穴に落ちる瞬間、目が覚めた。
夢の中で、足元に暗い穴が前触れもなしに表れて、全身から血の気が引いていくよう、な全身の毛穴が開くような、あの嫌な感じが頭のてっぺんから足のつま先まで突き抜けたまさにその瞬間、三上は目を覚ました。
突然引き戻された現実にしばらく脳が追いつかず、少しだけ乱れた呼吸を無意識に整えながら、ぼんやりと天井を見る。見慣れたはずの天井が、不思議な色を帯びていて、まだ朝早いことに気がついた。
吸って吐いて、を繰り返して、深呼吸をたっぷり十ほどしたところで、ベッドの側で人影が揺らぐ。そこで初めて側に人がいることを思い出した三上は、ほとんど反射で起き上がると、その影はくるりと振り返った。
「なに?何か嫌な夢でも見たの?」
新聞を片手に訝しげに眉をひそめているのは藤代で、三上はそこでやっと自分の置かれている現状を思い出した。別に、と素っ気なく答えて体を動かしたとたんに襲ってくる倦怠感に、大きく舌打ちをする。
視界の隅で藤代が窓に背を向けて、少しだけ口の端を上げたのがわかり、三上はもう一度、けれど小さく舌打ちした。それに怯むことなく、藤代はけらけらと声を出して笑い、「しんどい?」と言う。「ありえねー、これで実験失敗したら責任取ってお前サッカーやめろ」言いながら三上は鉛のように重く動かない体を持ち上げて、緩慢な動きでフローリングに立った。足の裏から伝わってくる冷たさに、冬の気配を嫌でも認めざるを得ない。
そのまま藤代の横を通り過ぎて洗面所へ向かおうとしたところで、右肘を掴まれて動作を止められた。三上が振り返るより先に「そういえば、」と藤代の声が追いかけてきた。
「先輩、さっき携帯がずっと鳴ってたけど」
彼女じゃない?と至って普通の様子で言ってくる藤代の言葉に、三上はベッド脇の机に無造作に放り投げてあった携帯電話を掴む。きらりと光る着信を告げるランプ。履歴を見ようとボタンを押したところで、再び振動した。表示された名前にため息を付いて、そのまま携帯を放置しようとした、瞬間に藤代にそれは奪われ、通話ボタンを押される。『やっと繋がった!もしもし亮聞いてるっ?』機械越しに聞こえる甲高い声が、異様に非現実的だった。
藤代は奇妙なほど笑顔で、けれど無言のまま携帯電話を突き返すと、ひらりと右手を上げて、そのまま部屋を出て行った。
久しぶりに乗った満員電車は尋常じゃないほどの不快感だった。
大した距離を乗らないのに、たったの数分が何十分にも感じられ、やっと聞こえてきた学校の最寄り駅のアナウンスが流れると、ほっと息をつく。地下鉄・JR・私鉄が揃っているこの駅は、朝と夜のラッシュ時には期待を裏切らない混雑っぷりを見せるのだ。一年にしては珍しく、三上の学科は一限の授業が週に一度しかない。その一回の授業も、必修ではなかったこともあり、早起きというよりも満員電車に耐えられなくなった三上は早々に切ってしまったため、今現在彼の朝は毎日比較的快適なのである。そんな個人的な事情も相重なって、一ヶ月ぶりに乗った朝の満員電車は、予想以上に最悪だった。
人の流れに身を任せるように階段を昇って改札に向かう。本日分の体力を半分以上消費したようなだるさと疲労感を伴ったまま三上は学校までの道を歩き出した。大きな横断歩道を渡る学生の中に、三上の知った顔はない。
正門を潜って一番近い校舎の階段下に向かう。三上のお目当ての人物――高桧まりはすぐに目に入った。紺色のジャケットにチェックのスカートをはいて、少し寒そうに佇んでいる。まだ二人の間には数メートル距離があるところで、ふいに彼女が顔をあげ、三上を視界に捕らえた。表情が、嬉しそうに綻んでいく。三上が仏頂面のまま軽く手をあげると、小さく手を振り返してくれた。
「ごめんね、朝早くに呼び出して。亮、今日三限目からだよね?」
「あー、別に。どうせ実験の準備とか、やらねえとまずいしな。それより、これで合ってんの?」
