気が合って、私は日本の連絡先を椎名に渡して帰国した。帰ったら連絡するよ、と言った彼の言葉には何の裏表も無さそうで、私も笑って待ってるねなんて言ったりしたのだ。だけどそこには、恋愛感情染みたものはなかった。椎名にも当時彼女がいたし、私は恋愛する気などなかったからだ。



 以来、日本に帰ってきては、律儀に連絡をくれる。オフシーズンに数か月帰国する時は、結構な頻度で出かける。家が市内同士だったことも大きい。すぐ側の定食屋でご飯を食べたり、一人暮らしで車を持っていない私の買い物に付き合ってくれたり、その程度だ。

「朝ごはん買ってく?」
「え?いや私は食べたからいらない」
「はあ?」
「えっ、何?」
「・・・・どうせパンを牛乳で流し込んだとかそういうんだろ。どうなのそれ、うら若き乙女として」
「まあ、そうだね」

 何か問題でも?と椎名の苦言なんてどこ吹く風、私は勝手にCDを漁ると、お気に入りの歌手を見つけてそれをカーステレオに突っ込んだ。

「もう来年の4月から社会人ですから乙女とか言ってられませんー」
「・・・・なおさらどうなのそれ」
「大体、椎名に女子力アピールしたって始まらないでしょー」
「何が」
「青い春的なもの」

 椎名は眉をしかめている。綺麗な顔が歪んでもったいない。

「今回は長いんだっけ」
「あと3週間かな」
「ふうん。あ!そうしたら丁度良いや、家具買いに行きたいんだよね」
「家具?いいけど、どこに?」
「ニトリかIKEA」
「ニトリなら今日行けるんじゃないの?、この後の予定は?」
「特になしー」
「じゃ、決まり。映画見て昼ごはん適当に食べて、ニトリだな」

 信号が青に変わった。椎名はスピードを上げていく。何気なしに開けた窓から、風が入り込んできて、気持ちが良い。
 充実した休日になりそうだ。

 これで隣にいるのが椎名ではなく、恋人であれば完璧だったけれど、恋愛する気がないのだから恋人ができないのは当然だった。
 椎名も私なんかを乗せて可哀想に、と思いつつ、楽なのでこの関係は続いている。男女の友情なんてありえない、と少女漫画で読んだことがある気がするけれど、あれは嘘だったのだ。

「この車も可哀想にー、助手席に乗るのがいつまで経っても私っていう」
「むしろ一生が良いけどね、僕は」
「あーはいはい」

 椎名のことを適当にあしらう。それに対して椎名が呆れて、この話題は終わる。大体いつも、こんな感じだ。もう随分と前から。
 それに慣れてしまっていて、今更どうこうという気にもならないし、向こうも同じだろう。

 そう、私は思っていた。



 私、と椎名翼は、ずっと友達のままだと思っていたのだ。









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