人に対して気味が悪い、と思ったのはたぶんあれが初めてだった。
そこにいる人たちの注目を集めるほど格好は奇抜だったし(だって狐の面をつけていた!)、何故か笑っていたし、そりゃあもう強烈的な第一印象だった。変な人、と思う人は今までに何人も見たことあるけれど、気味が悪くて逃げ出したいと思うほど異様な雰囲気を放つ人は今までいなかったし、あんなのを人生に2回も見たら私はそれこそおかしくなってしまう。
何かまるで特別な日でもあるかのように晴れ渡った空と、人工的に備え付けられた鮮やかな緑がおそろしいほど似合わなかった。
男の周囲には人はおろか、蝶の一匹さえも飛んでいなくて、とにかく全てが異質だった。たぶん私の勘違いなのだろうけれど、風さえ止まって見えたくらいだ。
男はしばらく私の存在に気付くことなくただぼんやりと空を見つめており(本当のところはよくわからない。だって彼は仮面をしていたのだから)、従ってそこから何故だか一歩も動くことのできない私はじぃと彼を見つめる形になった。ひどく緩慢、というよりも馬鹿みたいに虚無しかない時間が流れていく。
男を見ていることに耐えられない!と目が脳が全身が悲鳴をあげる一歩手前で、なんと非常に驚いたことに彼がくるりと振り返った。おそらく人生最速と思われるほどの、50m走をやれば間違いなく6秒台だ、とにかくそれくらい私としてはありえない速度で気付けば走りだしていた。もちろん男とは反対側に、だ。
このままできれば地球の反対側にあるサンバとかを踊っちゃう陽気な国に行きたいと切実に願ったところで、
「おい」
と、どうやら私は呼び止められた。
あんなに恐ろしくて逃げたいと思っていた相手だったのに、というよりもむしろ今現在全力疾走で逃亡を謀っていたところだったにも関わらず、私の体はぴたりと動きを止めた。
ぎこちない動きで振り返ると、男は変わらず空を見上げていた。
「何か、用でしょうか。それにあたしにはちゃんとって名前があるんですけど」
「『何か、用でしょうか』、ふん。用がなけりゃ呼んじゃいけないのか?」
「・・・・いけなくはないですが、大抵の人間は初対面の人を呼び止める場合何か用があると思います」
「俺は大抵の人間じゃなかったってことだろう」
そんなん見ればわかります、言いそうになった私の口を慌てて塞ぐ。
明らかに、誰が見ても異様な雰囲気を放つ男は私に話し掛けたことなどもう忘れてしまったみたいに、すぐ上空を飛ぶ蝶に合わせて首をぐらぐらさせている。
何度だって言ってやる、気味が悪い。
「おい」
前後に首を二度動かして、男はまた言った。だからです、と私は低い声でそれに答えた。
「お前、人を殺せるか?」
それは母が今日の夕飯はオムライスよと言う時みたいに何でもない風だったので、私の頭は軽く真っ白になった。
「ヒトって、え、ヒト?ヒトって何だっけ、あれ星型の海の生きもの?」
「なるほどお前が救いようのない馬鹿だということはわかった。人とは人間のことだ。英語で言うならばhumanだ」
「ですよね、じゃあコロス?え、コロ・・・?何だっけそれ」
「馬鹿なお前のためにわかりやすく言えば血液の流れを止めて呼吸を止めて一切の生命活動を止めることだ。その手段は五万とある」
「いやいやいや無理でしょ普通の人間にそんなことできるわけないじゃん何この人頭悪いんじゃないの」
頭悪いんじゃないの、ふん。
男はそういうと再び視線を蝶へと向ける。ひらひらと、頼りなさそうに舞う揚羽蝶は何が良いのか男の側から離れない。私はまたもや男から視線を外すことができずに、穴が開くのではないかと思うほど男を見つめた。何と表現すればいいのだろう、気味が悪いことは確かなのだけれど、例えば大嫌いな昆虫を見た時に感じるような、そういうものとはまったく違う。もっと、根本のところから、男は終わっているような気がした。
男の顔を眺めること数十秒、それは突然やってきた。
一瞬何が起こったのか理解できず、呼吸さえも忘れる。
辺りを見回しても何一つ変化など遂げていない。
ただの、絶望だった。
何に対して?たぶん、世界に対して。
全身から沸き起こるような負の力に私が呆然としているのに男が気付いたらしい。さっきまでそこら辺に転がる石ころでも見るような目付きで私を見ていたのに、何故か打って変わって興味深そうに上から下までじろじろと観察する。
もう男に対して恐いとかそういう感情はなかった。あるのはただの絶望で、それと男がイコールに見える。
ふわふわと蝶が舞う。
男の頭上でくるりと一度輪を描き、私の方へと飛んでくる。
綺麗だな、と思ったことなんてとうの昔に忘れた。男から離れなかったくせに私の元へやってきたということはつまり私があの男と同じということで。
思考が働いたのはそこまでだった。
ぐしゃりと右手に気持ち悪い感触がして開いてみれば無残な姿になった揚羽蝶がぱらぱらと落ちる。羽根についた鱗粉がふわりふわりと宙を私の手元から離れていった。
顔を上げて、男を見て。
ああこいつは殺せない
と、何故かそんなことを思った。
「くくくっ、なんだ、お前零崎みたいだな」
「・・・零崎?」
「そうやって突然殺人鬼になる連中のことだ」
「・・・・・さつじんき、って」
「そうかそうか、零崎人識を俺は探していたんだがな。まぁいいだろう少しくらいなら遊んでやるぞ」
わ た し の な か で な に か が は じ け た 。