三上が紙袋を渡すと、そうそう!とまりは声を上げた。紙袋から顔を出したのは、大量のプリントで、それは所謂レジュメと言われるものだった。
「取りに行くって言ったのに」
「まあ、俺ん家から学校まで二十分もかからねえし。お前、俺の家寄って学校行ってたら三時間くらいかかんじゃねえの」
「いや・・・さすがに三時間は・・・・でもよかったあ、絶対忘れないようにしなきゃって思ってたのに、昨日うっかり忘れちゃったんだよね・・・危うく発表できないところだったよ、ありがとう!今度プリン奢る!」
「いらねえよ!おら、とっとと行け!授業始まんぞ!」
手で追い払うような仕草を三上は見せた。あはは、と可笑しそうに笑い、けれどもう一度、今度はきちんと「本当にありがとう!」と述べると、まりは足早に駆けていき、校舎の中に消えた。
「いつ見ても可愛いよなあ、三上の彼女」
と、まりが見えなくなったと同時に突然背中からかかった声に三上が振り向くと、同じ学科の設楽が白衣姿で立っていた。その様子から察するに、どうやら昨日は研究室にでも泊り込んだようで、かろうじて開かれた目は光のない、濁った目をしている。院生に従兄弟がいるとかで、一年生のうちからやたらと借り出されている設楽は、三上からすれば哀れとしか言いようがない。
「っつか、なんでわざわざ届けたの?お前、絶対こういうことするタイプじゃねえだろ」
「それだけ彼女が好きってことデスヨネ」
「嘘ばっか」
見られたくないもんでもあったわけ?と設楽は人が悪そうな笑顔を浮かべる。一瞬言葉に詰まってから、「それはお前だろ」と三上は返すと、設楽の白衣のポケットから見えていたポッキーを勝手に頂戴して、研究室へと向かった。
終了予定時刻は17時だったはずの実験が終わったのは、結局21時を回った頃だった。一年の頃からこんなスケジュールでは先が思いやられる、とため息をつきながら、三上は片付けを終えると、まだ話し込んでいる同級生に適当な挨拶をすると、暗い廊下に出た。昼休みには人がごった返す4号館も、こんな時間ともなれば、人影は見当たらない。冷たく重い空気の流れる長く続く廊下を足早に歩いていると、ショルダーバックの中で携帯電話が振動した。
取り出して光る画面に表示された名前に、眉をしかめるけれど、それは一向に鳴り止むことはない。しばらく様子を見ていたけれど、仕方なしに、通話ボタンを押した。
『遅い!』
「・・・・お前な・・・・実験だっつっただろうが・・・・」
携帯電話越しにキンキンと鳴り響く声で捲くし立ててきたのは、藤代だった。どこか外にいるのだろう、車のクラクションや人の話し声に負けじと声を張り上げているようだが、三上からすればいい迷惑だった。
『俺さー、先輩ん家に手帳忘れてない?』
「あ?手帳?お前んなもん持ってんの?へー意外」
『うるさいなあ!で、忘れてないすか?』
どうにか思考をめぐらせてみるものの、手帳なんて小さなものを三上が見つけているはずもなく、「少なくとも俺の記憶にはねえ」とバッサリ切り捨てると、言うと思った!と藤代が不満げな声を上げた。思わず携帯電話を耳元から三上が遠ざけた瞬間、階段を上がってきた同級生にぶつかりそうになり、慌てて手を引っ込める。「あー?三上もう帰んの?あ、電話彼女?」「ちげーよ馬鹿」、その会話を拾って藤代が電話の向こう側で大きな声で笑った。
『でね、先輩。言うと思ったから、俺、今先輩ん家向かってんだよね。あと1分で着く』
「はあ!?おい、俺まだ学校だぞ?っつか大体明日新人戦だろ・・・手帳くらい後でもいいだろ」
『ダメ、見られたら困るもんがいっぱいだし。先輩の寝顔とか』
「嘘付けんなもんお前が持ってるわけねーだろが」
『うん、まあ入ってるのはむしろ彼女の写真だよね。っていうか、俺しばらく空いてないって言ったじゃん、新人線もあるしチームにも顔出したりなんだかんだと年末まで時間ないからさあ、今日じゃないと困るっていう』
