海に行こうよ。





 明日の祝日を挟んで次の日は、一学期の終業式。各教科から出された宿題に不満を漏らしながらも、もうすぐ始まる長期休暇に、生徒が色めき立っているのがわかる。も例に洩れず夏休みにうきうきしながら、本日最後の仕事、生徒会業務に追われていた。終業式の打ち合わせを終え、配布プリント、生徒会だよりを印刷し、それを持って職員室へ向かうために、生徒会室を出る。もう夕刻だというのに、さすがは夏、まだまだ明るく太陽がその存在を見せ付けていた。プリントを落さないようにと一歩一歩確かめながらゆっくりと階段を昇っていると、ふいに声をかけられる。プリントの山と、それからバランスを取るために少し体を傾けていたこともあって、振り返ることができずにいると、目の前からプリントが半分ほど消え、視界がクリアになった。

「重そうだね」

 の視線の先で、恋人、郭英士が微笑んでいた。

「英士!」

 驚いて、は目を見開く。
 郭はクラブユースに所属しているために、学校の部活動には参加していない。そのため、放課後はすぐに帰ってしまうことが多いはずで、授業終了から大分経っているこの時分まで残っていることは珍しかった。

「どうしたの、珍しいね、こんな時間までいるの」
「うん、と一緒に帰ろうと思って」

 の隣に、郭が並ぶ。え?と聞き返したに、とりあえずまずこのプリントを運んじゃおうか、と郭は階段を昇り始める。一瞬遅れて、も郭の後を追う。
 生徒会顧問にプリントを渡し終えて、失礼しましたと静かにが廊下に出ると、壁に背を預けながら、ひらひらと手を振る郭がいた。が小走りに駆け寄って行くと、ゆっくりと郭も近づいてくる。

「一緒に帰る・・・って、言ってくれればよかったのに!あたし、もう少しかかっちゃうよ?」
「いや、今日帰ろうとして思い立っただけだから、急だったし。俺、明後日からユースの合宿始まるから、一学期のうちにと帰れるのは今日が最後なんだな、と思って。だから勝手に待ってたんだけど、今日予定あった?」
「特にないけど、でもほんと、あと一時間くらいまだ掛かるから、結構待つことになっちゃうよ?既に2時間くらい待ってるでしょ?」
「まあ、でも夏休みの宿題、大分進んだし、丁度よかったよ。たまたま教室にワーク取りに戻ったらが見えたから」

 職員室にプリント届けたら適当に休憩していいよ、と会長から言われている。はその言葉に甘えて、少しだけ話し込むことに決めた。

 と郭が付き合い始めて、約半年が過ぎた。幸いというべきか奇跡というべきか、と郭は中学一年から三年の今まで同じクラスで、毎日お互い顔を合わせている。教室でまでベタベタするような関係ではないけれど、それでもふとした瞬間に合う視線だとか、休み時間にふいに届く相手の声だとか、そういう小さな幸せが、二人を包んでいる。
 一緒に登下校をするのはが生徒会の無い日で、従って業務が忙しくなる総会前や学期終わりなどはあまりそれは叶わない。思い返してみても、最後に一緒に帰ったのは一週間以上前だった。

「宿題って、何やってたの?」
「数学。八割くらい終わったかな」
「そんなに!?」

 他愛も無い会話を、ぽつぽつと繰り返していく。職員室から少し外れた廊下の曲がり角は、放課後に生徒が通ることはあまりなく、居心地が良い。真夏だというのにひんやりとした廊下の壁が気持ちよくて、は腕をぴったりとつける。伝わる冷たい感覚に、思わず身震いした。
 10分ほど話したところで、の携帯電話が振動した。周りに先生がいないことを確かめて、それを取り出すと、メールが一件。

「誰?」
「会長。・・・あー、ごめん英士、やっぱり一緒に帰れないかも・・・、仕事増えた」
「そう?わかった」

 あっさりと引いた郭に、拍子抜けしつつ、しかしやはり待っていてもらった手前、申し訳なさからごめんねともう一度謝るに、「勝手に待ってたのは俺だし、気にしなくていいよ」と優しく郭は頭を撫でた。

「ねえ、、明日映画見に行く予定だったでしょ?変更してもいい?」
「変更?別に構わないけど、どこか行きたいところでもあるの?」
「うん、海に行こうよ」

 海の日だから、と珍しく年相応にいたずらっぽい笑みを浮かべた郭にが見とれている間に、もう一度携帯電話が振動して、今度は着信が告げられていた。いいよ、と慌てて返事をして、携帯電話の通話ボタンを押す。突然流れ込んできた他者の声で、世界が一気に変化した。
 またね、去っていく郭の背中を見送ると、も階段を駆け下りた。










 電車に揺られて、もう大分時間が過ぎた。長距離向きに作られた車内は、ボックス席になっていて、朝早いというのに、ほとんどの席が埋まっている。と郭は窓際を確保したことを、間違いではなかったとばかりに、飽きずにずっと窓の外に視線を向けている。高層ビルが立ち並ぶ都心はあっという間に消えてなくなり、住宅地に出る。神奈川の首都を通り過ぎたら、その先は、いつも見慣れた東京とは違う町並みが広がっていて、不思議な感覚だった。同じ住宅地のはずなのに、やはり知らない街である。住宅地から少し離れたところに見える、田んぼのせいかもしれなかった。

