世界が反転した。 気がつけば視界に入っているのは見慣れた天井と、それから長い長い髪。 ぐつぐつと煮込んでいたはずのミネストローネに視線を遣る、火は、消えていない。 ぐっ、と呼吸が止まる。呼吸が止まったことが上手く認識できなくて、思考が鈍くなる。そのうち酸素を求めて口が開いた。 視線をゆっくりと下方に移すと見えるのは長い腕。それが、胸を押し潰している。みしみしと骨が鳴る。 名前を呼ぼうとしても、声は愚か、空気さえも出すことは出来ない。仕方ないので上手く動かせない両腕をなんとか持ち上げて、私を押し潰す長い腕をぺしぺしと叩いた。 そろそろ、意識が無くなってしまう。 何度も何度も叩いた。 声に出せない名前を託して何度も叩く。 出夢くん。 出夢くん。 もう身体が言うことを聞かなくて、両腕がぱたりと動かなくなる。 瞼も重くなる、 視界が閉じる。 「・・・っげほ!」 意識を手放す直前で、突然呼吸が戻ってきた。いきなり大量の酸素を吸い込んで肺が驚いているのがわかる。呼吸の仕方を咄嗟に思い出せなくてもう解放されたはずなのに息が出来ない。ひゅ、ひゅ、と浅い呼吸音だけがやけにはっきりと聞こえてくる。 ぐい、と腕を乱暴に引かれて気づいたら私は出夢くんの腕の中にいた。優しく背中を撫でられる。赤子をあやすときのように何度もゆっくりと。 その手の動きに合わせてなんとか呼吸を整える、吸って吐いて、吸って。 「・・・い、ずむ、くん」 何とか名前を搾り出すことが出来た。 「ど、したの」 返事はない。代わりに、ぎゅうぎゅうと強い力で抱きしめられた。顔も見ることは出来ないけれど、何故か泣いているような気がして今度は私が彼の背中をさすってやる。 驚いた。 こんなにも不安定な彼を初めて見た。 変にテンションの高い彼ならば何度か見たことがあるけれど、落ちている彼は見たことがない。 私は、匂宮雑技団のメンバーじゃない。 代々所謂スタッフのようなものをやっていて、情報や物質を提供することが主な仕事だ。しかも、まだまだ子供の私はほとんど関わったことがない。ただ、母に連れられて何度も本家に行ったことがあって、そこで出夢くんと知り合った。 雑技団が生業とする殺しについて、私は何も知らない。ただ、ほとんど年齢の違わない出夢くんが、それに借り出されていることだけはわかる。 黒く変色した染みが、体中にこびりついていることに気づく。 仕事で何かあったのだろうか、と考えてみるけれどわからない。 よくよく見れば彼(彼女?)はセーラー服に身を包んでいて、珍しいその格好に、余計驚いた。 どれくらい時間が経ったのだろう。 ふいに出夢くんが私を呼んだ。 「疲れた」 「・・・うん」 「疲れた疲れた疲れた」 「零崎くん、と、何かあった?」 私の言葉に出夢くんは一瞬だけ全身を硬直させて、それから締め付けていた腕をだらりと下げた。代わりに顔を肩に押し付けられる。さらさらの綺麗な髪を何となく梳いてみる。 私は零崎くんと直接的な面識はない。ただ、ここ最近出夢くんが嬉しそうに話してくれるから、存在を知っているだけだ。 殺し名序列3位。 最も忌み嫌われる、零崎一賊。 本来ならば、匂宮の出夢くんが零崎一賊の子と仲良くするなんてありえないことで、ありえてはいけないことのはずだ。だからこそ、出夢くんは、理澄ちゃんと、それから匂宮とはほとんど関係がない、でもこちらの世界のことを少しは知っている私にだけ、宝物を分けるみたいにちょっとだけ話してくれていたのだろう。 「、」 「うん?」 「今だけ、今だけだ、これで最後にするから、これからは理澄だけだから」 じわり、出夢くんの頭が乗っている肩が熱くなった。 「――――人識」 ぽつり、と。 呼んだその名に込めた想いは、きっと相手には届かない。 |
END ++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 出夢くん夢でした。出夢くんは人識くんが好きすぎると思う。逆も然り。 10年04月20日 |