「あー・・・わかったわかった、あと20分くらい待ってろ」
言いながら通話を切ると、三上は足早に階段を下った。メールの着信を告げる赤色が点滅しているけれど、また後で確認すればいいか、と携帯電話を無造作にズボンのポケットの中に仕舞い込む。空いた窓から滑り込んでくる冷気に身震いし、校舎を出た。
カンカンと鳴り響く安っぽい階段を昇って見ても、そこに藤代はいなかった。どこで待ってるのだろう、と疑問に思いながらも、耐え切れずに帰ってしまったのかもしれない、とそう判断して、わざわざ電話をしてみたりはしなかった。鍵を差し入れて回そうとして、違和感に気づく。がちゃりと鍵を伝って手に届いた感触は、どう考えてみても、鍵を閉めたものだった。閉め忘れたんだろうか、と焦りながらもう一度鍵を回す。扉を開けるのを少し躊躇っていると、突然内側から開けられた。
「おかえり」
そう言って三上を出迎えたのは、藤代―――ではなく、まりだった。
「・・・・何でいるんだっけ?」
確かに彼女には合鍵を渡してあるけれど、いない時に入る場合は必ず連絡をくれるような人だ。不審に思いながら三上が言うと、まりはきょとんとした表情で、「メール見てないの?」と携帯を持ち上げて見せた。
そういえば着信があったな、と思い出して、わりい、と小さく謝る。
「いや、こっちこそ返信なかったのにごめんね。亮いると思ってやって来て、それでいなかったから慌ててメールしたんだけど。だからメールした時点で既に扉の前だったからさ、ちょっと待ってたんだけど寒いし勝手に入っちゃった」
「あー、いや、別にいいけど。メール見なかった俺も悪いし」
「今度からはちゃんともっと早く連絡する」
いつもより遅いねお疲れ様、とにこやかに微笑んで、まりは中へと戻っていく。三上は玄関先にちらりと視線を落としてみるけれど、そこに見慣れたローファーはない。ということは藤代は来ていないということなんだろうか、とぼんやりとそんなことを考えて、そっと安堵の息を吐いた。
キッチンからは良い香がする。部屋の中にそれは充満していて、実験の忙しさで忘れていた食欲を三上に思い出させた。エプロン姿でキッチンに立つまりの後ろから覗き込むと、フライパンの中で煮込まれるハンバーグが目に入った。
「何、今日はまた突然どうしたんだよ?」
「うん?いや、今日レジュメ届けてもらったし、その御礼。はい!もうできるからテーブルの準備してください!」
固くしぼった布巾を渡され、三上はその場を追いやられた。
小さなテーブルに布巾を滑らせながら、三上は部屋を見渡した。藤代の言っていた手帳らしきものは見当たらない。立ち上がって、朝彼のいた付近を隈なく探してみたけれど、それでもやはり見つけることはできなかった。カーテンを捲ったり、クッションを持ち上げてみてもやはり無い。何か探し物?といつの間にか盛り付けたお皿を持ったまりが後ろから不思議そうに尋ねてくる。別に、と三上は何となく居心地が悪くなって、素っ気無く返事を返した。まりからお皿を受け取ってテーブルへと並べ、小さな食器棚から箸とコップを取り出す。茶切らしてんだった、と三上がぽつりと呟くと「買ってきたよ」とまりがペットボトルを差し出した。至れり尽くせりの彼女の行動には頭が上がらない。
最後に味噌汁の椀を受け取って、そこでまりの言葉に三上はフリーズした。
「・・・・は?」
「いや、だからさっき藤代くん来たよって。あれ?連絡いってないの?連絡してありますって言ってたけどなあ」
当たり前といえば当たり前だけれど、まりはさして気にする風でもなく、立ち止まったままの三上の横を通り抜けると、サラダの容器をテーブルの真ん中に置き、それから定位置となっている南側へと座る。「・・・・何?」と怪訝そうに見上げる彼女の仕草に、三上はやっと動き出した。
