郭英士は謙遜をしない人だった。

けれどだからといって傲慢だというわけではなく。
郭って頭良いよなぁ、そうぼやいたクラスメイトに「まぁ、それなりに勉強してるからね」と当たり前のように彼は答えた。水面に波紋が広がっていくようにゆっくりと、けれど確実にその言葉は一人の少女――の内部に浸透して、とても心地よかったのを彼女はよく覚えていた。
どうして彼の一言一言はこんなにも私を染めるのかよくわからない、ぼんやりとはそんなことを思った。否、染めるというよりは落ちると言った方が正しいかもしれない。真っ白な空間にすとんと何の障害もなく落ちてくるのだ。

真っ青な絵の具で塗りたくったように些か人工的な色の空を見上げながら、は彼のことを考えていた。
1年生だったころと比べると随分と親しくなったように思う。あの頃はほとんど会話もしたことがなかった。今は席が彼の斜め後ろになったのだから当たり前といえば当たり前なのかもしれない。クラスの中心にいる、ひまわりが咲いたような笑顔が似合うあの子には適わないかもしれないけれど、そこは比較の問題だ。彼女は、どちらかといえば閉鎖的なとは違って、誰に対しても別け隔てなく自分を曝け出して笑う。の場合、よっぽど心を開いた友人にでなければ、あんな風に話し掛けることはできない。決して自分のことを非社交的だと思っているわけではないけれど、話す相手を選んでしまうのはもう大分小さな頃からののくせだった。だから彼が教室に入ってくると、餌と親鳥を待つ小鳥のように、普段どちらかと言えば俯きがちな顔をぱっと上げる自分が、未だに別人のように思えてならない。よく少女漫画で見かける恋する乙女になったのか、とも思ったけれど、残念ながら自身にはあんなにキラキラしたものはないのである。
そんな風に終わることのない思考を巡らせていると、黒板寄りの扉が、がらりと控えめな音を立てながら開けられた。教室と比べると幾分か暗い廊下から郭英士が顔を出す。おはよう郭!クラスで彼と仲の良いサッカー部の男の子が声をかける。は例によって顔を素早く上げると雑然と並ぶ机の合間を縫ってこちらにやってくる彼を待った。

「おはよう、

少しだけ口の端を上げて彼はそう言った。おはよう、が返事を返すのを待ってから席につく。そうした見逃してしまいがちな小さな心遣いが、はとても好きだった。

「最近は朝練、してないの?」

今日を含めた前三日ほど、彼はその他大勢の生徒たちとほぼ同じ時間に登校してきていたので、は不思議に思っていたのだった。
というのも、彼が普段朝早くにひっそりと練習しているのをは知っているからであって。
今年の4月下旬、郭の朝練の風景を眺めることを日課としていたことをが本人に打ち明けると――とは言ってもまるでたまたま見かけたような口振りで話したのだが――気が抜けるほど極々普通の返事が返ってきて、意味もなく体を強ばらせていたはなんだか拍子抜けだった。「うん、俺にとってサッカーは特別だから」、彼はまだ少し肌寒い春の空の下ではにかんだ。何故、まるで何かから隠れるように、さっさと切り上げてしまうのかとか、まだまだには聞きたいことがあったのだけれど、これ以上深く関わることはその時の彼女には不可能だった。

「クラブに早めに行ってやるようにし始めたんだ」

郭は、左の片側だけ埋まっている机の右側に、丁寧に教科書やノートを重ねていく。大きいものが下に来るように順番に。その手の動きさえもが、舞台上の役者にスポットライトが充たるのと同じように輝いて見えるのだから、もういい加減末期なのかもしれない、とは感じた。それでもそれが幸せだと脳から指令が下るのだから、恋する乙女が無敵だと言われるのも頷ける。
バタバタバタ、3〜4人のクラスメイトたちが、上履きと学校のタイルとがあたって発される特有の音を鳴らしながら2人――正確には郭の周りに集まってきた。

「なぁ郭、昼休みに2組とサッカー対決すんだけどさ、人数足んねえから出てくんない?買ったらなんと学食一週間分奢ってもらえるんだぜ☆」
「学食云々は正直どうでも良いけど、サッカーはやってもいいかな」
「まじで!?よっしゃー!郭がいればオレらが勝ったも同然だな!」
「知ってる?サッカーって上手い人が1人いただけじゃ、11人全員がそこそこの人のチームには勝てないんだよ」
「安心しろーオレたちは1人すごくて残り10人がそこそこだから!」
「9人が未経験者なのに?」
「はい、うるさいー!要はやる気だ!」

昼休みに第2グラウンドに集合との旨を伝えると、少年たちは来たときと同じ音を立てながら去っていく。

女の子から見た郭英士という人物は、透明のガラスでできた作り物か何かのように冷たい印象があるのだけれど、男の子にとってはそんなこともないらしい。騒ぎの中に身を置くことをいかにも厭いそうな彼であるが、実はそうでもない。必要以上に騒ぎ立てるのを好ましく思っていないのは確かだろうけれど、誘われて断るような真似はしないのだ。現に今も嫌な顔一つせずにクラスメイトの誘いを受けた。文化祭などの学校行事も、中心にこそいないものの、与えられた仕事はきっちりとこなす。

「サッカー、好きなんだね」

ゆっくりとがそう言えば、郭は真っすぐな目で、まぁね、と答えた。

「っていうか、ごめん」

突然の謝罪の言葉に、はきょとんとした表情を作る。手の中のシャープペンシルをくるりと器用に回しながら、郭も驚いたような顔を見せた。はますます混乱する。

「え、何が?」
「・・・気付いてないと思ってたの?」

チャイムが鳴る一分前。がやがやと教室内の騒音は、朝のピークの時間帯にちょうど差し掛かっていた。耳に残るクラスメイトたちの機械的な挨拶が、みるみるうちに小さくなっていくような錯覚に陥る。郭の言葉の真意を計りかねて、は頬の辺りまで綺麗に伸ばした前髪の奥から不安げな目を覗かせた。何か、謝られるようなことをしただろうか。





、いつも生徒会室の窓から見てたよね」





だから、何も言わずに止めてごめん。





世界がモノクロになっていく。郭の存在さえも周りと一体化していってしまう。の脳内は処理することができない情報のせいで、既に本来の思考回路を遮断し始めていた。

それってどういう意味、そう口にしかけて、ああそういう意味か、と郭の言葉の目的語に辿り着いた。

席に着けーHR始めるぞ!体育会系の教師の叫び声と鳴り響く朝一番のチャイムに妨害されては言葉を形にすることができなかった。



――郭くん、気付いてたんだ。



恥ずかしさと、何故か嬉しさも込み上げてきて、



――私が、郭くんを毎日見てたこと。



火照る頬に両手を充てて、視界に彼が入らないように横を向いた。



――だから、あの時あんな風にあっさり返事を返したのかな。



窓の外には相変わらず青い空。








30.May









written by 夜桜ココ 080530