「泳がないんだよね?」
「うん、海水浴場に向かうわけじゃないから。足くらいは、入れるかもしれないけど」

 昨日、が家に帰ってみると、郭からのメールが入っており、今日の集合時間と、それから泳ぐわけではないから水着はいらない、という趣旨の伝言が記されていた。春先や秋に海に出かけるならば、泳がないのもわかるけれど、まさに海日和である七月の終わりに、泳がないなんて何をしに行くんだろう、とは首をかしげたけれども、自身があまり泳ぐことが好きではなかったため、了解とだけ返信した。
 ワンピースに籠バックと、随分夏らしい格好で現れただったが、その鞄の中に、海水浴のための用意は何一つ入っていない。

「泳ぎたかった?」
「うーん、いや、あんまり泳ぐの好きじゃないから、構わないんだけど、季節が季節だからちょっと気になって」
「今から行くところ、岩場になってて、泳ぐのには適さないみたい。15分くらい歩けばすぐに海水浴場にも着くんだけどね」

 明日の予定は?と会長に尋ねられて、海に行くよとが答えると、生徒会室にいた全員が意外そうに振り返ったのを思い出す。郭くんとか海のイメージあんまりないけどなあ、と誰かが言い、でも泳がないよ、とが応じると、ああそれならイメージ通りだ、と彼女はしたり顔で頷いた。海くらい、郭も行くのだろうけれど、皆の中では、あまり想像と結びつかないようだ。

「英士は?海、好きなの?」
「結構好きかな。結人と一馬と毎年行くよ」

 も何度か会ったことのある、郭の友人の名前があがり、自然と頬が緩んだ。何をするにも三人一緒というところも、きっと学校の皆の中では結びつかない、郭の一面だろう。

 ひとつ、郭が欠伸をした。珍しいと思いながらも、寝たら?とが提案すると、「せっかくといるから、そんな勿体無いことしないよ」とあっさり返される。そうは言ってもやはり彼はどこか眠そうで、本当に珍しいなと思いつつも、気を許してくれているということなんだろう、と思うと嬉しくなる。がもう一度、寝なよ、と静かに言うと、今度は大人しくそれに従った。
 寝息も立てず、微動だにもしない郭を視界の端に捉えながら、は再び視線を窓の外に向けた。流れていく景色の中にはビルなどほとんどなく、平淡な土地が広がっている。真っ青な空にぽっかりと浮かぶ雲と、照り付ける太陽が、冷房の効いていて少し肌寒いはずの車内でも、夏だということを実感させた。

 タタン、小刻みにリズムを刻みながら、電車は目的地へと進んでいく。





 降り立った駅のホームは、海水浴へ向かう人で賑わっていた。改札を通り抜けて駅から出ると、郭とは、人の流れとは逆の方向に向かって歩き出す。吹いてくる風は潮気を含んでいて、東京の風とは別物だった。海が近いことを物語っている。あまり海に行ったことのないは、自然とテンションがあがっていく。浮き足立った様子でコンクリートで舗装された大通りに出ると、郭が呼び止める。が振り返ると、家と家の間にある細い道を、郭は指差していた。
 なるべく日陰を歩こうということで、その細い道を歩いていくと、突然その道は終わりを告げ、目の前に青が広がった。

 海の見えるところに出たようだ。

 眼前に広がる青は、太陽の光を受けてキラキラと輝いている。

 たちが立っているところは、海面からまだ数十メートルも高い丘のようなところで、海を見下ろしていた。左側には下に向かう階段があり、その終わりは少しだけ広いスペースになっていて、ベンチがぽつんと置いてある。降りよう、と郭は言うと、の手を引いてその階段を下り始めた。

「すごい、良いところだね、ここ」
「そうだね、ずいぶん前に結人に教えてもらったんだけど、来るのは俺も初めて」

 木で舗装された階段を踏みしめながら下り、最後の一段を下り終えると、は思いっきり伸びをした。後ろにはすぐに崖のような、壁のようなものがあるけれど、目の前はただひたすらに海が広がっていて、開放的な気分になれる。どちらかともなく、ゆっくりと、ベンチに腰を降ろした。

「海の日に海って初めて来たな」
「俺も。なんとなく、行ってみたくなったんだよね」
「でも、いいね、こういうの。毎年海の日って、夏休み直前の中途半端な祝日っていうイメージで、あんまり出かけたりはしなかったなあ。どうせ明後日から夏休みだし、いいかな、って思っちゃって」

 カレンダーの都合上、海の日が金曜日と重なれば、前日が終業式になることもあったけれど、大抵の場合は、7月21日が終業式で、その次の日から、夏休みだった。そうなると、まだ夏休みが始まっていないこともあって、なんとなく遠出はせずに終わってしまうのだ。

「でも、あたし、祝日とか、イベントとか、そういうの結構好きなんだよね。皆で集まってパーティーがしたいとか、そういうんじゃなくて、ああ今日は何とかの日なんだなって思いながらこっそりとその気分味わったり」
「好きそうだよね、土用の丑の日とか」
「・・・土用の丑の日って例えが可愛くない」



 ザザン、と波が寄せては返す音がする。風に乗って、潮の匂いがする。
 眼下に広がる海の青と、頭上に広がる空の青。



 隣には、大切な人がいて。



 こういう、季節を感じる瞬間を、これからも一つ一つ並んで確かめたい、とは思った。去年の海の日はどこどこに言ったね、などと言いながら、毎年続いていけばいい。



「次は十五夜かな」
「いいね、みたらし団子買って、公園でも行く?」

 夜に公園でお月見か、とが感慨深げにため息をつくと、郭が可笑しそうに笑う。





 蝉が鳴く。
 肌が汗ばむ。
 駆け抜ける風と、子どもの笑い声がする。





 夏が、始まった音がした。








20.July






   

夢めくりプロジェクトさまへ
ハッピーマンデーよりも日付が決まっていた祝日が好きでした。
11年03月05日 HP再録