「あ、さっき探してたのって、もしかして藤代くんの手帳?それならテーブルの上に置いてあったから渡しちゃったけど・・・・まずかった?」
「・・・・いや、ならいい」
ならよかったとまりはにこりと笑って、それから胸の前で手を合わせると、いただきます、と言って箸を持った。三上も反射的にいただきますとは口にするものの、食べる気にはなれない。
まりには藤代のことを中高の後輩だと伝えてあるし、そもそも男なのだから変な勘ぐりなんてされるはずがないのに、後ろめたさがあるからか、心臓がいつもより早い鼓動を打つ。
「感じの良い子だねー藤代くん。いいなあ、まさに後輩って感じ。可愛い」
「図体はでかいけどな」
「そういう可愛さじゃなくてさー」
他愛もない会話が続く。緊張でざらつく口の中に、ハンバーグを詰め込みながら、三上は前日の出来事を思い出していた。
まりが帰ってすぐに藤代がなんの前触れもなく現われてゲームをさせろだのなんだの言い出し、近所迷惑になるのでとりあえず中に入れて、持ってきたビールを一缶飲んだところまでは、鮮明に覚えているが、その後の記憶には無理矢理蓋をする。そうして朝まで飛ぶわけで、朝早くに突然出かける羽目になったから、部屋の片付けなどしているはずもなかった。
何かまずいもんでも放置してたっけ、とそこまで考えて、面倒になり思考回路を遮断する。まずそもそも藤代という男のせいで悩むこと自体が煩わしく、苛立ちを覚え始めた自分に、三上はため息をつきそうなのをなんとか堪えた。
「マグカップ二つ」
食事も終盤に差し掛かってきたところで、ふいにまりが思い出したように言った。
「マグカップ二つ、そのままだったから、勝手に洗ったよ?あと、お菓子も散らかってたから、いつものところに入れておいたけど」
誰か来たの?と大きな目を逸らさずにじっと三上を見つめてくるまりに、三上は咄嗟に返事が出来ず、やっと出てきた言葉は「・・・・ああ」という最悪なものだった。藤代だと言えばよかったものの、何故それが出てこなかったのか、三上にもわからない。
「実験の準備とかやることがあるんじゃなかったの?」
「いや・・・突然だったし」
聞かれれば素直に答えようと思っていた三上の心境など、当然まりが知るはずもなく、ただ「そう」と短く答えると、話題を急に変えた。完全に言うタイミングを逃してしまい、気まずい雰囲気が漂っている。テレビの中の芸人を見て、面白そうに笑うまりはいつも以上にテンションが高く、空元気だということくらい、三上にもわかる。
まりと付き合い始めたのは、入学してからすぐのことだった。入学式で設楽に絡まれて、数日間サッカーサークルを連れまわされていた三上が、いい加減それに辟易して、「他に見たいところあるから」と嘘を付いて適当に指差したサークルに来ていたのがまりだった。そのままそのサークルの先輩に半ば強制的に新歓コンパに連れていかれ、そこで、まりとは親しくなった。結局三上は入らなかったけれど、まりはそのサークルで楽しくやっているようだ。
藤代との関係がいつ始まったのかなんて、もう覚えていない。
中三だったような気もするし、高校生になっていたような気もする。もちろんどちらも本気ではなかったし、そういう一線引いた冷めた関係だったからこそ、ここまで続いてきてしまったんだなとも思う。
いつでも切ってしまえるはずだった。
「まり」
「何?」
「まりってば」
テレビに視線を集中したまま動かないまりを何度呼んでも振り向きはしない。無理矢理肩を引いて振り替えさせると、大きな目は潤んでいて、けれどそこにはしっかりとした意思があった。キッ、と三上を捉えたら、今度は一瞬だって逸らさない。
「あのな・・・何勘違いしてるのか知らねえけど、昨日来たのは藤代だぞ」
「嘘」
「・・・おい、何でそんなこと、」
「だって絶対嘘!」
耐えられなくなったらしく、まりの瞳からはとうとう涙が一筋だけ溢れた。
