「ほんとにいた」

上から滑るように降ってきた声に、はすぐさま顔を上げる。

「――っ郭・・・?」










って、休日何してるの?」

郭英士がにそう尋ねたのは今から約一週間ほど前の、終業式のことだった。朝礼からHRまでの間の休み時間。生徒達はどこか落ち着かない様子でさざめいていた。は友達との夏休みの約束を確認し、一人自分の席に戻って教室のなかをただなんとなくぼんやりと見つめていた。皆の顔に、不安と期待が見え隠れしているのは、おそらく通知表と夏休みのせい。自身は通知表について心配などしていなかったけれど、きっとぎりぎりの子たちにとっては色々と死活問題なのだろう。
カタン、と控えめな音が響いて前を見やると、ちょうど郭が席に着くところだった。さっきまで何人かの生徒と話し込んでいたけれど、戻ってきたということは用件は済んだということだろうか。は声をかけようと右手を差し出した。

って、休日何してるの?」

突然振り向いてそう言った郭に、の伸ばした手は行き場を無くし、ふわりと空を切る。

「え・・・休日?夏休み?」
「普段の土日」

あまり、変化しない表情を、は食い入るように見つめていた。
教室のノイズが遠ざかっていく。
いつもそうだった。郭と話している時は、どこか違う空間にいるような錯覚になる。透過性のある薄いフィルター一枚を隔てて外界から微かに隔離されているような感覚。緊張とか歓喜とか不安とか、色々な感情が入り交じった結果に違いない。

「普段、は、そうだなぁ。午前中は図書館によくいるよ。うち、中央図書館まで徒歩一分だから」

郭は?というの問いに対する答えは「サッカー」。なるほど、聞くだけ野暮だったかもしれない。大変だね、は言う。そうでもないよ好きだから、視線を下に落として伏し目がちに笑う郭は、ひどく美しく見えた。これは別にが郭を好きだから、美化されたわけではないと思いたかった。

「へえ、中央図書館、ね」










と郭英士は図書館の渡り廊下にある木製のベンチに腰掛けている。効きすぎていない空調整備と窓から入り込む夏の日差しがちょうどよく、とても気持ちが良い。渡り廊下の先には児童室がある。そのためか、子供たちがぱたぱたとあの特有の足音をさせながら走り回っていく。

「郭は、これからクラブチーム?」

は郭の足元に置かれたスポーツバックを見やりながら言った。黒を基調としたそのバッグは、なんだかとても郭らしい。

「そう。最近は暑いし午前が多いんだけど、今日は午後からだから、ちょっと寄ってみたんだ」

がいるって聞いてたから。

会えてよかったと郭は笑う。笑うというよりは微笑むに近い郭のその表情がはとても好きだった。はっきりとわかるような彼の笑顔をはまだ見たことがないけれど、今はとりあえずそれでも満足だった。加えて紡がれた言葉にも動揺する。他意はないとしても言葉一つでこうも舞い上がるのだから、恋とは驚くほどの威力を発揮するものらしい。「何か借りにきたの?」「に会いにきたんだよ」、これで期待するなというのは酷すぎる。
が手に持っていた真っ赤で小さなハードカバーの本を、郭はゆっくりと持ち上げた。

「これ、面白い?」
「うーん、どうだろ」
「どういう話?」
「んー、図書室の話」
、現国の要約とか苦手でしょ」

そんなことないと例えがここで言ったとしても郭は信じないだろう、それをわかっていた自身はあははと適当に笑って誤魔化した。



「ここ、お気に入りの場所なんだ」



はめいっぱい息を吸い込んだ。
児童室へ向かうように延びているこの渡り廊下は、入り口のある一階とその上の二階の間、つまりは中二階のような位置にある。一階から階段を上がると二階よりも少し下の辺りに通路への入り口がある。そこを抜けると渡り廊下だ。外側から見るとちょうど渡り廊下と児童室がでっぱっているように見える仕組みになっている。渡り廊下の図書館に面した方には大きなガラス窓が張り巡らされていて一階を見下ろすことができる。本を読みつつ、下の階を行き来する人たちを眺めるのが、は好きだった。

って、端とか少し離れたところから人を見るのが好きなんでしょ。教室でもよく皆を見てるよね」

空見てることも多いけど、郭の言葉はそう続いた。
それはあたしを郭が見ていてくれたって解釈していいんですかね、はにやけてしまう口元を覆うような仕草を見せた。差し出された本を受け取り、膝のうえへ置く。
自習室が解放されるのは開館から一時間後。今がちょうどその時間らしく、席取りのために並んでいた長蛇の列がもそもそと動きだしたのが見えた。がその人並みから視線を外してふと横を見ると同じものを目で追っていたらしい郭も、ちょうど視線を戻したところだった。彼と交差した視線に、反射的に目を逸らす。

「まだ時間平気なの?」

逸らした先には都合よく壁時計があった。はさりげなさを装って質問を投げ掛ける。平気だよ、そう言った郭の声が少しだけ笑っているように聞こえた。





「ねえ





しばらくゆったりとした時間が流れてから、ふいにそっと空気を揺らすように郭が言う。自分の名前が呼ばれたことに一種の心地よさと、静寂の時間に波紋が広がるように声が届いたことに対する名残惜しさのようなものを残したまま、は郭の方へ顔ごと向けた。図書館の無音とは違う静寂が、は好きだ。

も、俺のお気に入り、見においでよ。の、教えてもらったし」
「・・・いいの?」
「うん。ただ俺の場合、人によって形成される空間だから、ちょっとわかりにくいかもしれないんだけど」
「既にその説明がわかりにくいよ」

そう?、首を傾げるような仕草をしてみせた郭にが見とれたのは言うまでもない。
もうそろそろだからと立ち上がった郭を見送ろうとも一緒に腰を浮かせたところでそれを制された、「ここ、お気に入りなんでしょ。取られちゃっていいの?」。今のにとって郭の側に勝るものはないのだけれど、はおとなしく意見に従うことにした。



「また、メールするよ。じゃあね」



ひらりと上がった郭の右手。もつられて同じように自分の右手をあげた。





この想いは一方通行なんかじゃない、と思ったの気持ちは、きっと間違いではない。








30.July









written by 夜桜ココ 080727