「だってマグカップは片方にコーヒーが入れられただけだったもん、つまりその状態で、そのまま離れたってことでしょう?それで戻ってないってことでしょう?」
そんな細かいことから何推測してんたこの女、と三上は内心で呆れる一方感心していたが、今はそういうことを口に出して言い状況ではない。しかしまりが言い切るということは、他にも何か決定的な証拠があったのかもしれないけれど、まりはそれ以上持ち出してこなかった。大体、朝まりに呼び出されて慌ててたから飲み忘れただけだとか、いくらでも言い訳は出来たはずなのに、まりの推測が間違っていないことと、後ろめたさとが相まって、結局三上は何も言い返さなかった。
今日は帰る、とまりが立ち上がる。壁にかけてあったコートを三上が取ってやると、まりはそれをひったくるようにして受け取った。
「言い訳、しないんだね。そういうことなの?」
「別に、言ったってお前信じないだろ」
「・・・・あのね、亮。私がどれだけ亮を好きか知ってる?亮がちゃんと言うなら、信じるよ」
見上げてくるまりは可愛いなと思う。
サッパリした性格で、女特有の面倒なところなんてなかったし、話のリズムだとか、テンポだとか、そういうのだってぴったりで、いい女だなと思う。これから先、まり以上に自分に合う女に出会うことは、難しいだろうとまで思うほどだ。
対して藤代はというと、自分と似ているところだってあるけれど、どちらかと言えば似ていないことの方が多くて、むしろ正反対で、一緒にいてもイライラすることが多いし、大体男だし、一緒にいて得られる利点なんて、今すぐには思い浮かばない程度だった。
「さっき信じなかったくせに」
それでも出てきた言葉はこんな残酷な一言で、それに三上自身が一番驚いた。まりはもう泣いていなかった。また連絡する、とだけ残すと、扉の向こう側に消えていく。
「・・・・サイッアク」
あははははは!と電話越しに藤代が笑った。笑い事じゃねえよ!と三上が怒鳴っても、しばらくその笑い声は止まない。おかしー、と藤代がまだ笑いの収まらない声で言い、それから突然黙り込んだ。
真夜中の静まり返った部屋に、電話越しのはずなのに、藤代の声はよく響く。まりが洗ったと言っていたマグカップを手で弄びながら、三上は次の言葉を待った。なんとなく、次に言葉を発するのは藤代だと思ったからだ。時計を見れば既に12時を過ぎており、そういえば明日朝早いはずの藤代がよく起きていたな、と思う。
『ばっかじゃないの』
冗談交じりでも呆れ声でもなく、ただまっすぐにその言葉だけが聞えてきた。無機質な携帯電話から伝わる藤代の声も、同化してしまったかのように抑揚がなく、返す言葉が見当たらない。
『三上先輩さあ、まりさん気に入ってたんじゃないの?なら優先順位間違えないでくださいよ』
「・・・・咄嗟に上手く言えなかったんだから仕方ねえだろ。あー腹立つ、お前ごときに俺の幸せ持ってかれた」
『何それ。っていうか先輩びっくりするくらい幸せって言葉似合わないすね』
「うっせえ。お前なんて明日の新人戦で負けちまえ」
今の笠井にも伝えておきますね!と藤代がいつの調子でコロコロと笑いながら言い、三上は少しだけほっとした。藤代は、その真偽はともかくとして、割と感情を表に出す方だから、三上は藤代の無表情な声は苦手だった。
夜の静けさの中で、フローリングから伝わる冷たさが想像以上で、全身が冷えていく。ブレンドコーヒーを煎れるために、三上は重い腰を上げた。
「っていうかそういうわけだからお前しばらく連絡してくんな」
『心配しなくてもしばらく空いてないって言ったじゃん』
藤代は、ケラケラと乾いた笑いをし、それから何かを言いかけたところで、『・・・せーちゃん?誰?』と眠そうな女の声がした。そして『んー、部活の先輩。明日の新人戦の開始時間教えろって』という藤代の声が続いた。それじゃあね、と、あっさりと藤代は電話を切った。
ガチャン、とマグカップが床で砕けた。